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登紀子さんの生家の思い出

年末はやはり何かと仕事もあり、
ますます引きこもりがちの毎日になっています。

リモート生活が長引き、
今年もラジオを聴く時間がますます長くなりました。

(仕事の邪魔になるときにはクラシックのCDに変えたりしています。)

ラジオを聴いていて
「ああ、ちゃんと聞きたいな」
「本当ならメモを取りながら聞きたいのに」
と思っても、それができないこともあります。

でも、今はradikoや
NHKの「らじるらじる」などもあって、
あとで聞きなおすこともできるのが
ありがたいところです。

先日、朝の忙しいときに耳にして
「あとで聞きなおそう」
と改めてじっくり聴き直したのが、
加藤登紀子さんの生家にまつわるお話でした。

今77歳の加藤登紀子さんは、
満州・ハルビン生まれ。

1995年、加藤さんはお母様が92歳の時、
NHKのTV番組のために
母娘でハルビンを訪れたそうです。

その前にハルピンを訪れた時にも
加藤さんの生家を探したものの、見つけられなかったのですが、
1995年の訪問時、偶然のようにその家に再会できたとのこと。

1936年?に立ったその家は戸口に建てられた年が書かれていて、
その1995年には取り壊すことが決まっていたそうです。

つまり、ギリギリのタイミングで
加藤さん母娘はその家に再会できたのでした。

「ここの階段から上がった4階がうちの家だったの」
というお母様の言葉に、
通訳の方が交渉してくださり、
その家の中を見せてもらうことができ、
間取りまで全部見ることができたとのこと。

その家は建設された当時は
最先端のタイプのアパートだったようで、
エレベーターはなかったものの、
白い壁で、入り口にキッチンがあって、
真ん中に子供部屋があって、
奥にベッドルームがあってという、
今ヨーロッパで見るようなアパートだったそうです。

(お風呂は共同で階下にあったそうですから、
冬は寒かったでしょうね)

そして、ハルビンの冬は寒いので、
窓が二重窓になっていたのだとか。

わたしも北海道出身なのでわかりますが、
外側の窓ガラスの手前に、防寒のために内側に
もう1枚窓があるのです。

その2枚の窓の間の空間は外気に近い温度なので、
加藤さんのお家ではそこを冷凍庫として使い、
食料を吊るしていたのだそうです。
(当時のハルビンではそれが一般的だったのかもしれませんね)

お母さんは登紀子さんを妊娠中に黄疸の心配があり、
「しじみを食べなさい」とすすめられていたので
毎朝二重窓の間からしじみをおろして
お味噌汁を作っていたとか。

ところが、12月27日の朝、急に陣痛がきて
お母様は急遽入院・出産。

1ヶ月も早く未熟児で生まれてきたので、
当時はほとんど助からず、
お医者さんからも
「(命の)保証できない」
の言葉が。

その時、登紀子さんのお父様は
土下座して
「なんとかしてください」
とお医者様に頼んだそうです。

登紀子さんのお母様は
「だからあなたは生命力がとってもあったのよ」
「あなたは生まれた時には、
まだ生まれるつもりがないくらいのちっちゃな赤ちゃんだったのよ。
本当によく頑張っておっぱい飲んだのよ」
と言ってくれたそうです。

ご両親の愛情の溢れるお話ですね。

懐かしい家を訪れた時のお母様の記憶はすごくて
「ここに幹雄(登紀子さんの兄)の落書きがあるはず」
と言って探されたそうです。

流石に壁は塗り替えられていて
その落書きは見つけられなかったそうですが、
当時暮らした家の間取りを母娘で見られたことは
お二人にとって大きな喜びだったことが
ラジオのお話からも伝わってきました。

人と会う機会も減り、
家族や友人から懐かしい話を聞くことも激減しています。

新型株が出てきて、まだ油断ができませんが、
コロナが収束し
また気軽に人に会って、
懐かしい話をできる機会が増えることを切に願っています。

今回も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

*年賀欠礼のハガキもパラパラといただくようになりました。
年賀状の代わりに、手紙やはがきをお送りしています。

そんな時、せめてもとかわらしい切手を選んでいます。

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櫻木 由紀 Yuki Sakuragi
カフェで書き物をすることが多いので、いただいたサポートはありがたく美味しいお茶代や資料の書籍代に使わせていただきます。応援していただけると大変嬉しいです。