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随筆:「アート」 〜多様な芸術表現の魅力〜

東京藝大の卒展にて

先日,駆け込みで東京藝術大学の卒業・終了作品展(卒展)[https://diploma-works.geidai.ac.jp/]に足を運んだ.卒展とは,学部や修士の学生が作った作品が多数展示される催し物である.中々予定の合間を見つけきれずに駆け込みで土曜日の午後に訪れたが,休日というのもあってかなりの人で賑わっていた.

一般的な学科だと自身の努力の成果は卒業論文や修士論文という形になり,それを提出する.そして教授・准教授が並ぶ閉鎖的な空間の中で発表をし,審査を受けるのに重きが置かれる.私自身もその一週間前くらいに修士論文を提出と研究発表をしてきた.
しかし,藝大の場合は努力の成果が「作品」として結実するため,一般公開をし,作者自身がその場に立って解説する場面もある.そんな,私がいる研究の界隈では考えられないようなカジュアルさの中に様々な表現が提示されていく.なんとも不思議な空間である.

国立西洋美術館[https://www.nmwa.go.jp/jp/index.html]に行けば,ルネサンス以前の絵画から20世紀絵画や彫刻まで,東京都現代美術館[https://www.mot-art-museum.jp/]に行けば,現代アートの巨匠とも言える人たちの作品が常設されている.しかし,ここは学生の作品.素人目にだが,正直かなりピンキリが激しい印象を受けた.個人的に気になった作品を2つほど紹介してみる.

『彼ら』(中山夢音) 〜生物と無生物のあいだ〜

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藝大の中庭の一角に展示されていた作品.池の上に浮かぶ発泡スチロールの板に繋がれているのは,お祭りやイベントなどでよくみるヘリウム風船らしきもの.イベント会場に行くと,子供が引っ張って遊んでいるあの銀色の塊である.

しかし,この作品をずっと眺めていると,風に揺られた「魚群」がそこに立ち現れる.もちろんただの銀色の塊なのだが,風が吹くと流されて一斉に風の方に整列し,風が収まるまたランダムに色々な方向を向く....そんな光景を見ていると,ふと作者が「彼ら」とつけた意味がわかってくる.紛れもなく「それら」ではなく「彼ら」なのである.ただの銀色の風船のはずなのに,ただそれを屋外に繋ぎ止めているだけなのに,一つ一つの動きはよくみるただの風船の動きのはずなのに,それが整列し,群をなすと途端に生き物らしく見えてくる.[https://twitter.com/yumeoyumeo/status/1223552948472385536].
↑作者のTwitter & 動画

講談社の新書に『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一,講談社現代新書)[https://www.amazon.co.jp/dp/4061498916]がある.科学者の伝記を交えながら20世紀の生命科学の研究を解説する一冊である.そもそも,教科書の中で今では当たり前のように書かれているDNA(デオキシリボ核酸)の発見自体が20世紀も後半の1953年ことから,生命科学がいかにこの100年で急速な発展を遂げてきたかがわかるだろう.

あるいは,今話題となっているコロナウイルスを含むウイルスは,通常「生物」とは見なされない.しかしウイルスは,人間とは違うRNA(リボ核酸)を基本単位とするとはいえ,人から人へと移り,どんどんと増殖する.生物学における「生物」の定義には当てはまらないが,「自己複製を行う」は生物らしさを特徴付ける一つの要素であり,ウイルスもそれを満たす.生物の要素として教科書的には4つ挙げられているが,生物学としてでなく,私たちの中で感じる「生物らしさ」はどこにあるのだろうか.風船を泳がせるだけで,かなり深い部分まで問いかけられている作品に感銘を受けた.

『Typecollage』〜文字に規定されるデザイン〜

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東京都美術館の会場の一角に展示されていた作品.棚や時計,椅子や机があるが,よくみるとそれぞれが「棚」や「時」,「いす」など,文字によってデザインが規定されている.身近なものの形自体を「言葉」によってデザインする,そういう趣向だろう.Typecollageと題された作品の解説には「文字は記号であると同時に、現代社会におけるもっとも身近な素材の一つなのではないか」と提案されている.なるほど,文字を「身近な素材」と捉えるのは面白い.

ここで注目したいのは,「棚」に対する「タナ」,「時計」に対する「トケイ」,「いす」と「イス」など,表現(シニフィアン)と意味(シニフィエ)の対応は非常に恣意的な中に存在する.漢字は,字源として意味から表現が作られているからある程度,意味されるモノ自体と表現の間に類似する部分があるかもしれない.しかし,平仮名は漢字を崩した「音」を表現するためのものであり,「い」「す」のどちらにも「イス」の意味は欠片も存在しない.だが,我々は「いす」と組み合わさった瞬間に,腰掛けるあのイスをイメージすることになる.

この作品は文字でデザインを規定することによって,言語表現によるモノの支配を見事に可視化している.ジョージ・オーウェルが『1984年』の中で思想統制のために言論統制を敷く場面を描いているが,言葉は人間の思考や認識を多分に規定している.しかし,私たちはそれがあまりにも当たり前すぎて,普段は気付くことがない.そんな「言葉の支配」をオーウェルと違う形で表現に落とし込んだ,興味深い作品だ.

芸術の魅力:多様な表現技法の発露

私は大学に入ってから,美術館や展覧会に足繁く通うようになった.最初はパズル感覚で絵画を眺めて何を描きたかったかを考えることを楽しみ,西洋美術館の常設展のいくつかは,私なりの物語が出来上がっているものもある.その頃は,現代美術は「何をやっているのかよくわからない」というのが正直なところだった.

しかし,現代美術の先頭に立つ彼らは様々な材料を駆使して,新しい表現のあり方を探求していることに気づいてきてから,彼らの作品を追いかけるようになった.かつて「メディアはメッセージである」とマクルーハンが述べたように,表現技法は表現内容と同じか,あるいはそれ以上に「伝える」ことを考える上で重要な要素である

私が携わる科学研究では,序論・方法・結果・考察・結論(Introduction・Method・Result・Discussion・Conclusion: IMRDC)という枠の中で全ての表現が行われる.現代の科学研究には数多の分野が存在するが,ほぼ全ての論文においてこの枠組みが踏襲されている.そのおかげで論文を読むときは,どこを見ればどんな情報が存在するかがわかる.すなわち,科学では「表現技法を単一にすることで,表現内容を同じ土俵で議論できるようにする」ことが行われている.この表現技法の統一はまた,科学の客観性・普遍性が担保される重要な要素であるだろう.

一方で芸術領域では,様々な素材を使って多様な表現技法が探求されている.狂気が如く水玉模様で全てを埋めつくす草間彌生,謎の見返す少女を軸に作品を展開する奈良美智,鏡やトリックアートを使って人間の空間認識の危うさを問いかけるエルリッヒ....有名なところを上げていくだけでも,その表現技法はてんでバラバラで,表現したい内容も点でバラバラである.芸術では「表現技法の多様さを認めることで,表現内容を多角的に眺める」ことが行われている.そのため,前述の科学とは対照的に,むしろ客観や普遍の名の下にこぼれ落ちている主観・個別・特殊性にも焦点を当てることができるだろう.

私自身は,芸術を見るときには「なぜこの内容に,この表現を使ったか」という表現内容と表現技法の対応を眺めることにしている.それは先ほどの言語表現との対応でいえば,芸術家自身の「言葉=表現と意味の対応」を読み解くことに他ならないからだ.そして,なにがしか彼らの表現技法の一部でも,価値観や日常の風景の見方を変えるのに使えないかと考える.


長々と書いてきたが,要するに,アートは面白い.まずはぜひ,近くの美術館に足を運んでみてはいかがだろうか.

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