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手術台のメリー・クリスマス(最終話)

 目を覚ますと、ファンヒーターが停止していた。眠っているあいだに、点火三時間後の自動消火機能が作動していたのだ。暗いリビングの奥で、緑のランプがせわしなく点滅している。ファンヒーターと同時につけていたエアコンのタイマーは六時間で切れる設定なので、フラップからの風は止まることなく、室温は下がってはいない。
 うつぶした姿勢で顔の下敷きになっていた腕を、ゆっくりとテーブルの上でひき伸ばした。しびれがとれるのを待ちながら、キッチンのワークトップの、オレンジのランプが消えた電気ケトルを見た。
 キッチンでコーヒーを淹れようとしていたことを思い出した。いや、寝落ちしたのはコーヒーを淹れたあとだったか。ドリッパーの立てる、ぼこぼこぼこ、という音を聞いた記憶がある。
 左手でテーブルに置かれていたスマホを手にとった。手前に傾けると、ロック画面の時刻が表示された。『12月24日 火 22:36』。左手の指で六桁のパスコードを入力し、スマートリモコンで部屋の灯りを点けた。
 テーブルのマグカップに注がれたコーヒーはすっかり冷めている。
 ようやくしびれのとれた右手の指で画面をスワイプした。Youtubeの画面が出た。中央のリピートマークを押すと、寝落ちするまえに聞いていたGene Autryの“Rudolph the Red-Nosed Reindeer”がダイニングのBluetoothスピーカーを鳴らした。
 
 You know Dasher and Dancer
 And Prancer and Vixen,
 Comet and Cupid
 And Donner and Blitzen.
 But do you recall
 The most famous reindeer of all?
 
 Rudolph the Red-Nosed Reindeer
 Had a very shiny nose
 And if you ever saw it
 You would even say it glows
 
 All of the other reindeer
 Used to laugh and call him names
 They never let poor Rudolph
 Join in any reindeer games
 
 窓のカーテンの隙間から、ヘッドライトの灯りが射しこんできた。静かだった窓の外に、聞き覚えのある排気音がこもって聞こえた。
 積雪のせいで、ドアの開閉音もくぐもって聞こえた。ホーンが鳴って、ヘッドライトの灯りの向きがゆっくりと移動した。不等張エキマニが放つエキゾーストが遠ざかると、もとのような静寂がおとずれた。
 しばらくして、ドアが開いた。
「クルマは置いて帰って、って、あれほど言ってたのに」
 玄関から美雪の声がした。
「ごめんよ」
 ぼくはあわてて、声のするほうへ向かった。
「なんでよ。やんなっちゃうよ」
「ほんと、ごめん」
「心配したんだから」
 沓脱の上から見下ろすぼくの顔を、美雪は紅潮した頬を膨らませて、
「どこかで事故ってるんじゃないかって」
 実は、とぼくは言いかけた言葉を飲みこむと、代わりに、
「美香さんは、どうしてきみを? きみの帰る足がないのを知ってたのかい?」
と訊いた。
「メッセージ、読んでないのね」
「メッセージ?」
「駐車場にクルマがないから、目が点になっていたのよ。そしたら美香ちゃんのクルマが」
 ぼくがリビングに置いてきたスマホを確認するよりさきに、美雪が事の次第を説明した。
——今夜、美香さんが店を閉めたのは、閉店時刻の七時をまわっていた。クリスマス・イブの予約のお客のために、いつもより延長していたのだ。
 店の片付けのあと、九時を過ぎてからクルマで店を出た美香さんは、いつもの通勤路を自宅へ向かった。
 美雪の病院のまえを通りがかったとき、なんとなく気になって停止した。駐車場に残っているクルマは数えるほどだったが、そのなかにぼくのクルマがなかったからだ。今日が例の手術だと、ぼくから聞いていた美香さんは不審に思った。ぼくが店を出るときに、美雪の手術が終わるころに迎えに行こうと思う、と言っていたことを思い出した。それを聞いた美雪さんは、
『お迎えに行くなら、できるだけ早く、病院へ戻ってください。日が暮れるまえに』
とぼくを制して言った。日が落ちると凍結のおそれがあるから、ぼくひとりの運転では危険だと思ったからだ。
 美香さんが七時半過ぎに最後のお客を見送ったとき、雪は降っていなかった。お客は保育園帰りの母親と男の子だったが、美香さんと交わした会話の中で、雪は夕方にはすっかりあがったから、ところどころ道が凍結していると、その母親は話していた。雪は夕方降りやんだのだから、出ていったクルマがあればわだちが残っているはずだが、駐車場のどの区画にも、降り積もったままの、まっさらな雪があるだけで、クルマが出入りした形跡は見えなかった。駐車場にクルマがないのは、もうとっくに帰ってしまったのだろうか。例の手術はそんなに早く終わるものなのか。終わっていたとしても、主治医の美雪が患者を置いて、早々に帰れるものなのだろうか。
 病院の職員出入口と駐車場のあいだで呆然と立ちつくしている美雪の姿を認めると、
「美雪ちゃあん。先生は?」
 対向車線のクルマの窓を開けて美香さんが声をかけてきた。
「迎えにきてたんじゃなかったの?」
 美雪は今朝のぼくとの会話を説明した。ぼくがクルマを運転していたことを美香さんから聞かされ、それなのにぼくが迎えにきた形跡がないことで、美雪は慌てた。
 動転した美雪は、美香さんのクルマを自分が運転すると言ったが、美香さんに諭され、しぶしぶ助手席に座ったらしい。
 美香さんは、駐車場を出ると、走りながら美雪に説明した。
 ぼくが昼過ぎにクルマで店に来ていたこと。
 その時分、除雪されていた道路はウエットで、たとえぼくの運転でも(!)危険はなかったということ。
 日が落ちたら凍結するから、病院へはできるだけはやく戻るように警告したこと。
 クルマがここへ来ていない理由としては、ぼくがまだ家にいるからと考えるのが一番説明がつくということ。
 美香さんはいつも以上に慎重に(と美雪には感じられた)運転でクルマを走らせた。ところどころブラックアイスバーンになった箇所を、たくみに回避した。——美雪の話を聞きながら、ナビシートでうろたえている美雪と、美雪をなだめながら冷静な表情でステアリングを握っている美香さんがぼくの頭に浮かんだ。
「家に着いてクルマが停まっているのを見るまで、生きた心地がしなかったんだから」
「すまなかった」
とぼくは言った。スノーブーツを脱ぎかけた美雪の半身を、沓脱の上から抱きしめた。
「疲れてるのに、ごめん」
 美雪の冷えた髪が頬にふれた。
「きみを一人にはしない」
とぼくは言った。言ってから、かぶりを振って、
「ほんとうは迎えに行くつもりだった。だけど——美香さんの忠告を聞いて、思いとどまった。だから、いまここにいる。迎えには行けなくて、わるかった」
「ばか」
 美雪が顔をあげて、ぼくを見た。
「長靴を」
「うん?」
「脱ぐあいだ、待ってくれる?」
 ぼくはうなずき、美雪の身体に回していた腕をほどいた。美雪は、スノーブーツの雪をバケツの上で払って、黒い靴下を履いた足で沓脱にあがった。
 長靴。サンタさんの靴下。
 ぼくの視線に気づいたのか、
「なに見てるの?」
と美雪が訊いた。
「靴下」
とぼくは答えた。
「今夜はクリスマス・イブだ」
「だから、美香ちゃんの店に行ってたのよね」
 ぼくはうなずいた。
「クリスマスと言えば、今朝、クルマの中でわたしが話してたこと、覚えてる?」
「サンタさんの、靴下と長靴」
 美雪はうなずいて、
「オペのまえにね。出術台の上で、あの子、わたしにまた言ったよ。サンタさん、来てくれるかな、って」
「なんて答えたんだい?」
「だいじょうぶよ、って」
「そっか」
とぼくは言った。
「お母さん、用意してたのかな?」
「もちろん」
「それどころじゃなかったかもと思った」
 美雪がぼくに同意して、
「急だったからね、ドナーが見つかったのが。それに、あの子はまだICU。当分は病室へ戻ってこないから、お母さんが用意したサンタのプレゼントを見るのはしばらく先になる」
「きみも、こんな時間に帰ってきてよかったの?」
 ぼくも美香さんが疑問に思っていたのと同じことを考えていたので、そう訊いた。
「すこししたら、戻らなきゃいけない」
と美雪は言った。
「だけど、約束してたから」
「うん?」
「わたしをひとりにしない。クリスマスはいつも二人で」
「そうだった」
「メリー・クリスマス」
と美雪が言った。
「イブの夜に、間に合った」
「メリー・クリスマス」
とぼくも言った。美雪はうなずいた。
「きれい」
 美香さん特注のブッシュ・ド・ノエルの箱を見ながら美雪が言った。『ケーキ工房MIKA』の包装箱の小窓から、チョコレートでコーティングされたもみの木が見える。ローズマリーの葉と、二つの小さなキノコのメレンゲドール。銀色のNoëlの文字飾りと星の金粉。
「シフォン生地には、きみの大好きな」
「ストップ」
と美雪が言った
「食べるまでのお楽しみ」
 ぼくは笑った。
「ねえ。このあとの予定なんだけど」
と美雪は言った。
「私の考えるプロットでは、サンタに扮したあなたが夜中に病院にやってくる」
「ぼくがサンタに?」
 美雪はうなずいた。
「長靴のはいった靴下を持って。それを目撃した私が、動画に撮るの」
「きみのかわいい患者さんに、あとで見せるため?」
 美雪はうなずいた。
「あの子、お母さんと二人暮らしだからね」
「サンタ役の父親代わりってわけか。いいだろう」
とぼくもうなずいた。
「せわしなくて、ごめんね」
「いいんだ」
とぼくは言った。
「クリスマス・イブは、来年もめぐってくるんだ」
 そうだ、とぼくは思った。来年も、再来年も、これからもずっと、記念日は二人だ。
「来年は、三人かもよ」
と美雪が言った。ぼくは、こちらの世界ではまだ見ぬ娘の、これから生まれてくる美咲のことを思った。
「ぼくの着るサンタの衣装は?」
「去年買ったやつが残してある」
と美雪が言った。
「クルマに積んである。向こうで着替えて」
 美雪が腕時計を見た。
「せかして悪いけど、もう戻らないといけない」
「うん」
とぼくは言った。
「エアメールが届いてる。持っていって、向こうで読むといい。美香ちゃんのケーキは、しばらくおあずけだな」
 美雪はうなずいた。
「じゃ、行こう。もちろん、きみの運転で」
 ぼくはポケットに入れていたキーを美雪に手渡した。
「おだやかに頼むよ。今朝みたいな運転はごめんだ」
 美雪が言った。
「今度こそ、帰りは置いていってね」
 ぼくはうなずいた。
「だけど、こんな時間にタクシーはないよね」
「朝までロビーにいるよ」
とぼくは言った。
「夜勤明けのスタッフに頼んでおいてくれ。帰りそびれたサンタが眠ってたら、起こしてやってくれ、ってね」

(了)

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