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「不易流行」と「軽み」

101日目。

昨日の杉さんライブで思ったこと、感じたこと。
やっと言葉にできそうなので書き記しておく。

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本当に素晴らしい夜だった。
杉さんが、本当にひとりであの大きなステージで歌いきったということ。

何歳になったとしても、チャレンジできるし変われるよ、という姿。
どんな姿だったとしても、杉真理という人間のすべてをそこに出すという潔さ。

あの、いつもの気心知れたメンバーと奏でる、楽しくて楽しくて幸せな音楽というよりも、ひとりの人間の決意のようなものが突きつけられた気がする。

これからも、どんなことがあっても音楽とともに生きていくという決意。

今更ながら、本当にすごいものを見せてもらったんだと思う。

そして、

私はどうする?
私はどう生きる?
本当はどうしたい?

そんな問いが私の中に残る。

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休みの日は、ついつい朝寝坊しちゃう。
それでも、明るい日差しが嬉しくて、朝ノートを書いて、布団干して、洗濯して、バナナケーキを焼いて。

午後は、町屋から都電荒川線に乗って早稲田まで行って、永青文庫へ。

永青文庫、名前は知っていたけれど行くのは初めて。
戦国武将の細川藤孝から続く、細川家のコレクションが展示されているところで、建物自体もシックで素敵なところ。内部はすべて写真撮影不可だったので、その空気感が伝えられず残念。

現在の展示は「柿衞文庫名品にみる 芭蕉―不易と流行と―」ということで、松尾芭蕉の芭蕉のあの有名な「古池や 蛙飛び込む 水の音」の直筆短冊や、旅の風景を描いた「旅路の画巻」などを鑑賞。

その中で松尾芭蕉の考え方に「不易流行」というものがあったことを知る。

「不易」は時代の新古を超越して不変なるもの、「流行」はそのときどきに応じて変化してゆくものを意味するが、両者は本質的に対立するものではなく、真に「流行」を得ればおのずから「不易」を生じ、また真に「不易」に徹すればそのまま「流行」を生ずるものだと考えられている。俳諧の本質的な性格を静的(不易)・動的(流行)の二つの面から把握しようとしたものであるが、新しみを生命とする俳諧においては、その動的な性格――新しみを求めて変化を重ねてゆく流行性こそが、そのまま蕉風不易の本質を意味することになる。結局、「不易」と「流行」の根本は一つのものなのであり、芭蕉はそれを「風雅の誠(まこと)」とよんでいるのである。(コトバンク「日本大百科全書(ニッポニカ)「不易流行」の解説」より抜粋)

私の独自解釈(しかも30分程度眺めただけですが)では、「変化し続けることが人間の本質だ」ということなのかなと。

芭蕉は人生の中で、俳句の作風と同時に筆跡もどんどん変えていったらしく、確かに同じ人が書いたとは思えないような筆跡のものが並んでいて、それを眺めていたら、「同じことの繰り返しではなく、どんどん新しいことをやっていくんだ。いくつになっても、どんな状態でも変化することで何かを見つけることができる。」みたいな気持ちが高まってきて。

松尾芭蕉って、俳句の人、という認識くらいしかなかったけれど、実は結構ロックな人生を生きていたんじゃないかなぁとふと思ったのでした。

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そのあと、予約していた美容院へ。
普通に今までの髪型をキープしつつ、サクッとカットして終わるつもりだったのに、昨日の杉さんのライブと今日の松尾芭蕉の展示に刺激されたのか、急に髪型を変えたくなって、だいぶバッサリショートにしてしまった。
頭から落ちてゆくたくさんの黒い髪をみながら、心も軽くなれーと祈りつつ。

きっと、今の私には「軽み( 芭蕉が晩年に到達した俳諧の理念。日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡にさらりと表現する姿。かろみ。:コトバンク「デジタル大辞泉「軽み」の解説」より抜粋)が必要だったんだろうね。

松尾芭蕉、研究すると面白そうだ。

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今日の写真は、肥後細川庭園の中、永青文庫へと至る石段の途中。
低い位置から差し込む太陽に照らされて光る秋。