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今日の参拝150

富山での仕事を昼頃に終えて、僕は思案する。

どうする、行くか・・?

少し迷ったが、行くことに決めた。
それは、

氣多大社


そう、言わずと知れた、能登一宮である。

2023年の4月、師匠に言われてこちらを訪れた時は、神域で何とも言えない「違和感」を感じながら参拝をしたのだが、それはどうなっているだろう?・・そんな思いがあった。

だが一方で、ここは能登。盾続きに起きた災害については諸説あるわけだが、もしこの地に「浄化」が必要でそれが起きたのだとしたら、事はカンタンなものではない。

それは深遠なものであり、何よりそれはまだ終わっていないかも知れぬ。そこに軽い気持ちでノコノコ・・と言うのは危険にすぎる。

・・そんな気がしていた。

だが行こうと思ったなら行くまでだ。
僕は半島を東から西に横断して、氣多大社に向かう。

そう、僕は慎重だったのだ。

到着したのは15時頃。僕的に参拝にはギリギリの時間だ。僕はある種の「覚悟」をしてお参りを開始する。

さて、改めてご祭神を見てみるに、意味深なお顔ぶれだ。

メインの祭神にオオナムチ(オオクニヌシ)、奥宮にスサノオ(とクシナダヒメ)。この配置は「出雲大神宮」と同じだ。だが出雲さんの場合はさらに奥に「クニトコタチ」がおられる。

話を氣多大社に戻すと、左右にコトシロヌシとククリヒメ。全く対照的な神々。

第一印象は、

静かになったな・・

であった。
前回は、雅楽のCDが大音量で鳴っており、単純に耳障りだったのだけど、それがなかった・・ってのはある。

だが、そこじゃなくて、何と言うか、「氣」が静かなのである。
「いらずの森」も、すっと吸い込まれそうな、そんな雰囲気であった。

この奥に奥宮。

何かがちょっと軽くなったのだろうか?

そんなふうにも思う。
僕の気のせいかもしれないけど、いい方向に変わったのであれば、それは多分いい事だ。

だが、ハッピーな氣、とは思えなかった。厳しさや辛さといったものが感じられる。
安堵ではない、というか・・

本殿に参拝してから、僕の心臓は「ドクン」と強く波打ち、僕にはわからない霊的な部分で、何かが交感されているようにも思われた。

そんな思いを抱えながら、ゆっくり境内を散策し、16時頃に帰路につく。

お宮から見える能登の海。

参拝の折は、

ありがとうございます。


という言葉しか口に出来なかった。他に口にできる言葉がなかったのである。

こうして、甚だお粗末な参拝になってしまったわけだが、それでも行ってよかったと思う。

もし僕の奥深くに何かがダウンロードされたのであれば、それはいずれ発動するだろう。だが、それとて僕の「起動」が前提だ。

この日はまた、海を見たい日でもあった。
美しい能登の海を右手に見ながら、僕はクルマを走らせる。

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