見出し画像

随筆:「水」 〜豊島美術館鑑賞記〜

豊島への旅,そして豊島美術館との出会い

先週は学会に参加するため,高松に出張していた.出張先で新しいものや人,そして非日常の空気感に出会うのが何より好きなので,毎回合間を縫って少し観光をするわけだが,今回は高松から離島の方へと船出してみた.

豊島(てしま),高松から高速船で40分程度揺られた先にある,島の周囲を自転車などで回れる小さな島である.高松からの直通便が1日3便.朝一の便とお昼時の便と夕方の便がある.夕方の最終便が17:20発なので,これを逃すと,岡山側から迂回して帰るか,島に1泊せねばならないというなかなかのハラハラな旅程の中で観光をするわけである.

画像1

豊島は,レンタサイクル(電動自転車)でサイクリングするのが心地よい.高松からの直通便が着く家浦という港から,豊島美術館がある唐櫃(からと)という集落までは片道3km程度.ただ,この唐櫃集落までは山道をずっと登り続けるので,豊島美術館にたどり着くころには,日頃運動をしていない私など息も体力も切れかかっているのは無理もない.

島を半周してたどり着く,この豊島美術館[http://benesse-artsite.jp/art/teshima-artmuseum.html]は,島の東側の棚田を横に見る緩やかな丘になっているところに建てられている.あるいは,建てられているというよりも,丘の一部にひっそりと穴ぐらを作っていると言ったほうが正しいかもしれない.チケットを買うと,ぐるりと遊歩道を数分の間歩き,美術館の入り口にたどり着く.そして,専用のスリッパ(というより足袋)に履き替え,ドラえもんのガリバートンネル[https://moshimodogu.com/item/gulliver-tunnel]を彷彿とさせるような,穴へと入って行く....

画像2

水の蠢き ー内藤礼『母型』ー

美術館というと古今東西の名画が額縁に入れられて飾られている,というイメージが一般的だろう.しかし,豊島美術館には額縁どころか,油絵の1枚もない.それどころか,柱が1本もなく,緩やかな曲面を描く白い水滴の中に入り込んだような,だだ広い空間が広がっている.その広い空間には,大きな穴が二、三個空いており,そこから外の風景が見える.照明を一切使わず,自然光のみで照らしているから,四季折々によって美術館の照明が変化し,もはや美術館の一部となっている豊島の自然が変化して行く.

そして,この美術館に何が展示してあるかというと,床に「泉」がついていて,そこから水滴が色々なタイミングで出てくる,それだけだ.床の色々な場所で,それぞれのタイミングでちょろちょろと流れ出る.そして,その流れ出た水滴が,床面の微妙な起伏に応じて,あるものは合わさり,あるものは分かれ,あるものは流れ,あるものは止まる.最終的に,美術館の床面の中で一番低くなっている二箇所くらいに集まって行く....これが美術館の床面の至る所で行われている.言葉で事実を述べるだけなら,ただこれだけだと思う.誤解を恐れずに言えば,まあシンクの流し台に残った水を観察しているのとさして変わらないように聞こえるかもしれない.

しかし,この美術館に来た人は数十分の時間をこの作品の体験に使う.なぜだろうか.....おそらくではあるが,あまりにも身近で,しかしあまりにも当たり前すぎて普段放られがちな水の蠢きを,私たちの前に確と現前させ,それを豊島の自然の中に見事に溶け込む建築の中に置いたことにあるのだろう.しばらく観察していると,本当に水が「蠢く」のである

もちろん水に意志がある訳ではないから,重力に従って下方に流れて行く.だが,人間にはほぼわからない程度の,微妙な起伏がつけられており,水はそれを「わかったかのように」流れて行く.これを見ると,人間には見えないけれども,何か水が意志を持って蠢いているような錯覚を覚える.さらに,それぞれの「泉」で水の出るタイミングや水滴の大きさが異なるから,毎回毎回,同じ場所で止まる訳ではない.周りの状況や風向き,人の動きによって水滴が気まぐれに止まったりする.そして,最後には,中央の「母なる海」とも言えるような場所に帰って行く訳である.

ある場所では,めだかの学校のように「水」が群れをなして,母なる海を目指してゆったりと流れて行く様子が見える.ある場所では,精子が卵を目指すかのように,水が尾を引いて走り抜ける様子が見える.このように,私が見ているのは,ただの水であるはずなのに...,いや,むしろ,ただの水であるからこそ,「水の蠢き」を確かに感じることができるのかもしれない.


あまりに身近で,しかしあまりに不思議な...

この展示で,改めて「水」とは不思議なものだと感じたが,思い返せば,初めて私が「水」の不思議さを知ったのは,中学の化学の授業だったように思う.物質の三態の授業の一幕だった.

「水は,氷になると体積が増える」「氷は,水に浮く」

この事実は,今目の前でアイスコーヒーを飲んでいたり,喫茶店でミルクティーを飲んでいる時には,当たり前すぎて気にも留めないが,物質としてはあまりにも特異な性質を持っていることが,化学の授業を受けて行く中でわかって行く.

多くの物質では,「固体ー液体ー気体」の順で体積が大きくなり,密度が小さくなる.つまり,固体は液体より(同じ体積で比べれば)重い.平たく言えば,固体は液体に沈む.これは固体の方が分子(原子)運動が小さく,液体よりも整頓されてまとまっているから,まあ直感的なイメージとも合致する結果である.

しかし,水は違う.氷は水に浮かぶのだ.つまり,氷は水よりも(同じ体積で比べれば)軽い.この理由は,高校化学の授業で「水素結合の巨大ネットワーク」の結果として空隙がたくさん空いた結晶構造を取ることに由来すると習うわけだが,さらに氷が何種類もの相(≒結晶の構造)を持つというし[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7],そもそも,なぜこのような空隙の多いネットワークが安定な構造なのか.疑問は尽きない.

得てして研究というものも,そういう「あまりに身近で,しかしあまりに不思議な」視点から始まって行くのかもしれない.


「水」から見える風景

ちょうど,先日サークルのOB/OG会があって,優秀な若い後輩やすでに方々で活躍している先輩方と会う機会があったが,そこで,こんな議論になった.

「結局,医学とか薬学とかも,縦割りでしかないよね」

医学や薬学の後輩と,こういった学問をどう伝えるのが良いか,という方策を飲み会の席で真面目に練っていたわけだが,その中で,そもそも「学問」を伝えることに固執しすぎなのではないか,そういう話になっていった.本来,私たちが日々の生活をする中で,ここは医学だ,ここは薬学だ,ここは化学だ,などと意識しながら生きることは(研究者以外は)まずないだろう.生活の中にあるのは,ただ「お腹が痛いからお医者に診てもらう」「医者から薬を処方される」「その薬を飲んだら,お腹の調子が良くなる」,ただそれだけなのだろう.そこには,日々論文を読み,書き,実験をする学問の営みが表に出ることはない.

私自身がぼんやりと違和感を持っていた一つは,その「学問への固執」にあるのかもしれない.もちろん学問的伝統を大切にすることは大切だし,科学は先行研究をしっかりと土台にし,その上に自分の研究を乗せ,さらにピアレビューによって批判され,更新されて行く.その一連のプロセスの中で,普遍的な科学技術として確かな発展を遂げてきた.しかし,その重要性を伝えるのに,そのような学問的伝統に必ずしも縛られることはないのではないか.むしろ,科学者や研究者から見える身の回りの風景を共有してみる方が,実は科学の本当の見え方を伝えることにつながるのではないか

「水」とは,あまりにも身近で,あまりにも不思議な物質である.アートの分野では,豊島美術館という形で,水の不思議さに純粋に対峙させられた.サイエンスの分野でも「水」から見える風景を描いてみることは,そんなに難しいことでもない気がする.多分,今までの様々な実験の積み重ねを少し組み変えるだけで,そういう視点のストーリーが出来上がるかもしれない.

これを読んだみなさんが,席を立ち,水道の蛇口をひねった時に,少しだけ立ち止まって水の流れをぼーっと眺めてもらえたならば,豊島美術館のあまりに不思議な体験を書き留めた身としては,嬉しい限りである.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?