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見つけてあげるよ

  児童養護施設の検索結果をよりグラデーション豊かにしよう、をテーマに考えを綴っています。ゆきちかさんです。

どうにか継続しています。前回は、子どもが発するものをよく発見し、よく応答することで、徐々に意味の世界における存在として立ち上がっていくものなのさ!…という話をややこしくお話ししました。目に見える付属品をあーだこーだ言う議論に逃げたい気持ちを隠しきれません…。でも、取るべき試みとしてはグッジョブだと思う自分もいて、ネットで反応がなかろうが、誰彼に話してみようと思う考えでもあります。

「その子ども」の存在を発見しよう

今回も言葉にする試みの続きに挑戦したいと思います。とりあえずここ数回分のざっくりとしたまとめをどうぞ。

「普通」と「特別」が常に変化し続けている中で、外見的な「当たり前の生活」に惑わされる議論から離れて、ひたすら本質に迫ろうぜ!?と言う私ことゆきちかさん。一部の人にとっての「当たり前」である「存在が立ち上がること」と、それを促進する応答的な他者の存在を増やしたい。ひたすらコミュニケーションが続く生活の場としての児童養護施設と職員の在り方を掘り下げるぞ!(その流れで社会一般にも通じる言葉を編めたらいいな)

はい。そして今回は「その子ども」を発見する、ということについて書きます。

人は、生物として生きているだけではなくて、一定の共通理解を持って生活する社会的な存在としての一面を持ちますが、社会的な意味を共有する土台を育むためには相応の教育が必要です。そのために、子どもは社会的な存在であり、損なわれてはならない尊厳を持っているということが発見される必要がありました。すなわち、子どもの人権、ですが、これが発明され、今はその考え方が「普通」として思考の土台に置かれています。(現実的には、人権侵害状況がたくさんあるので、人権の理念の達成は「特別」サイドにあるわけですが…)

この流れにおいて重要だと思うのは、そもそも人権があったわけではなくて、激しい人権侵害状況に曝された子どもを文字通り「目の当たり」にして「発見した」ということだと思います。あって当然のもの(=「普通」)が損なわれた、というよりも、目の当たりにした「その子ども」の存在に突き動かされ、その子が持ち得なかった「特別」なものを新しく作り出した、という文脈です。

顔と、名前と、あとはいくつかのエピソードが揃った、ある特定のひとりとしての「その子ども」を「目の当たり」にした個々人が突き動かされ、社会を唸らせる現象を起こしているのもこの文脈に一致します。

「不特定多数の子ども」ではなく「顔を見知ったその子ども」として存在を発見するということが力を発揮させる。…とすると、属性やカテゴリー名に頼らない「その子ども」ならではの情報を集めて、物語として語ってあげられるような他者になり、関係性が「その子ども」にとってのギフトになるように立ち居振る舞うことが求められるでしょう。

 言うのは易しいですが(いやー言うのも苦労しちゃったけど…)、前回もちらりとお話ししたように、一度発見したら終わりではなく、時と共に成長し変わりゆく子どもが発するあらゆることを発見し続け、応答し続けることが必要です。

児童養護施設に来る子ども、という設定をここに持ち込むとすると、発見するための眼差しを送るにしても、それはもう穴が開くほど興味関心の目で見て(でも興味を持たれたくない気持ちにも配慮して控えめな振る舞いをする必要あり)、「その子ども」が手放さざるを得なかったあれやこれやを発見し直してあげる、というプロセスが当てはまります。眼に映る全てのものはメッセージ、とはよく言ったものですね!

はい、「その子ども」の発見についてお話ししてきました。今回はここで筆を置きます。続けて書きたいのは、「その子ども」は何も“子ども”だけに言えるわけじゃないよね、という話です。職員の資質としての“存在上手”“存在させ上手”みたいな話にも手を出したいところ。頑張りまーす。

ゆきちかさん


自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!