コロナが研究生活にもたらしたもの(2)
第2弾です。
前回の記事はこちら。 ↓
さて、今回はコミュニケーションの変化という観点から書きます。
オンライン会議システム(e.g. ZOOM)を使用したやり取りの弊害(?)について言及されたものはSNS上にごった返しています。たとえば、大学関連で言えば、授業終わりの時間で、議論や質問など先生との間でやり取りができないとか、そもそも授業が一方通行になりやすいとか、先生側からすれば学生の様子がわからないとか。
それまで対面でやり取りしていた日常が、ある日突然オンラインでのやりとりに取って代わられてしまうのですから、人びとの間で混乱が生じているのは当然の反応と言えるでしょう。
ちなみに、わたし自身はパソコンの扱いが苦手というわけでもないのですが、オンラインでのやり取りにはかなり抵抗・苦手意識がありました。実際のところ、今でも若干の抵抗があります。
そこで今回は、わたしの具体的なオンラインへの抵抗感について、うまく言語化できるかわかりませんが、書いていくことにします。
メディア(機器)の限界
まず、自身の感じたことを書き始める前に、少し寄り道を。
「メディア」について。
メディアというと、マスメディアという言葉から連想される諸々を浮かべる人もいるかと思います。
しかしこの稿では、この言葉を人間の身体(とくに感覚)を拡張する媒体という意味合いで使いたいと思います。
例を挙げるならば、カメラもメディアの一つです。なぜなら、カメラはその瞬間を写し留め、時として肉眼で見るよりも遠くのものを見られるし、逆に視角をはるかに超える領域を見ることを可能にしてくれるし、被写体をより精細に見ることを可能にしてくれます。その意味でわれわれ人間の視覚というものを拡張していると言えるでしょう。
ついでに言うと、メモ帳・ノートというのも使う場面によってはメディアと理解することが可能かもしれません。「記憶って感覚じゃなくないか?」と一瞬思うのですが、誰かが話していることをメモに取るという時には、聴覚を拡張している!と、やや強引に理解可能です。
このような考え方に基づくと、オンライン会議システムソフトをインストールしたパソコンも、遠くの相手とのやり取りを可能にする、言い換えれば視覚・聴覚からのアプローチで、対面でやり取りしているかのような感覚を引き起こすメディアであるということができます。
ただし、それぞれのメディアは、部分的に拡張・特化したものであるということを忘れてはいけません。
先に例に挙げたもので再度考えてみましょう。カメラは、瞬間を写し取ったり、人間の視覚=肉眼をはるかに超えた世界をとらえることに特化していますが、その一方で写真には音が残りません。夕刻、その写真を撮ったときにに吹いていた生ぬるい風も、近隣の家から漂ってくるカレーの匂いも、写真には残りません。
つまりは、人間の感覚を拡張してくれるけど、それ単体では十全ではないということが言えるのです。このことはメモでも同様です。
簡単に言ってしまえば、メディアは一長一短である、ということになるでしょうか。
そしてわたしにとって、メディアの一長一短という特徴がより顕著になったのが、今回のコロナ禍でした。
普段はパソコンでもカメラでも、便利だ!の一言で終わってしまうものです。しかし、便利だと思っていられるのは身体や感覚が十全に働いていて、それゆえにメディアへそこまで依存していない時であって、コロナ禍の状況下で今まで以上にメディアに依存するようになってからは、メディアはしょせん身体や感覚の”断片”に過ぎないのだということをこの数ヶ月、強く感じたのでした。
気づくというストレス
便利だと思っていたメディアが、突然不便に感じる。これがストレスの1つでもありました。
たとえば、オンラインで双方向型の授業があります。そこでは、パソコンの画面に向かって相手と議論をするわけですが、ここでうまく議論ができないのです。具体的なシーンを考えてみます。
普段、身振り手振りを活用して人にものを話すクセがある「わたし」は、いつもと同じようにパソコンの画面に映っている相手に向かって、何の気なしに手をせわしなく動かします。しかしながら、視界の端に映るパソコンの小窓――自分がカメラにどのように映っているかわかる――には、肩ぐらいまでしか映っていないし、挙句の果てにネットワーク環境のせいだろうか、映像が若干乱れてさえいるのです…
パソコンの前ではカメラの画角に手が収まらない可能性がある。このことに気づいてしまうのです。オンラインでなければ、カメラの画角のことなんて気にすることはありませんが、フレームのなかに入り込むように自分が後に下がったり、あるいは、身振りを小さくしたり。
そもそも自分ではわかっていないけれど、相手に届くまでにたまたまラグが生じているかもしれない…
自宅待機を命じられていた大学院生の日常のささやかな(?)ワンシーンですが、普段と違うことが多くて、それらに常に注意を払わなければならないので精神的にもかなり疲弊します。
「対面(オフライン)だったら、こんなこと気にしなくていいのに。」
長らくオフラインの世界で暮らしてきたわたしは、こうしてしばしばないものねだりに耽るのでした。
空虚なオーディエンス
自分の話していることは伝わっているのか?という不安もあります。
対面なら、即座にうなずいたり、何かしらの反応がふと目をやれば確認することができます。
しかし、オンラインだと、ビデオ画面を切っていたり、フリーズしていたり、必ずしも聞いているかどうかがわからない状況です。
ひとりで画面に向かい黙々と研究構想をしゃべる。なんと空虚な時間か…!
人に見られているとあがってしまうわたしですが、この時ばかりは人の気配が恋しくなりました。話を聞いていくれているという確証が持てない不安も、普段には感じないストレスでした。「でした。」というか、これに関しては現在進行形で続いている問題なので、どうにか打開策を考えたいところです。
メモを取る手元、気づかい
画面越しのゼミでは、手元が見えないことも問題でした。
これは最近になって気づいたことですが、オンラインに移行してから以前よりもゼミでメモを取る量が減りました。理解できているからメモ量が減ったのではなく、メモのスピードが発言者のスピードに間に合わないためです。
従来であれば、手元まで見えた状態で相手と対峙しますから、話す側はメモを取っている人のことを意識して、間を取ったり、ゆっくりしゃべったり、繰り返したりします。そういうことに気づくから行動ができるのです。
しかし、たいていのオンライン会議では顔とせいぜい胸元までしかカメラの画角に収まらず、手元は写りません。このことはつまりメモを取っているということが相手に伝わらない可能性が高いことを意味します。相手の気配りが欠けているとかそういう話ではなくて、メディアの特性上かなり伝わりにくくなっているのです。相当意識していなければ、この点に気づいて相手方に配慮するのは困難でしょう。
オンライン授業で手元が見えにくいことに関しては、自分自身の問題でもありますが、初等中等教育(これに大学の一般教養も含むだろうか)の現場におけるオンライン授業の問題にもなり得るのではないかと思っています。
膨大なメモを必要としない確認作業だけのミーティングなどにはオンラインはいいのかもしれません。しかし、同時並行で作業をしたり、原稿の内容にかかわる膨大なコメントを受けるような授業、あるいはゼミでのディスカッション、これらはオンラインでやることで、アカデミアで過ごす人間を今まで疲弊させているのではないでしょうか。
おわりに
とはいえ、オンラインでのやりとりが増える中で、自身の身振り手振りや、メディアの取り扱いに気づけたことは大きな収穫です。そして、今後新型コロナウイルスの影響が続くのか沈静化していくのかわかりませんが、しばらくはこの窮屈なスタイルで、細やかな気配りがストレスにならないように馴化させていくしかないのかもしれません。
最後はうまくまとまりませんでしたが今回はこの辺で。
おまけ
本稿でのメディアの定義はこちらを参照しております。身体の拡張という考え方は、この本に出会った当時の自分にはみじんもなくて、すごく新鮮だったことを覚えています。
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