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花明かり(70)

 目を開けると、部屋はすっかり明るくなっていた。枕元のデジタル時計は九時三十二分を指していた。照明は点いていないが、夜の闇にかわって、部屋全体を白々とした光が満たしていた。
 僕に背を向けて眠っている美子の、金に近い色のひっつめ髪の毛先が、布団の端からのぞいていた。
 僕はゆうべのことを思い起こした。そしてすぐさま、その記憶を頭から振りはらおうとした。あれは妄想だ。スコッチを飲み過ぎて酩酊していた僕の頭が勝手にこしらえたことなのだ——。
 しかし僕のその努力は、ベッドサイドのタオルを目にしたとき、徒労に帰した。あれはまぎれもない現実だったのだと、あらためて思わざるをえなかった。無造作にくしゃっと置かれた真新しいブラウンの生地には、半乾きのしみが何箇所か付いていた。あきらかにそれはゆうべの僕の精液が固まったあとだった。
 リビングの電話が鳴った。
 僕の隣で、美子が起きあがった。うるさそうに眉をしかめてベッドから出ると、床に落ちていたスウェットを裸の上半身にかぶって立っていった。美子が布団をはだけたときに舞ったほこりが、カーテンの隙間からもれている朝の光に照らされているのを、僕はぼんやりとした頭で見ていた。
「川瀬です」
 電話に受け答えする美子の声が聞こえてきた。聞き耳を立てるつもりはなかったが、寝起きで鼻のつまった美子の声は、開け離していった部屋のドアの向こうから廊下を伝って大きく響いてきた。
「山下はわたしです……ええ、そうです、川瀬の娘です……承知しました、母に伝えておきます……はい、よろしくお願いします。では」
 美子がしめった咳をしてから、受話器を乱暴にフックに架ける音がきこえた。
 部屋に戻ってきた美子の顔を見た瞬間、僕はほとんど反射的に、
「山下、は智子の名前ですよね」
 美子は僕と目が合うまえに一瞬びくっと身体をふるわせたが、
「ああ、びっくりした」
 僕の姿をみとめると、化粧のくずれた顔にはちぐはぐな愛想笑いをして見せて、
「起きてたんだ。おはよう」
「ここは、川瀬先生の部屋ですよね」
「どうしたの?」
 僕は美子の目に、僕の言葉をおもしろがっているのを感じとった。起きがけにねぼけて、突然おかしなことを話しはじめた子供を見ている母親のような目で僕を見返していた。一気に感情が高ぶり、興奮した言葉が口をついて出た。
「先生は、智子の父親でもあるんだ。いまかかってきた電話の相手は、智子のことを訊いてたんじゃないんですか。それを、なんであなたが、智子の名を語って受けてるんですか」
 美子はきょとんとした顔でしばらく僕を見ていたが、
「なにを言いだすかと思ったら」
 そう言って、嘆息をついた。
「違うよ、智ちゃんにかかってきたわけじゃない」
「違うもんか」
と僕は美子の言葉を否定して、
「おれがあなたの家に電話したとき、あなたのお母さんは『川瀬』と名のってた。レンタカーを借りたときも、あなたの免許証は『川瀬美子』だった」
「よく見てるね。ほんと、たいした観察力じゃん」
 美子は笑った。目の縁からマスカラがにじんで垂れているのがレッサーパンダのようだった。僕はばかにされているように感じて、
「なにがおかしいんですか。もう嘘はつかない、って……。信じたおれがばかだったんだな」
 美子はからかうような笑いをとめて、しずかに僕を見た。
「聞いて。ちゃんと説明するから」
 パンダ目のままだったが、表情は真顔に戻って、ベッドに起きあがった僕の横に腰かけ、話しはじめた。
「電話の相手は、うちのママに連絡してきたの。この部屋に、荷物を送ったから、って。まえのママの宛名で。ママが先生の籍にいれる前までの名前は『山下』。わたしも『山下美子』。電話の相手は、籍をいれたのを知らないみたい。説明が面倒だから、わたしも言わなかった。教えていいものかどうか、わからないしね。智ちゃんのお母さんとわたしのママは、二人とも旧姓が『山下』なの」
「そんな都合のいい偶然が、あるわけないじゃないか」
「姉妹なのよ。双子の」
「姉妹、だって?」
 僕は胸をつかれた。
「双子、なんですか……」
 僕は呆然とした頭で、美子の言葉をばかのようにくり返した。
 
 きれいな名前、と智子が言った。僕が智子に部屋へ呼ばれ、二人でカレーを食べた夜だ。
 その言葉を聞いたとき、僕の頭にまっさきに浮かんだのは『美子』の名前だった。
 美しい子と書いて、『よしこ』。
 美子の名をはじめて聞かされたとき、智子は僕にそう言った。
 なので、『きれいな名前』と聞いて、僕が『美子』の名前を思いつくのは極めて自然なことだ。い美子の名を口にするのを躊躇し、口にしないことこそ不自然だ。
 智子はしかし、僕がどんな反応をするか、試そうとしているのかもしれないと、あのときの僕は思っていた。「姦淫・・」の話題は、智子が自分からけりをつけたが、そのあとも美子のことを僕がどう感じているのかを智子が探りたがっているのは明らかであるように僕には思えた。
 僕が美子の名を口にすべきかどうか迷っているうちに、会話の流れに不自然な間があいてしまった。そのあと、智子はそれ以上僕にかまをかけるそぶりは見せず、話題はほかのことに移った。——
 夕方の六時を過ぎると、キャンパスの大通りの人通りがにわかに増えはじめた。野外ステージで行われていたアイドルのトーク・ライブが終わったのだ。
 学生たちがぞろぞろと模擬店に戻ってくるのと同時に、屋台のテントに白熱灯の灯りが一斉にともった。僕と智子はステージの興奮がまだ冷め切らない学生たちに追いやられるように、駅の近くの居酒屋に移動してきていた。一時間ほどまえから開店したらしい店はほとんど満席だったが、折よく店を出ていったカップルと入れ替わりに、僕と智子は奥の二人テーブルに案内され、腰を落ち着けることができた。
「夕飯は、ちゃんとしたものを食べなきゃね」
と智子は言った。僕は朝から僕の胃につめこまれたものを頭の中で順に思い浮かべてみた。クレープ、唐揚げチキン、焼とうもろこし、イカ焼き、アメリカンドック、チョコバナナ、ベビーカステラ、りんご飴、……。
「飲みなおしましょう」
 智子は生ビールを注文した。正直なところ、ため息をつきたい気持ちだったが、僕がきんきんに冷えた生ビールのジョッキをあおるのを見て、智子はうれしそうな顔をした。ひとしきり泣かれたあとだったので、その表情を見て、僕も安心した。
「あのね、田村くん」
と智子が言った。僕が智子を見返すと、
「まえに話した、きれいな名前の話、覚えてる?」
「改名するとか、言ってたよな」
 智子はうなずいて、
「あのときね。田村くん、美子のこと考えてたんでしょ」
 今度はストレートに訊いてきた。僕は当惑したが、うなずいてみせる以外の反応を思いつけなかったので、仕方なくそうすると、
「いいのよ。わたしも美子の名前を頭に浮かべてたんだから」
と智子は言った。その言葉の裏にある感情を読みとろうとしたが、智子が発した声の調子と同様に、智子の視線に僕をなじる色はなく、
「あのときは、遠回しな言い方して、ごめんね。わたしに向かって、美子の名前なんか出すべきじゃないって、田村くん、思ってくれてたんでしょ」
「へい、お待ち」
 アルバイトの店員が串カツを運んできた。智子はキャベツに載った串を手に取ると、それをくるくる回しながら、つづけて話した。
「『美』のつく名前はうらやましい。美子が美人かどうかは別にしてね。だけど、一度しか顔を見ていない田村くんの記憶にしっかり残ってるくらいだから、たぶん美子は世間的には美人なんだろうね」
 わたしはそうは思わないけど、というような顔をしてそう言った。『一度しか・・」を強めて皮肉った言い方ではなかったが、声の調子に僕への当てこすりが感じられた。僕はしかし、それには気づいていないふりで、
「きみは、名前のとおり聡明だよ」
「美人だ、とは言わないんだね」
「そんなことはわかりきってるから、あえて言うまでもない」
「頭がからっぽでも、美人のほうがいいんでしょ」
「かしこい美人がいい」
「そんな子、そうそういないわよ」
「うちの高校には二人、いたぜ。偏差値七〇の、有名な美人が」
と僕は言った。
「七〇? 田村くんの高校、学年全体で何クラスあった?」
「十二クラス」
 智子は自分の取り皿の上に、割りばしの先で数字を書いて、
「偏差値七〇って、上位二パーセントだよ。一クラス五十人として、六〇〇人。女の子はその半分、ってことは、その子、三〇〇人の上位六人?」
 僕はうなずいて、
「ほんとうにきれいな子だったぜ。きみには負けるけどな」
 智子は言葉のあとのほうは無視して、
「その子が好きだったんだね。告白したりした?」
「まさか」
と僕はかぶりを振った。ジョッキのビールを飲み干した。
「きれいな子だったけど、好きとか付き合いたいとか、そんなふうに思ってたわけじゃない。そもそもおれなんかに、鼻もひっかけてはくれないよ。ちゃんと彼氏もいたしな。その子の彼氏は双子の片割れだった」
「......双子?」
 智子は僕の顔を見た。僕はうなずいて、
「一卵性双生児」
 僕は出し巻きにそえられたおろし大根に醤油をかけながら、言葉を続けた。
「ふたりとも、ほんとそっくりでさ。一度そいつ、授業中に、クラスの違う弟と入れ替わってたことがあったんだけど、教師にはまったくばれなかった。きわめつけは、そいつの弟が、そいつのふりしてその子とデートしたときのこと」
「やめて!」
 智子がテーブルのおしぼりを僕に向かって投げつけてきた。僕は驚いて、とっさにそれを避けた。智子の顔を見た。
 智子の声に驚いたまわりのテーブルの客も、なにごとかと、僕らのほうを見ていた。
 智子は肩を震わせながら、首を横にふって、
「聞きたくない、そんな話。双子を笑いのネタにするなんて、最低」
「なんなんだよ、いきなり」
と僕は言った。
「べつに笑いのネタなんかじゃない。本当のことなんだ」
「なおさら不愉快だから、やめて」
 智子はテーブルの下に落ちたおしぼりを拾った。固まった表情でそれをもとどおりまるめ、テーブルの自分の側の隅に置いた。
 智子はだまってうつむいた。周囲の客たちは、それ以上の興味を僕らにむけることなく、またそれぞれの談笑に戻った。智子は依然、うつむいたままだった。
「謝るよ」
と僕は言った。
 双子の弟がその子にキスをしようと腕を回したとき、たちまちばれてしまった。なぜばれてしまったのか、その理由をそいつは話さなかった——そんなことを、僕は智子に話そうとしていたのだが、智子の言うように、たしかに品のない話だった。
「悪かった」
 あのときのことを、僕は思い出した。そのことを双子の兄のほうから聞かされた僕らは、その話をおもしろがった。実際はキスだけではなくセックスまでして、それがいつもと違うやり方だったからばれたんじゃないのか、などと口々にはやしたてた。その場に弟も呼び出して、もっと下品なことを言い、兄弟二人をからかった。
 偏差値七〇のその子は、僕らが二人にしていることを気にしているふうは見せなかった。冷ややかに無視し通しているように見えた。はたで聞いていた女の子たちも、だれ一人笑ってはいなかった。双子の兄とその子はまもなく別れた。
「そんなふざけた話をしたら、今度は許さないから」
 智子はうつむいたまま、そう言った。たしかに最低だ、と僕は思った。双子の兄も弟も、その話をおもしろがっていた僕や友人たちも。

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