「あってはならないこと」認定は合っているのか

施設には、一定割合で傷つきやすい大人がいる。

正確に言うと、あと少しの小さい傷で爆発する危険があるところまで追い詰められた大人がいる、だ。

あと少しの、ちょっとしたことが最後の一撃として作用してしまう状態の人は、側から見たら十分「傷つきやすい人」である。

施設事情に詳しい人はウンウン頷いてくれると思うのだけれど、世の中にある大変なお仕事と同じで、あまり余裕を持たせてはくれない構造になっている。

大人だって人間という生き物だ。弱れば、精一杯の威嚇を示して守りの体制を築くのが自然だ。

だけど守る手段が攻撃になって、その攻撃が子どもに当たってしまうと、施設の職員としてはアウトになってしまう。

これは「あってはならないこと」と表現される。

私は子どもが傷つくのは好きじゃないけれど、この「あってはならないこと」という表現が腹落ちしていない。(許されるかどうか、という判断は、極限は当人同士の問題だと思っている。)

だって、ありうるじゃないの。

もちろんプロ意識を持って挑む仕事ならば、アクシデントは格好が悪いし、信用を失えば仕事が来なくなる。傷ついた子どもを癒し、グループを立て直すまでのコストが高い、という経営の観点もあるだろう。

だけど、弱ったら自然に自分優先に機能するのは、大地に雨が降り注ぐのと同じレベルの自然現象。

あり得ることの存在否定をするには、ポケモンのような速さで進化して、失敗し得ないスーパー人類になるか、「そんなものは認識しないし記憶にも残さない」と嘘を突き通すことの2択になってしまう。

でも、どっちもできなくて、それでも何とかしなきゃと思う大人は、間を取って、子どものために自分が犠牲になろうとする。自分を守ろうとする力を自分に向けて放つという自殺行為に出る。(子どもによっては、これを見て「自己犠牲が善」と学ぶかもしれない。そう学ばせたい大人も一定数いそうだ。)

周りの人が止めてあげないと、ちゃんと限界を迎えて、養育者の交代という形で子どもとその家族に影響が返される。心が折れた大人を一人排出する形で。

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もう一点。「あってはならないこと」を通して見逃してはいけないポイントがある。

それは、経験を誰かの気持ちに共感するための糧に変換する作業。次に出会うかもしれない、誰かにかけられた「呪い」を祓う力に変換すること。

「あってはならないこと」を通して、ケースにもよって違うけれども、施設に子どもを預けるに至ったご家族と同じ状態が経験される。

「あってはならないこと」を通して、弱って精一杯の威嚇行動を取る子どもとも同じ状態が経験される。

最近は「しくじり先生」みたいに、失敗の物語を再編して誰かの役に立てようとする動きが見られている。当事者研究とか、起業家の成功プロセス(失敗談もよく書かれている)のように、一個人の物語が誰かの救いになる文化が出てきている。

施設が傷ついた大人を世間体とか、説明責任とかのために切ることは、失敗が許されない社会の再上映にしかならない。行為そのものは「許されなくて」いい。ただ存在は認められてほしい。(当人同士が成長し合い、許し合えることなら、許されてすら良いと思う)

社会的養護の在り方が問われる世の動きの中で、予防も再発防止策も結構だけれど、失敗した人間と、失敗された人間の「その後」をこと丁寧に扱ってくれないか...。

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「あってはならないこと」の当事者になり得る者として、思いました。(傷にならないように躱すことも、自分の傷を自分で癒すのも、一定量できてるから今日の文は書けた気がする)

ゆきちかさん

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!