2. 大学病院へ救急搬送
再びクリニックへ
春分の日が明けた3月22日、この日の診察は正午までだったので、11時ごろ家を出てクリニックに向かいました。
そうすれば帰りに院外薬局へ寄るのが正午過ぎになり、おととい在庫切れだった吸入薬が受け取れるはずです。
家を出て歩きだすと、たちまちあの尋常ではないだるさが全身にのしかかってきました。まるで大人を一人おんぶしているみたい。
そのうえ10メートルかそこら進んだだけで、フルマラソンでもしているかのような激しい息切れ。
世間ではコロナ対策のマスクを外す人の姿が目立ちはじめていましたが、私は花粉症持ちなので、コロナのあるなしにかかわらず春先はマスクが欠かせません。
そのマスクの下でだらしなく大口を開け、ハアハアとあえぎながらの前進です。
近所の広場では桜がかなり咲きはじめていて、5、6人のお年寄りが気の早いお花見の準備をしていました。私よりずっと年輩のかたたちなのに、足取りや動作はあちらのほうがはるかに軽やかです。
その横を、よろよろ、ハアハアと通り過ぎる私。
元気なときならクリニックまでは徒歩5分ほどですが、その距離がとてつもなく遠く感じられました。
どこかに座って休もうかと何度も思いましたが、座ったが最後そのまま動けなくなりそうで、我慢して歩きつづけること約10分。
つまり、普段の倍の時間がかかったことになります。
ようやくクリニックに着いて受付をすませると、私は待合室の長椅子に身を投げ出すように座り、文字どおり肩で息をしました。
よかった。
永遠にたどり着けないかと思った。
しばらく休んで呼吸が落ち着くと、やおら立ち上がって待合室の隅にある血圧計へ。
このクリニックでは、診察前に各自で測定しておくのが決まりです。
ところが……。
測定結果をプリントアウトすると、そこには目を疑う数値が並んでいました。
最高血圧190、脈拍90超え
しばらく座って休んだにもかかわらず、です。
じゃあ、フルマラソン状態で息をあえがせていたときはいったいどんなことになっていたんだろう。
私は大動脈解離の前科があるから、血圧が高くなるのは御法度の身です。
普段の最高血圧は110前後、脈拍は60台というところ。
それが3月に入って徐々に血圧が高くなり、140を超えたときには「マズイな」と焦ったものでしたが、今ではその140がかわいらしくさえ思えます。
その日の診察は院長先生でした。
おととい受診したこと。私はマルファン症候群で、8年前に急性大動脈解離の手術をしていること。2カ月前に大学病院で肺気胸を疑われてレントゲンを撮ったが異常はなかったこと。でも、今の息苦しさは尋常ではないので、もう一度レントゲンを撮ってみてほしいこと、などを伝えました。
「じゃあ、胸部CTと心電図もとってみようか」
院長先生はそう言い、看護師さんに車椅子の用意を命じてくれました。
ああ、助かる!
もはや待合室から診察室までのほんの数歩ですら息も絶え絶え。すべて同じフロアにあるとはいえ、いくつかの検査室を歩いて移動することを考えただけで気が遠くなりそうだったのです。
ありがたく看護師さんに車椅子を押してもらって廊下を行き来するあいだ、待合室のテレビには人だかりがしていました。
この日はWBCの決勝戦があり、多くの人が侍ジャパンの優勝する瞬間を今か今かと見守っていたのでした。
途中でワーッと歓声があがり、どうやら優勝した模様。
私自身はWBCにはまるで関心がないクチではありますが、興奮にわき立つ人々のすぐ横を車椅子なんぞで通り過ぎていると、なにやら自分がひどく遠い世界にいるような気持ちになったものでした。
レントゲンの白い影
ひととおりの検査を終えて再び診察室に入ると、院長先生がレントゲンフィルムを前に開口一番、重々しい声で言いました。
「ミヤハラさん、胸水たまってるよ」
院長は胸部写真の白く写った部分を指し示しました。
「胸水 !?」
思わず声が裏返る私。
なんで?
どういうこと?
そうだ、血液検査の結果を見れば――。
「あの……おととい採血していただいたんですけど、結果はまだ出てませんよね」
結果が出るまで1週間くらいかかると言われていたけれど、もしやと思い訊いてみました。
「いや、もう出てるよ」
院長は検査結果の用紙を取り出し、それを見ながら続けました。
「えーと……血糖値は問題ない。コレステロールは――」
「いえ、そういうんじゃなくて」
失礼とは思いながら、気が急いていた私は院長の言葉を遮りました。
「炎症反応とか」
院長は改めて検査用紙にざっと目を走らせました。
「いや……そういうのは調べてない」
むむむ。
一昨日の医師の顔が頭に浮かびました。
急にいろいろな症状が出て苦しい。
何がどうなっているのか知りたいから血液検査をしてほしい。
そう頼んだにもかかわらず、血糖値とかコレステロールとか、健康診断レベルの検査しかしてないって。。。
「とにかく」
憮然とする私を尻目に院長は言葉を継ぎました。
「これは大学病院で診てもらわないとだめだね。今すぐ行ったほうがいい」
え……。
今、すぐ?
ここから?
このまま?
家から徒歩5分のここに来るだけでこのザマなのに。
ここからさらに大学病院?
最寄り駅まで歩いて電車に乗るとか?
いやいやいや、無理でしょ。
タクシー拾えるかな。
でも、ここは住宅街だし。
普段めったに利用しないので、タクシーといえば流しのタクシーを拾うことしかに頭に浮かばず、それなら大通りまで出なきゃ、と考え――。
「私もう……歩けない……かも」
我ながら情けない声でした。
「家に車は?」
「ありません」
「付き添ってくれる家族は?」
「一人暮らしなんです」
「わかった。じゃあ救急車を呼ぼう。大学病院の主治医にもわたしから連絡するよ。診察券もってる?」
言われるままに大学病院の診察券を渡し(何かあったときのためにいつもお財布に入れてあるのです)、主治医の名前を告げながら、てきぱきと手配してくれる院長先生が急に頼もしく見えてきました。
(急にって……笑)
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