大晦日とインフルエンザ
大晦日の朝の、遅い食事を済ませた。そのあとから、ずっと頭痛がしている。不定期でぶりかえす歯肉炎のせいだ。
「痛み止めはどこだっけ?」
僕は右のこめかみを指で押さえながら、リビングの棚の引き出しを見た。
「薬はそこじゃないわよ」
と妻が言った。
「一つ上の段」
言われた引き出しを開けた。感冒薬、胃薬、絆創膏、消炎パップ剤、抗生物質入りの軟膏、目薬、滅菌ガーゼ、ピンセット、はさみ、体温計——。それらが整然と並んでいる中から、鎮痛剤の箱を手に取った。折りたたまれた説明書に挟まったPTPを抜き出した。中身は空だった。
「頭が痛いんだ」
と僕は答えた。箱ごとくずかごに捨てた。
「さっき、最後のゴミ出しをしたところなのに」
妻が洗い物をしていた手をとめ、振り返って僕に抗議した。
「中身もちゃんと分別してね。薬の買い置きは、そこにあるのが全部」
僕は一度捨てた箱を拾い上げた。中身の紙の説明書と、一錠も残っていないPTPの殻を取り出し、雑紙入れとプラごみ袋に捨て直した。
「無くなったときに言ってくれないと」
「歯茎が腫れてるんだ」
妻の苦情には取りあわずにそう言った。頬骨の下にも鈍い痛みがある。
「買ってくるよ」
「待って。出かけるなら、ついでにお使いを」
妻がシンクの水を止めると、扉に吊るしたタオルで手を拭き、その手でメモを書いて僕に手渡した。
「ほかにも要るものを思い出したら、追加で連絡するから。レジに行く前にスマホを確認してね」
ダウンを羽織って家を出た。師走になると、クルマも自転車も、何をそんなに急いでいるのか不思議なくらいに忙しなくなるものだが、昼前の大晦日の町は昨日までよりはやや落ち着いているように感じられた。それもしかし、神社仏閣の多いここいらでは比較的に静かなのは夕方までで、日が暮れるころには一足はやく二年参りに出てくる人で、そのまま三箇日モードに突入するのが常だ。
地下街の階段を降り、行きつけのスーパーに入った。開店直後だからか、僕のほかに客はいなかった。
渡されたメモをポケットから出して、見た。たまご一パック、玉ねぎ二個、油揚げ一枚、カットわかめ、もやし一袋。それらのリストを見ながら、順に店のかごに入れ終えると、僕は右の頬に手をあてた。やはり歯茎は痛かったが、鎮痛剤ですぐに落ち着くだろう。買い物リストにはないマカダミアナッツのチョコとドライフルーツの詰め合わせを加えて、無人レジに向かった。
スマホを取り出し、妻からのメッセージに追加のリクエストが来ていないのを確認してから、支払いアプリを立ちあげ、バーコードで決済した。買い忘れたものがないか、レシートと買い物リストの両方と照合しながら、出がけに託されたトートバックに順にしまった。
店を出て、三軒隣のドラッグストアへ向かった。
中に入るなりカウンターに行き、店員に鎮痛剤の名前を言った。
「どのような症状ですか」
薬剤師であることを示すネームプレートを胸につけた、二十代後半くらいの女性の店員が言った。
「頭が痛くて」
「それは、いつから?」
「三十分ほど前かな。遅い朝食を済ませたあとで、痛み出したんです」
「痛みは、どんな感じです?」
「ぼんやりした傷みが、ここらへんに」
と僕はこめかみを指で示し、
「上の歯茎も」
「痛みは、今回が初めてですか?」
僕はかぶりを振って、
「ときどき痛みます。この前は三箇月くらい前だったかな」
「どこか病院へは、かかっていらっしゃいますか?」
「歯医者に。定期的にメンテナンスで受診しています。それがですね」
十二月最初の土曜日に受診する予定だったのを、仕事で忙しくてキャンセルしたのだと僕は言った。店員はちょっと考えるような仕草で、
「痛いのは、歯茎とこめかみだけですか?」
「半年前から痛み出した右手首の腱鞘炎。あと、肩こりも」
「肩こり? 関節とかは?」
「言われてみれば、痛いかもしれない」
と僕は答えた。
「お熱は?」
「計ってないですね」
と僕はマスク越しに言った。
「コロナも治まってきたから、店には検温計は置いてないですよね?」
同じくマスクを付けた店員は、うなずいた。
「だけど実は、持ってるんですよ」
そう言って、僕はトートバックの内ポケットから非接触式の検温計を出した。持ってきたトートバックは、妻が買い物をするときのものだが、娘が幼かったころからの習慣でいつも持ち歩いている、それが入ったままなのだと、僕は店員に説明した。
「家に戻って計ります」
「今ここで計ってもかまいませんよ」
と微笑をくずさずに店員は言った。
「では、失礼して」
僕はそれを自分の手首に当てた。電子音が鳴って、デジタルで体温が表示された。
「七度二分」
と僕は言った。僕が画面を見せると、店員は眉根を寄せ、
「熱がありますね」
「平熱が高いんですよ、もとから」
「平熱はどれくらい?」
「六度九分」
店員はまたしてもしばらく考えるような顔をしていたが、
「肩や関節の痛みはひどいですか?」
「それほどでもない」
僕はかぶりを振って見せた。
「ご自宅は遠いのですか?」
「すぐそこ。徒歩で十五分」
「お帰りになったら、もう一度計って。これ以上熱があがってくるようでしたら、できれば医療機関を受診してください。今日は大晦日だけど」
「救急安心センター」
と僕は言った。店員はうなずいて、カウンターの後ろの棚を確かめた。巻貝のように品よくくるんとまとめた後ろ髪の、襟足のほつれが揺れた。
店員は僕が求めた鎮痛剤ではない、アセトアミノフェンの錠剤をカウンターの前に置き、
「仮にもしインフルだったりした場合に備えて、合併症を引きおこすリスクのないこちらのほうがよろしいかと。解熱作用があるから熱は下がりますが、発熱はウイルスに対する免疫反応なので、経過を見ることが早い回復につながります。辛くなければ、すこしがまんなさって様子をみてください。熱がなければ、頭痛と歯の痛みも、これで治まると思います。腱鞘炎も、楽になるといいんだけど」
と言った。
「ではそれを」
と僕は言った。
「こちら、お印でもかまいませんか」
僕はうなずいて、アプリのバーコードを提示した。サンゴを散りばめたようなネイルの人さし指でコードリーダーを操作して読みとると、プリンタから出てきたレシートと併せてテープを貼った箱を僕に手渡して、
「お大事になさってください」
「ありがとう。よいお年を」
僕は礼を言って店をあとにした。
僕がまだ大学生だった年の暮れに、インフルで高熱を出した当時の妻が、一人で下宿にいたのを見舞ってことがあったのを思い出した。
同じ大学の後輩だった彼女とは、その年の秋に付き合い始めた。初めての二人のクリスマス・イブの夜、いつから帰省するのかと訊ねた僕に、
「実家に帰っても、年末年始はだれもいないもの」
と彼女は言った。
「母は仕事。大晦日も三箇日もね。休暇は二月に入ってから。それも土日と合わせて三日間だけ。そのころは大学も休みだから、帰るのはそのとき」
妻の母親は看護師だった。勤務は三交代のシフト制だ。中学生の時に父を交通事故で亡くして以来、大学に入学して家を出るまでは二人暮らしをしていた。
「だから、大晦日は一人で紅白。よかったら来て。おそば作るから、一緒に小林幸子を観ましょう」
その大晦日の三日前に、彼女は高熱を出した。駆け込みで内科を受診し、診断結果はインフルだった。
「来ないでね、伝染るから」
と彼女は電話で言ってきた。
大晦日の朝も、来ないようにと、僕に電話で念を押した。僕はそれを無視し、部屋へ行った。ドアホンを押すと、扉越しに彼女の声がした。
「合鍵、持ってるでしょ。一分経ったら、勝手に開けて入ってきて。入るときに、ちゃんとドアのチェーン閉めてきてね」
ドアの向こうで、チェーンが外れる音がした。僕は頭の中で六十秒カウントしてから、鍵穴に鍵を挿し入れて回し、部屋へ入った。
ベッドの布団から首だけ出して、まだ鼻声で、咳込みながら、
「伝染っても知らないから」
「熱は?」
「今朝から下がった。四十度越えたときは、さすがに死ぬかと思った。夜中にね、怖くなって母に電話したの」
「心配してたろ」
と僕がベッドの前にかがんで、顔を覗きこもうとすると、
「ぜんぜん」
と彼女は言って、仰向けになっていた身体を横に向け、僕に背中を向けると、またすこし咳きこんで、
「おそば作るって約束してたのに、ごめんね」
と言った。
「だけど、いきなり来るなんてひどいよ。ずっとお風呂にも入ってなかったのに」
「悪かった」
と僕は言った。彼女は僕のほうに顔を向き直して、
「でも、ありがとう、来てくれて」
と言った。——
そんなことを思い出しながら階段を登って地上に上がったところで、ポケットのスマホが震えた。画面にメッセージの通知が来ていたので開いて見た。
留学している娘からだ。
カナダの留学先とは十七時間の時差がある。スマホが示している現在時刻は十時三十四分だが、娘のいる向こうではまだ夕方の五時台だ。
『お正月にはまだ早いけど、そっちの年明け時刻に、こっちはまだ大晦日の早朝だからね』
スタンプには『よいお年を』の文字が添えてある。年が明ける一日午前零時に、バンクーバーは大晦日の朝七時なので、挨拶は年始ではなく、年越し前に、ということらしい。
娘への返信の文面を考えながら、写真屋の前にさしかかった。降りたシャッターの、門松のイラストが描かれた年末年始の休業の貼り紙を見ながら、娘を連れてこの店にパスポートを申請するのに必要な証明写真を撮りにきたときのことを思い出した。
ついこないだのようだが、あれからもう、一年半が過ぎようとしている。コロナが一定おさまって、娘の高校でもようやく海外での研修が再開し、シンガポールでの一週間のショートステイへ行った。その娘が、この春には大学生となり、秋には念願だった留学先のバンクーバーへ一年間の予定で旅立っていった。
『遅くなったけどメリークリスマス』
句点代わりのツリーの絵文字のあとに、寮の友人と並んで撮った写真が送られてきていた。二人ともにトナカイの角のカチューシャを付けていた。
家に戻ると、妻が電話で娘と話していた。
「おかえり」と僕に言って、
「パパが帰ってきたよ」
電話の画面を僕に向けた。
「ハーイ、パパ」
と、画面の奥に映る娘に応えて手を振り返した。
「既読付いてたから、見てくれてるよね」
「今返そうと思ってたんだ」
と答える僕の隣で、
「インフルにかかったんだって」
と妻が言った。
「そうなのか?」
と僕は驚いて言った。
「こんな年末に」
呆れた声の妻に、娘は、
「ママだって、人のこと言えないじゃん。学生のときに、見舞いに来てくれたパパに伝染したんでしょ」
「そうだよ」
と僕は笑って、
「知ってるのか?」
「今話してたところよ」
と妻が言った。
「病院へは行ったのか?」
娘はうなずいて、
「薬ももらってきた。それがさ、すっごく高かったんだよ。本当にごめんなさい」
「お金のことは気にしなくていいんだよ」
と僕は言った。
「デビットカードの残額は、まだあるよな?」
「大丈夫、こないだママが入れてくれたから。ところでパパは、なんでマスクしてるの?」
と娘が言った。
「外に行ってたからさ」
と僕は答えた。顔を見せてほしいと言いたいのだと気づいて、外そうかと思ったが、妻が隣にいるので思い直して、
「歯が痛いから痛み止めを買ってきた。切らしてたんだ」
と言った。そのあとで、なんとなくこらえていた咳ばらいをしてしまった。妻が疑わしそうに僕の顔を見ているのに気づいたが、
「寮の友達に迷惑をかけないようにしないとな」
「そうなんだよね」
と娘が言った。
「自主的に隔離されてる」
と娘は笑った。
「日本も、マイコプラズマとかが流行ってんでしょ。そっちの友達から聞いた。コロナもなくなったわけじゃないし、二人とも気をつけてね。じゃあ、そろそろ切るから」
「またな」
と僕は言った。隣で妻が手を振った。
「ねえ」
電話を切るなり、妻が言った。
「変だと思ってたんだけど、あなた、熱があるんじゃないの?」
「ないない」
と僕は慌てて洗面所へ向かった。
僕が洗面所から戻ってくると、
「はい、手首を出して」
と、トートバッグから出した体温計をかざした。ピピピッ、と電子音が鳴った。
「親子だわね、ほんとに」
と妻が呆れ顔で言った。