アリスの描いた「フェミニズムの極致」 「映画はアリスから始まったBE NATURAL」
さて、前回に続き、ドキュメンタリー映画
「映画はアリスから始まった BE NATURAL」(2018年米国映画、パメラ・B・グリーン監督)
の公開記念で2日間限定で行われた彼女の短編映画上映会で見た作品についてのお話です。
前回紹介した作品以外にも、題名は失念しましたが、パリ・コミューンの中での親子のメロドラマや、のちのチャップリンの映画を彷彿とさせるようなルンペン氏が登場する「銀行券」など、短いながらも魅力的な作品ばかり。
その中でいちばん驚いたのが、「フェミニズムの極致」という作品でした。
ちなみに、今では当たり前のように耳にする「フェミニズム」という言葉ですが、あなたはどんな意味かご存知でしょうか?
「フェミニズム」とは
「女性の権利や男女の価値観などの平等を目指す考え方」
です。
女性の地位の向上や経済格差の解消、女性であることによる不当な扱いに対して声を上げるなど社会運動そのものとして解釈されるようになりました。
また、こうした主張をする人を「フェミニスト」と呼びます。
(日本では以前は女性に優しい男性のことが「フェミニスト」と呼ばれていましたが、それはこのフェミニズムの考え方とは異なります)
「フェミニスト」は、「性別に関係なく全ての人々の平等な権利を願う人」のことであり、その中には男性の権利も含まれています。
つまり、単に「フェミニスト=女性だけを支持する人」ということではないのです。
このフェミニズムの考え方は国や時代によって様々な変化をたどって進化しているのですが、アリス・ギイが映画を作り始めた頃はまだフェミニズムの初期の頃でした。
ですから、その「フェミニズム」をテーマに映画を作ること自体がかなり挑戦的なことであったのでは、と思うのです。
アリスの映画「フェミニズムの極致」では男女の役割を逆転しているのですが、男性たちがどこかしなしなとした身のこなしで家の事をしています。
女性たちは職場では高圧的な態度を取り、男性を公園に散歩に連れ出すと、まるで押し倒さんばかりの振る舞いをし、男性は若い娘のようにそれをかわそうとします。
語弊を恐れずにいうと、昔のステレオタイプの「若い娘を狙う好色な男性」のような振る舞い、なのです。
そして、女性たちはカフェやパブに行って新聞を読んだり、仲間と談笑したり、そこに男性たちが子供を連れてやってきてもてんで相手にしません。
そして、最後には
「結局、どちらかだけが権力を握ったり、どちらかがどちらかを都合よく使うような形では、家庭の幸福も社会の幸福もありえないのでは」
と考えさせられるような形で終わるのです。
(だからこそ「フェミニズムの極致」なのかもしれません。)
でも、性差による社会的役割の差、家庭内労働の差、子育ての関わり方の差、性的な被害(心身共に)などが、短い映画の中で、かなり皮肉も込めて、でもおかしみも込めて見事に描かれていました。
今ならこのような役割逆転の映画やドラマなど珍しくもないかもしれませんが、当時なら衝撃的だったかもしれませんし、
「そうだそうだ!」
と拍手喝采する女性たちもいたのかもしれません。
また、もしかしたらそれまで男女の役割が決められていることにあまり疑問を抱いていなかった人も
「ここまで男女の役割が決められた世界で生きているのか」
と気づいたりもしたのかもしれません。
また、アリスは次第に屋外に出て撮影するようになるのですが、上映会では彼女がパリの街中で撮影した「キャスター付きのベッド」(1907)や「ソーセージ競争」(1907)も上映されました。
ドキュメンタリー映画でもこのように屋外で撮影された場所をたどる部分があるのですが、当時も今も普通に人が通行している場所ですから、撮影は大変だったようです。
1-2台の辻馬車にエキストラを乗せて移動して撮影したそうですが、あっという間に野次馬も集まってくるので、その場にいる人にも頼んで出演してもらったりもしたのだとか。
「メリーに首ったけ」「グリーンブック」などを監督したピーター・ファレリー監督はこういった彼女の作品を「最高だ」と絶賛していました。
このように大活躍したアリスの人生は、結婚して渡米することを決めたことで大きく変わりました。
長くなりましたので、続きはまた次回に。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*今朝、窓を開けて朝焼けに染まった空にびっくり!
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