手術台のメリー・クリスマス(42)
ぼくはやよいさんに、生活していくうえで必要不可欠な家事を、できるかぎり自分でしたいと申し出た。やよいさんはぼくの思いを理解し、承諾してくれた。
ただ、二〇四八年のライフスタイルの多くは、ぼくが実行できる範疇から大きく逸脱していた。離れの建物こそ、ぼくの慣れ親しんできた思い出の実家だったが、キッチンも洗濯場もバスルームも、そこに設えられた器機は、それがなにをするためのものなのかすら見当がつかないものにとって代わっていた。ぼくはやよいさんの手を借りずには、コーヒーを淹れることすらできなかったのだ。
そんなぼくのおかれた状況を、やよいさんはぼくが説明するまでもなく理解してくれていた。言うなればぼくは、身辺自立を目標としている思春期の少年で、やよいさんはぼくのよき教師だった。やよいさんはぼくのニーズを汲んだ、適切な支援を施してくれた。
器機の操作方法は、一から教えてもらう必要はなかった。それをなにに使うか、それでなにができるかさえわかれば、直観的に操作できた。二〇二四年の複雑な都心の地下街でも、目的地さえはっきりしていれば、スマホの地図アプリの助けがなくとも一人で歩けていたようなものだ。器機にはAIアシスタントも付属していたが、それらに頼る必要はほとんどなかった。もっともそれは、ぼくが打ち当たる困難を的確に予見し、先回りしたやよいさんの配慮のおかげでもあった。
『みどりの里』の離れでの生活には、新しい物事に適応するだけでなく、別の側面もあった。ぼくはふとした瞬間に、この家で暮らしていた、高校生だった当時の空気感のようなものに出くわすことがあった。例えばそれは、柱や天井の模様だったり、屋根にあたる雨の音であったりした。記憶の底から、色や匂いや触感をともなった思い出のイメージが数珠つなぎになって沸き起こった。そんなとき、ぼくはなつかしいこの離れが、二〇四八年の世界であることをしばし忘れた。ぼくはこの家で暮らしていた当時に流行っていた曲を、リビングに備え付けられたスマートリモコンで選曲して聴いた。
ここがもし、すべてが一新された生活空間であったなら、ぼくの神経はとうに参ってしまっていたかもしれなかった。知己のいない世界に独りきりでいるという不安を、なつかしい記憶がなだめてくれた。ぼくは、やよいさんに、美雪との生活の断片を安心して語り、やよいさんもぼくの話に耳を傾けてくれた。
そんなわけで、『みどりの里』の離れでの生活の最初の一週間が過ぎた。ぼくはこの期間で、炊事、洗濯、掃除といった一通りの家事を、やよいさんの手を借りずになんとかこなせるくらいのスキルを獲得することができた。
その日は、まもなく雨の予報だった。ぼくは一昨日から始めた朝食後の散歩をやめ、リビングのソファに腰かけていた。やよいさんは、手持ちのATMの画面を見るともなしにながめて、ぼくの淹れたコーヒーを飲んでいた。
ぼくはこの家に来たときに、水本さんから聞かされたことをやよいさんに話してみた。
「オーナーが、つまりきみのお母さんの恵子さんがこの土地を買ったときに、この家はここに建っていたんだって?」
「ママじゃないよ」
とやよいさんは言った。
「水本くんは勘違いしてるの。田村さんに話したこの土地を買ったオーナーというのは、ここの創設者。ママのママ、つまり、わたしの祖母」
「きみのおばあちゃん?」
やよいさんはうなずいて、
「ばあちゃんは、私が生まれるまえに死んじゃったから、くわしくは知らないけどね」
やよいさんはATMの画面を操作して、ディスプレイに投影した。『みどりの里』の案内が映し出され、『沿革』と書かれたバナーをクリックした。
創業者 鹿島順子 1984年生
ぼくと同じ年の生まれだ。もちろん口にはしなかったが。
2007年 介護福祉士国家資格取得
2010年 看護師国家資格取得(現医療ケア・アドヴァイザー国家資格)
「『介護福祉士』につづいて、ナースの資格も持ってらしたんだ」
「『ナース』って、CAのことだよね。ここに書いてある『看護師』」
「やよいさんとはじめて会ったとき、そんな話をしたよ。やよいさんはぼくに、考近代遺産学の教授なんじゃないかって言って驚いてた」
やよいさんは笑って、
「ばあちゃんは、十九でママを生んでから、資格を取ったんだよ」
「すごいなそれは」
「ママが私を生んだのも十九」
「若く見えると思った」
「二〇〇四年生まれだから四十三歳」
「『みどりの里』の創業は二〇一四年。やよいさんが生まれる十年まえだね」
二〇一四年は平成二十六年、鹿島順子さんが三十歳の年だ。ぼくも同い年だから、計算しなくてもそのときの元号は覚えている。四月から消費税の税率が八パーセントに引き上げられ、オバマ米大統領が日本を訪問した。新たな万能細胞として、理化学研究所が発表した『STAP細胞』をめぐる一連の騒動と、iPS細胞を使った世界初の手術が実施された。その当時、美雪は医学部の一年生だったが、ぼくらは定期的に手紙や電話でやりとりをするようになっていた。
美雪は、患者さんへの網膜色素上皮シートの移植に成功したというニュースを見ながら、『滲出型加齢黄斑変性』という難病について、ぼくに電話で説明してくれた。
「網膜の中央には黄斑っていう、光を感じる細胞が密集している部分があるの」
九月半ばの、まだ暑い日だった。
「その細胞が、極めて鮮明な像をつくり出すことで、私たちは目が見えるのね」
美雪の黒目がちの瞳が、ぼくの頭に浮かんだ。
「お年寄りの目が見えにくくなるのは、この黄斑の加齢に伴う損傷が一般的な原因。加齢黄斑変性には萎縮型と滲出型の二種類があってね。最初はみんな、萎縮型。萎縮型は、わかりやすく言うと、黄斑の細胞が少なくなることで起こる。黄斑の組織が薄くなっていくのね。そのうちの一〇パーセントくらいが、途中で滲出型に移行する。滲出型は、黄斑の下にある脈絡膜っていうところに異常な血管が増えて、そこから血液が漏れ出すの。この異常血管から出血した場合は、急に視力が損なわれることもあるの」
齢をとったぼくに、突如美雪の姿が見えなくなる。そんなおそろしい想像を打ち消すように、ぼくは頭を振った。
「傷んだ黄斑を元に戻すことはできないけど、この手術では、ここに患者さん自身のiPS細胞由来の網膜色素上皮細胞のシートを移植したの」
あのときの会話を、細部まで覚えているのには理由がある。遠距離電話で美雪が熱く語りかけてきた治療と手術の解説は、ぼくには愛のささやきだった。ぼくは、いま話してくれたことを手紙でも書いて寄こして欲しいと美雪に頼んだ。
「きみからの電話でこんなに長い会話をしたのは、今日がはじめてだ。記念に残しておきたい」
美雪は笑って承知した。手紙が着くと、ぼくは美雪の肉声を思い出しながら、その手紙を何度も読み返した。医学部を卒業後、医師臨床研修を終えた美雪は再生医療の専攻医となった。
『かならず、たすけてみせる』
あの日から十年後の二〇二四年クリスマス・イブの朝、積雪した道路を病院へ急ぐクルマの中で美雪は言った。主治医として担当している女の子の腎移植手術をするために。——