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専業主婦がシングルマザーになった-その後② 最初の一歩

「運転出来るようになる」

なぜ、最初の一歩が運転だったんでしょう。

1番の理由は、長男でした。

実家に引っ越した時に、それまで乗っていた車は、義理の両親のところに置いてきていました。私が運転ができなかったのと、実家に置く場所もなかったからです。
でも、車がなくなった事を長男はとても悲しんでいました。長男が生まれた時に買った白いミニバン。長男はその車が大好きで、週末になると家族で車で出かけて郊外の公園で遊ぶのを楽しみにしていました。あのミニバンは、長男にとって家族の象徴のような物でした。

運転出来るようになって、私と子供達の新しい車を買いたい。

そんな思いから、私は9年来のペーパードライバーを克服するために、色々調べ始めます。

教習所のペーパードライバー教習も考えましたが、最初の免許取得後、一般道でほとんど運転出来ず、ペーパードライバーになった経緯を考えて、出張ドライバー教習に依頼することにしました。

出張教習は、自宅まで先生が来てくれ、自宅の車で運転の練習を一般道でしてくれると言うもの。
運転はとにかく慣れ。まずは、自分が行きたいところをいくつか定めてひたすら走って練習する、そんなやり方でした。
車は、弟が当時乗っていた車を貸してくれました。

息子の幼稚園、大型スーパー、郊外の公園、最後に以前住んでいた場所
ここに行けるようになりたいですと先生に話しました。

最初はエンジンの掛け方も忘れている状態。震える手でエンジンをかけて出発。
他の車と走る事がこんなに恐ろしいなんて…
緊張し過ぎて、身体がガチガチでした。

ペーパードライバー

1日2時間、合計3日の教習が終わった時には、希望していた場所には一通り行けるようになっていました。先生が横にいれば…

教習は終了。あとは、毎日毎日同じ場所でもいいから運転して、運転を身体で覚えることでした。

幼稚園、公園、スーパー…子供達と母を乗せて必死で走りました。時には、すれ違い際に「下手くそ!」と怒られて泣きそうになったことも。

そして、弟から借りた車は、最初の数ヶ月でいたるところに擦り傷が…

そんな母親の必死の奮闘をよそに、子供達は私が車を運転している事にとても喜び、今まで遠くて行けなかった公園や遊び場に行こう!と言ってくれました。

いつしか運転に慣れ、行きたいと思うところには大抵行けるようになりました。そのころには、弟の車はボロボロの傷だらけでした(それでも、何も言わなかった弟に感謝です)

誰かに頼らず、子供達をどこにでも連れて行ける「自由」は、私に少しだけ自信を与えてくれ、もっと先に進む力をくれました。

次男のこと

ここで少しだけ次男の話しをしたいと思います。
長男とは4歳違いで産まれた次男。
産まれた時に「この子は私の事を助けてくれる存在になるかもしれない」という漠然とした思いを感じた事をよく覚えています。

次男は、1歳3ヶ月で父親を亡くしたため、父親の記憶や住んでいた家の記憶はほとんどない状態で実家に来ました。
大泣きする長男とは反対に、いつもニコニコして機嫌が良く、気難しい私の父の膝の上に躊躇もなく座り、あっという間に父に懐いた次男。
実の子供だった私達でさえ、こんなに父に躊躇なく甘えた事はなかったのに。

この次男と私の父との関係は、ただのおじいちゃんと孫との関係を超えていました。次男は父親を知らなかったので、私の父を父親のように慕い、甘えて育ちました。

そんな様子を見ていて、私は父とのわだかまりを解消し、父は自分の子供達にはできなかった愛情を孫に注いだのでした。

暗い気持ちの中で、次男の屈託ない笑顔は、いつも私に力をくれ、前に進む原動力になりました。

孫

公務員試験

仕事をすぐ探す事を諦めた私は、じっとしている事が出来なくて、何か出来る事はないか考え始めました。

そんな中で見つけたのが、公務員試験の募集でした。
それは、就職氷河期世代を対象とする公務員試験でした。子供がいる事を考えると、安定した職業に就きたいという願望があり、公務員というのは魅力的に感じました。
また、試験を受けて合格した場合、翌年からの就業開始だったので、しばらくは勉強を頑張れば良く、「すぐ仕事をすることができない」当時の状況にマッチしていました。

早速調べてみると、結構な時間の勉強量が必要だという事が分かりました。1日5時間程度の勉強を半年程度だった気がします。独学では難しそうだったので、通信教育の教材を購入し(当時10万円位したと思います)勉強を始めました。

毎日テキスト片手に勉強は大変な時もありましたが、勉強をする事で「再就職」のために何かしらやっているという安心感が得られました。

必死で勉強を続けて3カ月程たったころの事です。子供達が夜寝た後、いつものように勉強していました。22時頃だったと思います。

ふと、願書の提出がそろそろだったかな…と思い、確認しました。

そしたら、なんと、願書の提出期限がその日だったのです…!

時計を見たら、22時です…!頭から血の気が引いた気分でした。そこから深夜に大慌てで開いている郵便局がないか、直接持ち込んだら何とか間に合わないか?と大捜索。

でも、そんな郵便局は近くに見つかりません。

2時間ほど大騒ぎしているうちに、24時。その日は終わりました。
私の公務員試験は、こうして終わりになりました。再チャレンジが出来ないかと色々調べましたが、募集は一回だけで、次の予定は示されていませんでした。

なぜあの時、願書を出し忘れるという痛恨のミスをしたのか…今でも分かりません。
ただ、今思うと、公務員という道よりベンチャー企業に就職した方が、私にとってはスリリングでしたし、自分の可能性を最大限試す事が出来て結果良かったと思っています。

ただ、その時は頑張って勉強して来た時間と教材費を無駄にした事を悔やみ、目の前が真っ暗になりました。私の仕事探しは、また、一からのスタートになったのです。

内緒で始めた就職活動

公務員試験を諦める事になった後、私はこっそり就職活動を始めました。
本当は正社員で就職したかったのですが、安定した大手企業での就職を希望していた当時の私には、とてもハードルが高く、派遣という形で就職先を探し始めました。

複数の派遣会社に登録して活動をしましたが、なかなか面談まで行ってくれる企業は少なく、長く専業主婦をやった後の復職の難しさを思い知ります。

ただ、そんな中、1社面談が進み、なんと内定の連絡が…!希望していた正社員ではなかったけれど、就業先は安定した大手企業で事務職。「明日から来てください」というかなり急な展開に、大慌てで準備を開始しました。

夜になって、帰宅した父に、就職活動をしたところ、派遣社員で就職が決まった。明日から来てほしいと言われている。という話を恐る恐るしました。

すると、父は大激怒。
今まであんなに怒られた事は後にも先にもありませんでした。
子供達がまだ新しい生活に慣れず、不安定な状況なのに、母親として、今一緒にいなくてどうする!仕事なんていつでも出来る。でも、今じゃない!!と。

私は大泣きしながら、訴えました。
どうしても、仕事がしたい。お父さんが仕事をしているからと言って、子供達が成人するまで面倒をみる事なんて出来ない。私が子供達のたった1人の親なんだから、私がなんとかしなければと。

でも父との話しは平行線でした。父が絶対譲らないと分かった私は、泣く泣く派遣会社に電話をして、就業を断りました。

私の仕事探しは、ここで一度中断になりました。
私は、また、専業主婦として子供達と過ごす毎日に戻りました。

今思うと、あの時は子供達と一緒にいて良かったと思います。そして、それを可能にしてくれた父と母には感謝しています。当時の私は、子供達の事は気になりつつも、自分自身の事ばかり考えていたのかもしれません。

そして、実家に戻って、1年が経とうとしていました。

親子②


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