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一冊の本を繰り返し読むこと

直治の遺書。

姉さん。
 もう駄目だ。【だめだ。】先に【さきに】行くよ。
 ぼくは自分がなぜ生きていなければいけない【ならない】のか、それが【全然】わからないのです。
 生きていたい人だけは、生きればいい【生きるがよい】。
 人間には生きる権利があると同時【同様】に、死ぬ【死ぬる】権利もある筈です。
 僕のこのような【こんな】考え方は、少しも新しいものでも【何でも】無く、こんな当り前のことを、【それこそプリミチヴな事を、】ひとはへんにこわがって、あからさまに口に出して言わないだけです【だけなんです】。
 生きたい【生きて行きたい】ひとは、どんな事をしても、必ず強く生きる【生き抜く】べきであり、それは立派で【見事で】、人間の栄誉【栄冠】とでもいうものも、きっとその辺にあるのでしょう。が、しかし、死ぬことだって、罪では無いと思うのです【思うんです】。
 僕は、僕という草は、この世の空気と陽ひの中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。足りないんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。

太宰『斜陽』より

取り消し線は間違えたところで、【】は正しい文章もしくは抜け落ちた言葉

わたしの敬愛するクリエイターさんが、一冊の本を何度も読み返したことがない。それが私の駄目なところなのか、という呟きをされているのをみて、それはちっとも駄目なことではないというコメントをしたのだけれど、わたしは気に入った本を何度も繰り返し読んだ経験があるので、その中でもいちばん好きな太宰治の「斜陽」のなかから、とくに印象に残っている文章を書き出してみた。記憶をたよりにである。どの程度まで覚えているだろうと思い、書き出してみたが、それが冒頭の文章である。

果たして結果は上の通りであった。自分では随分と憶えている物だと感心した。とはいえ皆さんのなかにはもっと凄い記憶力をお持ちの方もいるだろうということで、これは自慢でも何でもない。つまり、わたしには自分の人生において決定的な影響をあたえた小説があるということと、十代の後半にそれを何度も何度も読んだことが、良きにしろ悪しきにしろ、わたしの人生には重要な影響をあたえているのだろうということである。

多読には多読の良さはあるはずだし、一冊の本を何度も何度も読むことにも良さはあるだろうと思う。たくさんの本から気に入った言葉を身体のなかにしみ込ませていくのも、いろんな種類の経験を積み重ねることに似ていると思うし、一冊の本を何度も繰り返し読むのは、故郷に籠るあまり外の世界を知らないということにもつながりかねない。どちらがいいのかは、わたしには分からないが、わたしの敬愛するクリエイターさんの呟きについて考えてみるのはとても面白かった。