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「アートとデザインとのあいだ」 自分のこと。

「最後の秘境 東京藝大
天才たちのカオスな日常」

という漫画を読みながら思ったこと徒然。
面白く興味深い本でした。


あるエピソードに出てくる、
ピアノも音楽も大っ嫌いだったという
音楽科の本田さん。

“彼女にとっての「音楽」とは何か?“
という問いに

離れたくても 離れられないもの

振り払おうとしてもつきまとってくる

でもそれが同時に生きがいでもあって
音楽のおかげで
私はきらきらしていられる

…みたいな感じでしょうか

と、本田さんはすこしだけ困ったように笑いながら答える。


主人公はこの言葉を受け

重い言葉だ

本人の意思や
他者の意思とはまた別の

まるで宿命のような

そんなことを思う。


この一連の流れは、我がことのように理解出来る。
自分のことを思い返す。
記憶にないほどの幼少期、何がきっかけか何が理由かも分からないまま、気がつくといつだって絵を描くようになっていた。
楽しいなんて認識もないまま、絵を描くことが普通だった子どものころ。
学生になって大人になって絵が仕事になって絵を描く意義を見出せなくなっても、絵というものと完全には離れられないような感覚が常にあった。
私が本作の本田さんと違う気がしているのは、
自分のこれは宿命とか大層ものじゃなく。
私は絵で、きらきらなんてできない。そう願ったことはあるけれど。
絵と一緒にいて楽しいことよりしんどい記憶の方が多くなったような気すらする今では、抗えない引力のようなものがどうしたって存在するのかなとも思う。きっとそこに才能だとか天才だとか関係ないんだよ。
私にとって絵はほとんど呪いみたいなものなので。
心の底から「もう良いわ」と手放せたら、どんなにか楽なのになあ。しょうがないんだろうね。
諦めることを、もう諦めている。


もうひとつの気になったエピソードは
デザイン科の中田さんの談。

デザイン科は働くのが好きな人が多いですよ
デザインは“人の為”のものなので
結果働く事に繋がるんです

でも
他の科の人たちは
お金とか関係なく1つの事に打ち込んでいるでしょう
それって凄いなと思います

お金に縛られないからこそ
生み出せるものもあるんですよね


またもや自分のことを思い返す。
以前はデザイン事務所で、商業の広告イラスト制作を生業としていたので、
デザインは“人の為”のものなので
という台詞の意味は、こちらも我がことのように理解できる。
商業でのデザインやイラストは、「情報を伝える」ための言わば媒介なので、
いかに必要な情報を無駄なく取捨選択し可視化するか、に重きを置く。
何度となくロゴマークの制作をしてきたけれど、ロゴデザインなんて、それの最たるものだと思う。

また作中に、別の人物の

「いかにムダなものを作るか」
って側面もあるんです

この世にまだないもの…
それは大抵が一見ムダに見えるものなのですが

それを作るのがアートなので

という台詞がある。

「アート」と「デザイン」は
本来であれば、生まれる理由も存在意義も、まるで対極のように異なる。とは個人的な見解だけど。


私はこの感覚が、両方あるから、
厄介なんだよな……
なんてことをふと思ったりもする。

創作というアート優位なときは
「デザイン業をやっていた、計算し尽くしそうとする自分」が顔を出してきて、アート性に振り切れないもどかしさが常にある。

商業制作優位なときは
「自分の中から溢れ出てくる創作性」なんてものは鳴りを顰め、オリジナルを殺した「クライアントとその先のお客様のため」の徹底した職人のようになる。


この感覚が自分の中できっちりと分たれていれば、良い武器なはずだけど、…それがまた難しい。

アートとしての創作も、クライアントワークスとしての仕事も、全力でしかやっていないはずなのに、どこか自分の中で「立ち位置が中途半端だ」と感じる自分がいる。

これはきっと「自分はどうありたいか」の問題なんだろうなと思う。

結局はどうしたってどちらも自分の感覚なのだし切り離すことは出来ないし、もしどちらかに振り切れたら、そのためだけに突っ走るのになあ。と何度も何度も何度も何度も思ってきたけれど
その自分の悶々としたやり方でしかできないことも、きっとあるのだろうと願っている。
そんなことでしか何も表現できないんだ。


厄介だなあ。

アートもイラストレーションも創作もデザインも、離れられなくて答えなんてなくて
大変厄介ですよ。

そんなことばかり、考えている。


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