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手術台のメリー・クリスマス(40)
ぼくはベッドのなかで、スマホの写真をタップした。一羽のウミネコの隣で大写しになった美雪の横顔が写っている。海風に額の髪をなびかせている美雪は、黄色いくちばしの赤い先端を自分に向けているウミネコに、そのポーズを真似るように、自分の唇を突き返している。
スマホで撮影した写真のExif情報を開いた。『2024年8月25日 日曜日 7:34』。岸田さんに説明したように撮影場所のデータはないが、撮影日時は記録されている。
岸田さんはIDWAIで美香の写真から解析した撮影場所について、彼自身が納得できる合理的な説明をもとめ、モアイ像を相手にあれこれと話していた。話に出てくる語彙は専門的かつ未来的過ぎて、ぼくにはあまり理解できなかったが、岸田さんが不可解に感じている解析結果の信憑性は、なにをどうしたところで揺らがないらしいことだけは、岸田さんの表情からうかがい知れた。
鹿島さんは岸田さんとAIアシスタントとのやりとりを黙って聞いていたが、モアイ像が発したいくつかの言葉を聞いたときに、めまいをこらえているように額に手をあててみせた。そんな鹿島さんの表情も、岸田さんの心を映す鏡だった。
モアイ像は岸田さんに、この写真が撮影された年代は、当該地点がまだぎりぎり陸地だった二〇四〇年九月から、すくなく見積もっても十五年以上前だ、と主張していた。数式を交えたその根拠は、やはりぼくには難解で理解できなかったが、ぼくにはそれを信じるに足る理由があった。ぼくの記憶している日時とのずれは約一年。まったく、AIアシスタントおそるべし、だ。
あのときぼくが、目を白黒させている岸田さんに、スマホの写真アプリからExif情報の撮影日時を見せてやりたい衝動を抑えることができたのは、彼の隣に鹿島さんがいたからだ。鹿島さんの顔からは血の気が失せていた。岸田さん同様に、AIアシスタントが主張する説明のつかない事実に、鹿島さんも言葉をうしなっていたのだ。
ぼくは決意した。ぼくのおかれた状況を、しばらく時を待ってから、まずは鹿島さんに話そう。
『田村さん、遠慮しないで、したいことをしてよ』
鹿島さんはぼくにそう言ってくれた。
『今まで通り、とまではいかないかもしれないけど、田村さんの身元がはっきりすれば、ひとりで出歩けるようになれる。それまではうちの家族だから』
どれほど奇妙でミステリアスな事実に遭遇しても、病院のCAを辞めるまでしてぼくに付き合ってくれることを選択した鹿島さんが、ぼくを見放すことなどありえない。そんな確かな希望がぼくにはあった。
だけど、とぼくは思った。鹿島さんに事実を話すのは、岸田さんのいないときでなければならない。元来が快活な性格の鹿島さんは、ふだんぼくと二人でいるかぎりは、持ち前の聡明さを発揮し、いろんなことに冷静に対処できる能力の持ち主だが、岸田さんがそばにいるときは、目にみえてナーバスになってしまう。ぼくのせいで鹿島さんがそんなふうになってしまうのを見るのは忍びない。
ぼくはベッドに仰向けになった。枕の位置が好みの高さにまで自動で調整された。リラックスした姿勢で、また別の写真をタップした。美香さん特製のケーキが写っている写真だ。
『2022年11月25日 金曜日 20:23』
その日は結婚して最初のぼくの誕生日だった。学校帰りに迎えにきた美雪と一緒に、美香さんの店へ寄った。美雪が注文し、美香さんが作ってくれた、チョコが主役のハーフサイズのロールケーキ。雪の中を、美雪の運転で自宅へ帰り、てかてかのチョコの表面のホワイトチョコのパウダーに、美雪がナイフをいれる直前に写真を撮った。
『香りがいいから、よく味わってくださいね』
と美香さんが言っていた、生地の中心の生チョコはマジでヤバかった。
美香さんに見せる約束だったあのときの動画は、美雪のスマホに残っている。お礼を言いがてら、クリスマスのケーキを注文しに美香さんの店を訪ねたぼくに、美雪から見せてもらってふたりで笑っていたと美香さんはうれしそうに話してくれていた。
このターコイズブルーのスマホのケースも、美雪からのプレゼントだった。その夜、寝室のベッドにはいるまえに、ぼくは包みを開けた。
『Le vingt-cinq novembre!』
カバー裏面に刻印された金文字を見ていた鹿島さんが、ぼくの誕生日を表すフランス語を、rの音をきれいに発音していたのを思い出した。山の中で救助されたぼくのスマホケース。美雪とおそろいだった、誕生日のプレゼント。
『十一月二十五日は田村さんの誕生日なんだよ、きっと』
石塚ドクターから預かって、ぼくにこれを届けてくれたあのとき、誕生日を言い当てた鹿島さんはそのことをまだ覚えてくれているはずだ。美香さんのケーキが写ったこの写真の撮影日時を見せたら、荒唐無稽なぼくの話のすべてを、鹿島さんは疑いなく受けいれてくれるだろう。
風と共に吹き付けてくる雨の音がはげしくなった。ぼくはスマホを、ベッドサイドテーブルの上にある岸田さんが持ってきてくれたワイヤレスの充電器に置いた。ぼくが枕に頭をしずめると、ゆっくりと部屋の灯りが落ちた。
鳥の声で目が覚めた。ぼくはスマホに手を伸ばした。このところの(といってもそれは二〇二四年時点での話だが)習慣で、平日は朝の六時にセットされていたアラームが鳴っているのだと思ったのだ。
スマホは、あたりまえだが圏外となっていた。そういえば、スマホの時刻はどうなっているのだろう? 時刻の自動更新が止まってしまっているのだから、最後に同期されたときのまま表示されているはずだ。画面左上の時刻は『23:07』。やはりでたらめな時刻だ。
アラームだと思いこんだ鳥の声は、窓の外のリアルなさえずりだった。ぼくはベッドから出て、窓のカーテンを開けた。窓べりに止まっていた鳥が、あわてて飛び立っていった。
ゆうべの嵐はすっかりおさまっていて、窓ガラスを透かして差してくる朝日がまぶしい。
ぼくの様子を聞きつけたのか、階段を上がってくる鹿島さんの足音が聞こえた。ぼくは夜着の前がはだけたりしていないかチェックをし、鹿島さんがくるのを待った。
「やよいさん、おはよう」
ノックが聞こえたのでそう言った。かちりと音がして、ドアのノブが回転した。
「おはようございます」
ドアの向こうに立っていた声の主は、鹿島さんではなかった。