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花明かり(71)

 美子はカーステレオのスイッチを操作し、昨日のテープを引き出した。僕の横から右手を伸ばし、助手席のまえのグローブ・ボックスを開けると、中にあったテープを出して入れ替えた。バッハの『無伴奏パルティータ第一番』が流れた。カセットのレーベルには、美子のボールペンの文字で『BWV 1002 1004 1006 ARTHUR GRUMIAUX』と書かれていた。
 駐車場を出ると、助手席の窓から明るい陽ざしが射してきた。丘の上の住宅街の朝の風景に、ヴァイオリンの荘厳な重音はふさわしかった。ソロの高音部分に合わせて、美子がハミングをした。
「最近、なんですか?」
 僕は運転席の美子の横顔に向かって訊いた。
 美子はハミングの声をとめて、
「最近、って?」
「その……。さっきの話です、あなたのお母さんと川瀬先生が、正式に……」
 美子は僕の話をすぐさま飲み込み、
「籍をいれてから、もうずいぶん経つよ」
と答えた。
「なんでまた、そんなことを訊くの?」
 家を出た父親と一緒に暮らすようになった美子の母のことを、『泥棒猫』と智子は僕に言った。二人は籍はいれていないのだとも言った。なのに美子は自分に嫌がらせの干渉の電話をかけてくるのだと。『泥棒猫』と電話のことはふせて、僕が美子に、智子から籍はいれていないのだと聞かされたのだと言うと、
「智ちゃんは知らないんじゃないの」
と美子はこともなげに言った。
「事実は、あんたが免許証で見たとおり。わたしが免許を取ったのは二十歳のとき。わたしが『川瀬』になったのは、その二年前、大学に入学した年。わたしは『山下』のままでいたかったんだけど、母にしても先生にしても、いろいろと面倒みたいなんだよ、母子おやこで名前が違うとさ。ゆうべも話してたでしょ。あんたも、自分から言ってたじゃない、先生とわたしが同じ苗字だと、ゼミのほかの学生にばれなかったのか、って思ってたんでしょ。疑ってるなら、もう一度確かめてみたら。ほら」
 そう言って、まえを向いたまま、後席に置いたバッグを親指で指さした。
 六年前、と頭で僕は年を数えた。五歳年下の智子は、そのとき中三だ。智子とアップルパイを食べたとき、店のウエイターが呼びかけた『川瀬さん』は、父川瀬と離婚した母が『山下』姓に戻すまえの、父親が家を出ていくまえの智子の名前なのだ。小学校の同級生だったと言ってきたウエイターに、『人違いです』そう言ってだまってうつむき、アラレちゃん眼鏡を深くかけ直していた智子の様子が思い出された。
『わたしには、まだ田村くんに話せていないことがたくさんあるの』
 智子の言葉が頭に浮かんだ。美子の言うように、智子は父親が再婚したことを知らないだけなのかもしれないが、仮にそうでなかったとしても、智子にとっては父親の姓の『川瀬』の名でひとから呼ばれるのは、まだ整理のつかない過去をいじられることではあるのだろう。
「遅くなったね」
と美子が言った。
「間に合うかな」
 僕はパネルの時計を見た。十時をすこし過ぎていた。二講時開始までにはまだ時間はある。試験ではないから、多少の遅刻はかまわない。
「学校の門までは行かないよ」
と美子は言った。
「智ちゃんにばれちゃうから」
「今日は、智子は来ませんよ」
と僕は言った。
「実家に帰ってる」
「あんた、やっぱり坊っちゃんだね。浮気とか、したことないんだ」
と美子は言った。そのもの言いは僕の気に障ったが、ゆうべのことが思いだされると、返すべき言葉が浮かばなかった。
「智ちゃんがいなくても、智ちゃんのクラスの子は来てるんだよ。あんたがこのクルマから降りてきたところを見られたらどうするのさ」
「うわさになんかなりませんよ。そもそもおれは、智子と公然と付き合ってるわけじゃないから」
「そんなことは関係ないんだって。女はみんな、うわさが好きなんだから、よろこんで話題にするよ。あんたが赤いクルマで送られてきてたって、女の子たちが話してるのが智ちゃんの耳にはいったらどうなるか、想像してみなさいよ」
「芸能人じゃあるまいし。そんなこと、だれも気にとめたりはしない」
「あんたのことをひそかに思ってる隠れファンがいるかもしれないでしょうが」
「……かもしれない・・・・・・、はよけいです」
 美子は横目で僕をちらっと見てから、鼻で笑うと、
「智ちゃんの彼氏が、遊び慣れてる男じゃないのは、いいことなんだろうけどね。とにかく、こうなってしまった以上、用心するに越したことはないんだよ」
 バスの通っている広い道に出た。クルマは西に向かって進んでいるが、美子はその用心・・のためか、グルーブボックスからキャッツアイを取り出してかけた。漆黒のレンズに、前方の景色が反射して映りこんでいるのが見えた。
「智ちゃん、怒るだろうな」
 ひとりごちるように美子が言った。僕に聞こえるように美子がそれを口にした理由を考えながら、あとの言葉をしばらく待っていたが、美子はそれ以上は言わなかった。
 第二楽章の変奏まで進んだ曲に合わせ、旋律の高音にからめるように、美子がまたハミングをかぶせた。少女のような澄んだ美子の声が、せわしなく円舞しているソロを追うのを聴いていると、フロントガラス前方の景色が、あたかも映画の回想シーンのコマ送りのように見えてきた。
 僕の頭に、おさない時分の美子とその母親の姿が浮かんだ。同時にまた、その当時はまだ『川瀬』だった智子が母親と二人で食卓について、父川瀬の帰りを待っている姿も頭に浮かんできた。
 モノクロの二組の母と娘のイメージは、斜めに射しこむ淡い日に照らされた平穏な住宅街の風景と二重写しになり、僕の頭の中で交互にくり返された。それはグリュミオーのヴァイオリンに合わせた美子のハミングが終わるまで、しばらくのあいだ続いていた。
 
 文学部の掲示板のまえで肩をたたかれた。智子だった。
「十五分の遅刻だよ。上野先生の『近代文学概論』でしょ」
と智子は言った。
「よかったね、休講で」
 僕は驚いて、
「休みじゃなかったのか」
 智子はうなずいて、
「用事がはやく済んだから、直接来た。一講時の『現代社会論』は間に合わなかったんだけどね」
 さっきの美子の言葉が思い出された。美子の言うように、ニアミスをしていたかもしれない。
「またコピーとらないと。どこかの先輩とは違って、講義はできるかぎりさぼらないようにしてるのに」
「どこのどいつだ、それは」
 智子は僕に肘鉄をくらわせるまねをした。僕はそれを避けるようにしてみせて、
「上野先生の講義、きみも受けてたっけ?」
 智子はかぶりを振って、
「二年生はまだ履修できないよ。わたしは、今日は昼から。田村くんが受講してるのは知ってたから、教室の入り口で来るのを待ってたんだけど、学生はほとんどいないし、先生もこないから、休講なのかなと思って見にきたところ」
 智子の表情に、僕をさぐるような気色はなかった。智子がつづけて言った。
「実家から、電話かけたんだよ」
「いつ?」
と僕は訊いた。
「今朝。八時は過ぎてたかな。あまり朝はやくから起こすのは悪いから、でも田村くんが学校へ来るまえに、こないだみたいに入れ違いにならないように確かめたくて」
「いつもより、はやめには出たんだ」
と僕はとっさに思いついた言い訳をした。
「明け方までほとんど徹夜で読書してたんだ。寝てしまったら目が覚めないかもしれないから、はやく出てきた。二講時目がはじまるまでには時間があったから、講堂で続きを読んでいたら、そのまま居眠りしてしまって、結果的には遅刻した」
 じゃがじゃが事件の当日、僕は朝から出かけていた。智子の電話に呼び出されて夜に訪ねていった僕が、夕方まで美子と一緒だったことを、あのときの智子は勘づいていただろうか。そしていままた、今朝の僕の不在について、智子は僕からなにかを引き出そうとするだろうか。
 僕はおかしな言い訳をしてしまったと、あわをくった。そもそも休講の掲示なんてものは、朝一番から張り出されているのだ。今朝ははやく来ていたと言いながら、いまのこの時間になって掲示板を確認しに来ているのはおかしい。僕はそのことを智子から指摘されやしまいかとひやひやしたが、智子はおだやかな調子で、
「なにを読んでたの?」
と僕に訊いてきた。僕は世界文学全集の『赤と黒』を取り出して智子に見せた。
「読み終わったんだけど、再読してる」
「ジュリアン・ソレル。野心と欲望と恋の物語」
と智子は言った。
「もう読んだ?」
「高校生のときにね」
と智子は言った。
「おませだな」
「ジュリアン・ソレルが信仰と自己の求めるものとのあいだで揺れ動くところが、ミッションスクールの特待生だったわたしには重大な関心事だったの」
「なるほどな」
と僕は言った。そのあと智子は、両親の離婚に際して信仰を捨てることになったのだ。
 僕は思った。双子の姉妹だった美子の母には、智子の母と同様、信仰があったのだろうか。美子が生まれたとき、父川瀬は美子をおそらくまだ認知してはいなかった。だとすれば、父親のいない子を産んだ美子の母は、信仰を続けることは難しかったのではなかろうか。
「お昼で混むまえに、カフェに行かない?」
と智子が言った。手に下げた紙袋を掲げて見せると、
「今朝、出がけに、母が持たせてくれたの」
「お土産?」
「おにぎり。田村くんの分も握ってもらったよ」
「それはうれしいな」
と僕は言った。
「もうすこしで、すれ違ってたところだった」
「ほんとにそうね」
と智子が笑って言った。
「すれ違ってたところだった」という自分の言葉を反芻しながら、僕はあらためてひやっとした。美子の用心・・がなかったら、じゃがじゃが事件の二の舞で、智子の思いを不意にするだけでは済まなかったかもしれない。

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