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類比マッピングによる「めまい」の解釈

はじめに
ひと昔、というかふた昔前に歌の文句に突っ込む漫才があった。そのひそみに倣って、昭和歌謡に言語学的な突っ込みを入れるという試みをしようかとおもう。そんなことをして読んでる人が(読む人がいるとして)面白いのかどうか知らないけれど、私にとっては歌の文句を覚え、鑑賞するための一助になろうかと思い、勝手にやるのである。

まず、小椋佳作詞、作曲、歌唱の「めまい」という歌から見てみよう。読みにくいかとは思うが、コピーライトに考慮して、全文引用はしないことにする。最近は、歌詞サイトはたくさんあるので、ご自分の責任で当たっていただきたい。(歌詞サイトUta-Netはコピーライトをクリアしているようですので、めまいの歌詞のUrlを張っときます。)

視点と場所
まず、最初の「時は私にめまいだけを残していく」とあることから、この歌詞は主人公である「私」の視点、すなわち、一人称的視点から書かれている。つぎに「私」のいる場所であるが、「ワイングラスの角氷」とあるので、ホテルの部屋か自分の部屋にいるのだろう。「眠り」を暗示している文言から、おそらく、「私」は、ベッドに寝てまどろんでいるとみることができる。「私」がいるこの部屋は海を見下ろす海辺の高台にあるようである。あるいは海の近くの家でもよいかもしれない。

1,2番の解釈
1番の歌詞から見ていこう。3行目に「眠りにつこうとする愛にささやかないで」とあるが、「ささやく」のがだれかはすぐにはわからない。「ささやく」は普通人間の動作であるが、先行文脈には、「時」「ワイングラスの角氷」しか明示的には出てこない。この歌は「別れ」が主題であるようで、「眠りにつこうとする愛」の相手がいるはずなのだが、その相手は1番では明示化されておらず、「ささやき」そうにない。で、二番をみると「小舟を運ぶ潮風」が出てきて、「よ」という呼びかけがあり、そのあとの「眠りにつこうとする愛にささやかないで」の動作主は、擬人化された「潮風」であると考えられる。「潮風」との並行性を考えると、一番では「ささやく」の動作主は「角氷」であろう。ここでは「角氷」には、主題「は」も、主格の「が」もついていないが、二番の歌詞で同じ役割を果たしている「潮風」に「よ」がついていることから、「角氷」も呼格と考えられる。メロディの関係で「よ」がついていないのであろう。「よ」がないため、明示的な擬人化がなく、多少擬人的には解釈しにくいが。

次に、最初に出てくる「時」であるが、これは「めまいだけを残していく」主体とされている。「時」が「私に」「めまいだけを残していく」のである。「時」は動作主として働くわけではないので、これは当然比喩である[1]。「時の流れ」の結果、「何かが残る」という、いわば疑似的な因果関係を表しているとでも見ておこう。「時間が過ぎてめまい(だけ)が残った」のである。過ぎていった「時」に、何か出来事があって、「私」に「めまい」を残したのであろう。ここでは、「時」から「時の流れ」への写像、「時の流れ」から「その間に起こった出来事」への写像があると考えられる。つまり、ある長さの時間がながれ、その間にあった出来事(おそらく複数)のせいで、その出来事が過ぎていったあとに私はめまいを感じたのである。

常識的には、3番で「うしろ姿」として出てくる「あなた」との間であった出来事と考えられる。ここで、「めまいだけ」の「だけ」をどう見るかは微妙であるが、「めまい以外ほかに残ったものがない」わけなので、その「ほかに」残る可能性があったが、残らなかったものは、「愛」であろう。「めまい」だけが残り、「愛」は残らずに「眠りにつこうとする」。

「眠りにつく」であるが、当然、起きていた「愛」を、眠らせることになるので、「愛」は眠りにつくことによって、愛の終焉を暗示している。「愛」を「あなた」への「愛」とするとそれが眠りにつくのであるから、「あなた」を愛さなくなることだと解釈できる。あるいは「愛」が「あなたと私」の「愛」とすると、一度起きた「私たちの愛」は、時の流れの中で起きた出来事によって、いまから眠りにつく、すなわち、愛の終焉、別れである。

 もうすこし即物的な解釈も可能である。「愛」を「愛の行為」とすると、「時」は「愛の行為」の時となる。愛の行為が「私にめまいだけを残していく」のである。その場合、眠りにつこうとする愛は、愛の行為の後に来る眠りを指しているとも解釈できる。すなわち、「ワイングラスの角氷」がささやくのは、愛の行為の後に眠りにつこうとする私、あるいは「あなた」と「わたし」となる。この場合「愛」からその行為を行った人(あるいは人たち)への写像があるわけであるが、これが不自然と感じるなら、「愛」から「行為」へ、「行為」から「行為者(たち)」への写像を考えればよいであろう。

「角氷」は普通「ささやか」ないので、これも比喩である。この比喩には、「角氷」から「角氷の音(の記憶)」、あるいは、「角氷の映像」への写像を考えることができる。ここで「愛」で指すものが「私」一人であるのなら、「角氷」が「私」にささやくのである。ワイングラスに氷が入っている状況はすこしわかりにくい。入っていたのがウイスキーならほかにグラスがなかったので、ワイングラスを使い、オンザロックを飲んだ後に、氷が残っていると考えることができる。ここで、まだ氷が解けていないことから、飲み手が近くにいるか、この直前に出ていったかどちらかである。となると、「角氷」から「飲み手」への写像、あるいは、「飲み手」から「飲み手との行為」への写像を考えることが可能であろう。「角氷の音の記憶」や「角氷の映像」から、「その飲み手との行為」への写像を考えることができる。そうすると、「ワイングラスの角氷」は「私」にささやきかける、つまり、「眠りにつこうとしている私とあなたとの愛の行為を再び目覚めさせる」のである。

以下に続く歌詞からみるとこのような即物的な解釈より、「ささやく」は、「眠りにつこうとする愛」、すなわち、「終焉に向かう愛」を再び「揺り起こ」して、目覚めさせることを指していると考える方がよいであろう。

2番は「潮風」に向かって「愛を揺り起こすな」と呼び掛けている。ここで、潮風についている「小舟を運ぶ」は、近くにある海の景色との関係で出ている縁語や枕言葉のようなものと考えられる。これにより、窓から見える海の景色が呼び出される。窓が開いて、実際に潮風が入ってきているのか、それともドアが開いてそこから風が入ってきているのかはわからない。ここではドアが開いたと考えるのがよさそうである。それは3番を見るとわかる。

3番の解釈
3番では「鏡に残ったあなたの後ろ姿」「青い青い海が見える」とあるので、鏡に「あなた」が映り、そして、「青い海が見える」ので、ドアを開けて、「あなた」が出て行ったのだと考えられる。ただ、「あなた」がいつ出て行ったのかはよくわからない。「鏡に映った」でなく「鏡に残った」なので、鏡に映ったのは記憶からくる残像である可能性があるからである。それほど前、例えば、何時間か前にいさかいがあり、「あなた」がドアを開けて、出て行ったとは考えにくい。2,30分ほどまえで、ドアがあけ放たれており、そこから海が見えると考えてみよう。「私」はベッドに寝ているようである。この部屋は高台にあり、ドアを開けるとベッドに寝た状態で海が見える。「私」は「あなた」の残像が残る「鏡」に「口紅」で「さようなら」と書こうとするのであるが、「口紅が折れてはじける」。これは次の4番の歌詞から、別れの決心が揺らいだことを暗示しているとみられる。

4番の解釈
4番では、「暮れなずむ海の夕凪よ」と呼び掛けている。3番は「青い海」が見えているので朝から昼と思われるが、「時」が流れ、今はすでに「暮れなずん」でいる。ここで、1番、2番、3番、4番と、各スタンザの最初にある「時は私にめまいだけを残している」が繰り返されるたび、すこしずつ「時」が過ぎているのがわかる。次の「錨をほどいていく船の心留めて」は、わかれようして出て行った「あなた」の「心」を「留めて」という意味のようである。「船」から「出発,出帆」のスキーマを呼び起こし、「船が錨を上げて港から出ていく」ことを、「私」から離れていくことになぞらえている。ここは、古くからある、「マドロス、船、別れ」というフレームを利用した歌詞なのかもしれない。ただ、ここで「私」が「船」を留めるように頼んでいる相手が「暮れなずむ海の夕凪」というのは、すこし変である。夕凪では船は留められないであろう。船は出て行っても、「心」を留めろというのであろうか。愛の名残を「私」のところにおいて行けというのか。5番は3番のリフレーンであるが、4番と合わせると、「あなた」にサヨナラと言い切れない「私」、そして、出ていく「あなた」を留められない「私」、あなたの心をとどめたいと望んでいる「私」を暗示しているとみられる。

終わりに
以上、好き勝手に歌詞を解釈したが、このような解釈を作者が意図していたのかはわからない。ここで行ったのは、歌詞が整合的にできていることを前提に、文の解釈可能性と歌詞の作品としての整合性とをすり合わせながら、歌詞が表している状況を構築していったものである。言語表現が指定する意味は非常に未指定部分を含む。その未指定部分を埋めていくのは文脈であるが、その文脈は常識、世界知識、先行文脈、後続文脈を含む。これに歌詞の場合は特に比喩を駆使するので、その比喩を多少なりとも明示化することで、解釈の補助としてみた。「類比マッピングによる「めまい」の解釈2」もどうぞ