見出し画像

丁寧な暮らしを義務的に行うことについて

インスタのリールで見かける、丁寧な暮らしを営む人たち。
朝は早く起きて、窓際の席で朝ごはんを食べる。珈琲を淹れてゆっくり読書時間。みたいな。
英語のインスタだと、#aestheticsで似たような動画が山のようにある。どれも早起きして、小さなことに感謝し(ている風)、程よく運動をしている様子が映し出されている。

こういった動画が流れてくると、ああなんて嘘っぽくて作られた世界!と思いつつも、自分自身がこのいわゆる「丁寧な暮らし」を意識し、それっぽい暮らしをしていることに気づく。
朝は6:00に起きて、ストレッチをする。卵焼き、トースト、ブロッコリーと果物という色合いの良い朝ごはんを食べて珈琲を豆から挽いて淹れる。
読書は好きな方だし下手ながら観葉植物を育てている。
カメラも好きなので、毎日ではないが持ち前のソニーのミラーレスカメラで写真を撮ることもある。
こうしたあたかも「丁寧な暮らしですう」みたいな生活をしながら、SNSでそれをaestheticと呼ぶ動画を見ると、
自分が本当にこういう生活が心地よくてやっているのか、それともSNSに映る姿に憧れを抱き近づくためにやっているのかがわからなくなる。
自分は本当に好きでやっているのか、なんなのか!と髪をわしゃわしゃしたくなる気分だ。

この問いに気づいた出来事がある。
それは私がサイフォン珈琲を買った時だ。
珈琲が好きなので道具は色々と揃えていて、デロンギのホーム用エスプレッソマシンなんかもあるし、人並み以上には道具を持っていると自負している。ある日、メルカリでサイフォン珈琲が安く出品されていたので即購入。
サイフォンで作ったコーヒーは飲んだことがないし以前から興味があったのでワクワクして待っていたのだが、実際に届いて開封すると、どうにも空虚な気持ちになった。
あれ、私って本当に珈琲が好きだからサイフォン買ったのかな。それともいわゆる「珈琲好きな丁寧な人」になりたくて、その理想像に近づきたいがためだけに買ったのかな。とわからなくなってしまったのだ。珈琲を飲むだけでいいなら、既にV60もエスプレッソマシンもある。十分すぎるくらいだ。もちろん様々な作り方で味が変わる珈琲に魅力を感じ、もっと色んな方法を楽しみたいという動機からサイフォンを買ったのかもしれない。
だが今の私には、私自身が心からそう思って買ったとはどうしても思えないのだ。
私はただ、インスタによく映る、「リネンのシャツを着た珈琲好きな人」になりたかっただけではないのだろうか。
よくわからない虚無感に襲われながら、珈琲という自分が好きなものを純粋に愛することができていない、向き合うことができていない気持ちになっていたところで、何人か友人に相談してみた。

驚いたことは、そのうちの多くは
「趣味って常に理想像とかがいるもので、その人みたいになりたい。っていうのは必ず付きまとうのでは?だから自然だと思うけど」ということだった。
「私は、丁寧っぽい人になりたいから、カメラもコーヒーも登山も魅力的だし、試しているんだよ」と。

なるほど、そう考える人もいるのか。だが、どの友人の考えも特に腑におちるわけではなく、やはり私は珈琲という存在を大切にすることができていないのではないかと思い続けていた。そんなモヤモヤを脳の隅に潜ませている時、私はある本屋のイベントに参加した。問いに対して自分なりの答えを事前に書いて参加者で読み合うというものだ。ある参加者が、
「もらった花を生ける」という行為が、誰からも見られていないのに、「丁寧な暮らし」を意識してやっているだけではないのか。といった内容を書いてきた。
私の珈琲の話と同じだと思った。その後参加者と話すと、うんうん。どっちかわからなくなりますよね。好きなんでしょうけど。別にインスタに載せるわけではないのに、載せる時のことを意識してしまうぐらい私たちはSNSに考えが支配されてるんですかね。云々。

結局今もどっちかわからないのだ。けれどもし他人からの視線を意識しているのであれば、これ以上それを意識せず、私と珈琲の関係性を育むために、友人たちに対して闇雲に私珈琲好きなんです!と言うのをやめた。

やめたことでどう変化があるかはまだはっきりとわからないが。
これは他者性の問題に深く繋がっている。
本当に規則正しいいわゆる丁寧な暮らしを、人に見せずとも行っている人もいれば、見えない他者からの視線を意識して(意識的にも無意識的にも)自分の行動を律している人もいるだろう。
今日はこのくらいで、
そのうち「他者」についての私の考察も書こうと思う。




いいなと思ったら応援しよう!