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お釈迦さまに、問う。

かなり生意気なことを書こうと思います。
以前から感じていた、素直な疑問です。

お釈迦さまは王子様の生まれ。だから、何不自由なくお育ちになった。
着る物も、食べる物も、住む処もあったでしょう。

お金もあったでしょう。それを自ら使うことはなかったかと思いますが。

だからお釈迦さまは、それらが「ある」状態で成長された。
十二分にある状態で。

さて。

お釈迦さまが城の外に出られて、そこで「生老病苦」を初めてご覧になった。
そして頭をハンマーで殴られたような、大きなショックを受けられた。
そこで「問題意識」が発生し、出家への道を歩まれることになる。
こんな辛いことが世の中(人生)にあるのかと・・

私達衆生は・・

衣食住が十分に与えられた前提ではありません。
生老病苦は、目の前に生々しく横たわっています。
生きるためには「お金」が必要ですが、それは思うようには手に入りません。

そういう前提で生きています。
そう、お釈迦さまとは「前提」が違うのです。

仏典を齧りましたが、そこにお金の問題はさらっとしか書かれていない印象を受けました。
そしてそれは、聖書においても同じかと存じます。
お金のことは、大きな問題として取り上げられていない。

お浄土に参ることは、人生究極の目的とは思います。
今日より明日だと、それは理解できます。

ですが世界には、「今日」を生きることが難しい衆生が沢山いるのです。衣食住足りて礼節を知る、ではありませんが、彼らにまず必要なのは、「今日」ではないでしょうか。

仏教とてキリスト教とて、帰依するにはお金が必要です。それ無くしては、供養すら叶わない。
「貧者の灯」、これは理解できますが、精神的なものです。

最初のボタンの掛け違い・・こういうことを感じます。だから私は、それより先に進めません。
私の「難信の機」の理由はここにあります。

私はこの疑問に対し、答えがほしい。
生老病苦に加え、あるいはそれ以前に「お金」という問題があるのに、それに対する答えが見つけられません。
そしてそれは、私一人ではないと思います。

波動の低い話かもしれません。
ですが、宇宙に対しこの問いかけをすることは、一度は通らなければならない「道」かと思う次第でございます。

ご無礼をお許し下さい。

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