ガンと言われた。···
大腸ガン・前立腺ガンと続いた。自分はずーと健康だと思っていたのに。
皆さんは自分の年を考えたことありますか。私は今年73歳。おそらく頭が真っ白で、見るからに高齢者だと想像するでしょうね。しかし誰がどう見ても60代前半に見える年格好で歳を当てる人はとんどいません。
だからと言って体型はスポーツマン的な感じではありません。生まれてすぐに結核になり、病弱な子供だった。いつも痩せていてスポーツは苦手なタイプで学校の体育の授業が大の苦手だったのです。
仕事中も風邪をひいても一晩寝ればOK。辛くとも仕事優先と頑張っているうちに忘れるように治っていた。しかし結核など経験していることから昔から健康管理は忘れなかった。
しかし、いつも若い若いと思っていのは自分だけ気がつくとサラリーマンを終えて、それから約10年が過ぎた。つまり73歳になった。
人間は面白いもので、いくつになってもその年になってもあまり歳を感じない、しかし
昔と比べると、もの忘れが酷い、特に名前が出てこない。テレビを見ててもタレントの名前もそのタレントの出ていた番組名が思い出せない。
そんな話題を仲間とすると、「俺もだよ。やだね年取るのは」と、言って笑い飛ばす。皆その程度だと思ってさして気にしないものだ。
あとは少し体力が落ちたかな。飯を食べると食後すぐにウトウトしてします。
でも、ガンなどは他人のことと思っていた。
昔の職場は煙草を吸うのは普通。特に私の仕事はTVの制作現場だったので、ほぼ全員がタバコのみだ。特に会議中となると長時間ぐだぐだとネタ探しやアイディア出しで皆プカプカしてた。冗談に聞こえるだろうが煙が会議室の天井付近を漂っていたほどだから、普段タバコを吸わない私は再び肺結核など肺の病気になるのでは気にしていたので退職してからも人間ドックや内視鏡検査は怠らなかった。
大腸内視鏡検査でガンと言われる
一昨年コロナ禍のことでした。毎年近くの胃腸内科で大腸検査をしていた。理由は何故か大腸ポリープがいくつも出来るだ。体質だろうか、でもいつもだが小さく良性で問題なしだった。
コロナ禍では医院に行きたくないし、ポリープがよく出来る体質だったが、それも大したことないからと思い二年以上放置。
ある報道で「コロナ禍で世界的に大腸がんが増えている、理由はコロナ禍で検査をしなくなったため」とのニュースを見たとき。一瞬ドキとした。が、でも毎年検査してきたし、それほどのことは無いだろうと思いつつ。8月夏の暑い日だった。示唆しぶりに検査を申し込んだ。
成城学園前の駅近くの胃腸内視鏡で有名な医院だ。
いつものことだが、数週間後の9月の頭、「斎藤さん」と看護婦に呼ばれ診察室にはいった。いつものように先生から「またポリープがありましたが取りました」と明るく言われると思いつつ、「先生ご無沙汰しております。」
「斎藤さん。7つあるポリープがあって切除しましたが、その一つが一次検査でガンのようです。」
一瞬何を言ってるのだろうか、先生の声と頭の中での言語処理がズレてるようで、理解出来ず、暫くの間身体は固まっていたようだ。
暫くして、先生が、「東大病院に予約入れます。〇〇先生のところで精密検査してください。」
東大と聞いたとき、初めて冗談で無いんだ。事実なんだ。と感じ頭上から血が引いて身体が重くなっていくのを感じた。その間数分とかかってないと思うが、長い時間が経ったような気がした。
「先生ガンであることは間違いないのですか。一次検査でガンと出ても二次検査で大丈夫って、事ありますかね。」
「多くは一次検査で間違いなくガンとなると変わることはありませんよ。だから東大で精密検査と今後どうするか」病院へ行って下さい。
医院を出てから奥さんへ、いつものレストランへ昼食を食べに行く連絡をLINEする予定だった。
なんとも・・ガンになったとLINEする以外方法はなかった。
女は強いものだと思ったのは、すぐに返信があったときだ。「二人に一人が癌になるのだから、早く帰ってきな。」何となく気が楽になった。
家に帰ってもこれといった会話はないが何となくお互いに不安を隠せない雰囲気だった。医院の担当看護師から一週間後に東大病院を予約した旨の電話が来た。
東大病院へ持っていく紹介書が医院から送られてきた。封書の宛名書きに東大病院〇〇先生と書いてある。実感が湧いてきた。
私はネットで大腸ガンの事を調べ始めた。普段は関心ないのでTVで見る程度の知識しかなかった。ガンの前後20センチほど切るとか、最悪は肝臓や肺に転移することが書かれていた。知れば知るほど気が重くなってきた。
いよいよ明日東大病院へ行く心の準備が出来ていたときでした、夜中だった。
医院の院長から、「院内で再度検討した結果、斎藤さんのガンはポリープ内で収まっていたようです。よって東大病院へは行かなくてもいいです。」えェ。
ホッとしたよな。嬉しいような。全身に血が巡ってきた暑いものを感じ、同時に気が抜ける感じがした。
後日医院へ行った先生から「医院内で他の先生含め検討し東大病院へは行かなくとも良いとの結論になりました。ただ転移があると困るので、近くの病院を紹介するのでCTを撮って来てください。また定期的にマーカー検査と内視鏡検査を数年続けてください。」とのことだった。
後日、近所の共済病院でのCT検査をした結果は問題なかった。
11月中旬3ヶ月後の大腸内視鏡カメラでの再検査を受けた。その一ケ月後の12月の結果は内視鏡検査もマーカーも問題ないしとのこと。ホッとした。
何となく心配だったが、どうやら大丈夫な気がしてきて年を越した。
気分転換も含め年明け、しばら行ってなかった温泉へ出かけることにした。以前から行きたかった伊香保温泉だ。階段で有名な温泉街が気になっていた。
しかもバスでの旅だ。新宿のバス発着地、新宿バスタからも伊香保行きが出てるので、バスタから乗ってみたくなってこれで決めた。もし雪が降ってきたら風情があるだろうなと思い出かけたのだ。
大きな温泉宿で小綺麗だったが、街全体はレトロといえば聞こえが良いが、人も少なく少々過去の温泉街といった印象だ。夫婦で階段を登り一番上にある神社までいった。階段周辺を何度も上り下りしてるとそう大きな温泉街でもないのえ飽きてしまい予約していた温泉旅館へ入った。湯は良かったな。黄色い黄金の湯だそうだ。
若いときは、正月前後は必ず、伊豆の温泉地へ二泊のドライブするのが習わしでした。
退職してから、自分で事業といえない程度の仕事を一人でやってましたが、サラリーマン時代ほど稼げないので、遊ぶ時間は山のようにあるのですが、金の心配と何とも言えない仕事が減ってくる不安から、精神的にも少々落ち込んできて、不思議と積極的に旅へ出るのも億劫になる日々が続いてました。
昔から年と関係なくアクティブな方で新しい事業への挑戦や夢のような話が大好きで、当時ニューメディアという言われた時代に衛星放送など新規ビジネスに、職を変えてまで飛び込んでいった程でした。特殊な立ち上げキャリアなどをが仕事になると思っていたのは、そう、サラリーマン組織だから出来たこと。いざ仕事を一人でやると夢のようなことを言ってることが間違いであったことに気が付きだした。
今回の大腸ガンの原因は体力の衰えが原因だろうか、それとも独立を甘く見てたの自分への不安からだろうか。湯に入りながら余計な考えが頭をよぎってしまう。
それでも旅は気分を晴らしてくれる楽しみでいっぱいであった。
1月先生から、「斎藤さんはPSAなど他のマーカテストしてますか。お年ですし、今回ガンが見つかったから、調べたほうが良いですよ。」
「そういえば人間ドックでだいぶ前にやった記憶があるだけ。お願いします。」となって1月下旬に採血検査となった。
私は元々放送局での映像制作が主で、独立してからも企業などの動画制作を受けていました。
仕事柄というか、職人的な考えですが身体が原因で途中で仕事を降りることは、大変な迷惑となるので途中交代は出来ないやっては行けないと、若い時から先輩に教えられ仕事をしてきた。
そんな業界の人間ですが、一人会社では何かあると問題だと思い、積極的に受注は控えてしまう傾向がありました。
年明けから、身体も思っていたほどでなく、すこし気分的にも頑張らないと、と思っていたら、役所からみの動画教育の仕事のご連絡をいただき。「面白そうだ。やる価値がある。やりたいと思っていた仕事なのでお受けします。」といって受注した。
PSA検査で以上に大きな値がで出た
その採血でPASの結果が出たのが、2月上旬、先生から大腸の方は問題ないですが、「PSAが16もありますよ」とこちらの顔の覗き込むように言った。
「それって高いんですか。」「前立腺がんの目安になる数字で、一般的に高齢者でも4以下です。それを超えるとガンのリスクが高いと言われていますから、病院でしっかり検査したほうが良いです。」
それを聴いた私は、再び固まってしまった。青ざめるわたしの顔を見てか「まだガンと決まったわけではないです。調べてなんでも無いということもありますから。」と言ってくださった。
近くの前回CTを撮ってくれた病院を予約しますと言ってくれたので、その場ではお願いします」と流れで言ってしまった。
医院を出てからまた、奥さんへLINEした。また暗くなってきた。
ガンの情報を知人やネットから集め始める。
病院への検査で思ったのは、もし本当にガンで進んでいたら、あの病院で良いのだろうか。そう思うとすっかり忘れていた知人数名が頭に浮かんだ。
そうだ、いつも会う元金融関係の人だが、何かのがんと言ってたな。
早速電話して会いに行った。「知人曰く、それは私と同じ前立腺ガンかも。PSAいくつだって。16!それはすごい。10年も前だが私の時は10以下だったよ。その数字はまったくと未知数だ心配だね。」
たまにしか会わない人だが、真剣に心配してくれて、いろいろと検査方法や治療の種類。ご自分の治療経過など詳しく教えてくれた」
普段会うたびに、前立腺の定期検査があるんだ。と言っていた事を思い出たのだが、そのころは、自分と関係ないと思っていたので、何かのガンの検査程度と思い右耳から左に抜けて記憶に残っていなかったのだ。人間とは無責任でご都合主義だ。自分の心境を、きっと不安になって友人などに話しても多くの人は我関せずになるのだろうな。と思った。
ただ考えてみると、まだガンと決まったわけではないのだが、大変参考になった。
調べるにはネットしか無い。
近くの共済病院は、どうも治療歴が少ないようだ、というより不安な私の心を納得させるモノが少ないと思った。
仕事上、企業動画で説得あるコメントを作るようにしてきた私のとしては、病院はその点が弱いのか、求めすぎる私がいけないのか。そう思いつつ時間が過ぎていった。
ネット上の東京医科大の情報では
前立腺がんは非常に増えてきています。厚労省のがん登録に よる 2017 年のがん罹患数予測では、日本人の約 86,000 人が 前立腺がんと診断されており、予測罹患率は、男性では胃がん、 肺がんに続いて第3位です。しかし、5年生存率は97.5%と高く、 検診で早期発見できれば、PSA 値が高くても、すぐに命に関わ ることはまずありません。早期発見が何より大切なので、50 歳 を過ぎたら、1 度は PSA 検査を受けましょう。 検診方法ですが、だいたい 50 歳以上の方は、自治体の住民検 診で、50 歳未満の方は人間ドックなどで PSA の検診を受けてい ただくとよいでしょう。基準値は4ng/mL ですので、最初の検 査が1ng/mL 以下であれば、次の検査はだいたい 3 年後でもよ いという研究があります。4ng/mL を超える場合は、泌尿器科の 専門医を受診し、生検したほうがよいかどうか相談してください。とあった。
他のネットもみたが情報からは自分の状況はまだわからない。どうもこの16は無視できないようだと分かってきた。
病院の検索で「前立腺ガン」で検索すると、隣の目黒区になるが国立病院で前立腺ガンの治療数が東京一と出ていた。ここだ。ここにいくべきだ医院に紹介状を書いてもらおう。と決めた。
異常な数値が出た頃にはすっかり仕事のことが頭の中から薄れていた。
お役所からの教育動画の話が具体化してきた。「あれ、大丈夫かな、」と思ったが受けた以上は今更引けない。内容と納期をお聞きしたがクライアントがお役所なので、納期は3月末です。伸ばすことは出来ません。作業内容の聞くとこれが曖昧だ。長く仕事をしてきたが、ここまで納期が迫っていながら内容がハッキリしない仕事は始めてだ。
わかっていることは日本中のある種の文化財を集めて解説付きで紹介する動画だとわかった。大方の内容は用意されているようでしたが、その日本中の動画素材がかなりの量で、それを整理するだけでも大変そうだ。
普通ならば、どんな膨大な量の動画であれ写真であれ、頭に入れて整理できるのだが、何故か頭がまわらない。
なぜだ。検査結果の不安の中で怪しげなマーカーの数値が飛び込んできたためだろうか、精神的にダメージを受けているのだろうか。なぜか積極的に手も頭も動かない。
何しろ、内容と作業量への不安を抱えながら国立病院へでかけた。駒沢公園の横になる大きな病院だった。以前は公園へ遊び来てたところで病院があることは知っていたがここへ検査に来るとは思っても見なかった。
流石に奥さんも同行した。かなり心配なのだろう。
大病院の広いロビーの外来受付から泌尿器科の待合ロビーへ向かった。かなりの人が待っていた。
前立腺の患者数は多いそうだがここの患者の多くが高齢者のようだ。それに老いた奥さんが付いてきている。考えてみれば私も同じだ。
やっと順番が回ってきた。紹介上を見て若い先生は、16というけど何らかで上がることありますから。まずはもう一度採血しましょう。
採血室で採血。一時間とかからず結果出るのでと言われ。採血後待合室で、再度先生に呼ばれるのをまった。
有名人も多い前立腺ガン。西郷輝彦が同じガンで死去のニュース
呼ばれて中へはいると。やはり16ありますね。
では、CTを撮りましょう。来週CTのスケジュール抑えますが時間ありますか。普通ですとCTやMRIは一月待ちなんですが、空けてもらいました。
もし進行するとどうなるんですか。と奥さんが言い出した。私は間違いなく数値が高いから、つまり混んでても至急CTを空けなければいけない程、重大なんだろうか。
と思った途端言葉が出なかった。
「ガンと聞くと慌てる方が多いのですが、ガンだったとしてもおとなしいガンですし、進行が遅いからあまり心配は無いですよ。」
ただ遅れると歌手の西郷輝人さんみたいになりますから。
丁度ニュースで西郷輝彦の死去が報じられていた時だった。おそらく自分がこのガンでなければ気にもしなかったニュースだろう。
家に帰ったニュース記事を検索したら西郷輝彦と前立腺ガンの記事が出ていた。ユーチューブでも確認した。そうだったのかといった感じだ。年も近いだけに他人事でなかった。
西郷輝彦の海外での治療報告がユーチューブにも載っていた。
他に有名人やタレントにも多くいて、その治療などの記事が載っていた。普段は気にせず見ないのだが全て見てしまった。
舞台演出家の宮本亜門さんのガン告発記事ではPASは値が私と同じ16だ。三谷幸喜の前立腺がんのを振り返った記事など、励ましにもなった。
私は若い頃からテレビ局で仕事をしてきていて、バラエティ番組から当時はやっていた全員集合のような公開番組などのアシスタントディレクターからディレクターになった人間でした。
アシスタントのことは聞こえは良いがただの使いっ走りと雑用だ。すこし年が過ぎた頃は奥様向け昼のワイドショーの制作担当だった。いま考えると有名なタレントさんは毎日見ていた。私もタレントも生放送が主流の時代で忙しかったが皆元気で活気があった。
人間だけでなく当時は日本経済が右肩上がりの経済も健康状態で絶好調だったこともあり、何をしても楽しかったし、視聴者も喜んでみてくれてるという喜びというか充実感があった。
今の若者のテレビ離れなど想像もつかない時代だった。
ただ時代は変化したと思うのは、ユーチューブ等の発達で多量の情報が容易に手に入ることだ。しかも発信者は放送局などマスメディアでなく誰でも発信してくれてることだ。
我々の業界人はユーチューブなどふざけるな。内容はフェイクばっかりだし、放送のように内容を確認して放送する責任ある情報でない。
続かないよ。こんなもの。
同じく出版社の知人もマスコミとは・・と能書きが多く、この手のネット情報メディアは誰も応援することはなかった。
以前は、私も同じでユーチューブなど素人がデタラメの話をしてるだけで、とても信頼性が無いし、映像の質も酷いと思っていました。
しかし、いざガンとなると藁をも掴む気持ちで情報を得たくなるものだ。なんでも良いのだ。多くの情報を得たいのだ。知りたいのだ。
その点、えばっていた放送番組は役に立つのだろうかと考えた。健康情報と言ってもタレントのバカ話が主でとても知りたいことには程遠い。
こんないい加減なテレビ制作に関わっていたかと思うと悲しくなってきます。
まともなNHKの「きょうの健康」でも一般的な話だけ。しかも短時間だ。
本屋で医学書を読んでも分からないし、ネットでの情報も活字ベースだと読むのがつらい。
その点、バカにしていたユーチューブの各種医療の発信はすごい。各大学病院のセミナーや医院から治療方法、ダビンチロボットの話など数え切れないほど出ている。動画だと難しい文字を読まなくともわかるのもいいものだ。
なかには、余命5年と言われた患者個人の発信は映像は悪いがそれなりに説得力がある。
少なくともこのような特化した情報はマスメディアは負けだな。
先日も芸能プロダクションのマネージャーが、なんとか新人タレントをテレビに出したい。注目されるために出すコネないですかと聴いてくる。
時代遅れではないのかと思ったが、古い考えの人も業界も容易には変えられそうにない、昨今の若者のテレビ離れは納得できる。
すっかりクライアントである、お役所の作業に入らなければと思いながらも、気が重い状態であった。
そもそも、この話は昨年の早いころから相談としてはあったのだ。その時は秋には打合せ出来ますのでとの約束だったが、連絡ない状態が数ヶ月続いた。
年を開け2月になっても待ってくださいの連続だへ。なぜ遅れているのかすら說明が無い。今まで多くの仕事したがここまで遅れた例はない。
何度か問い合わせたがお待ち下さい。だけだった。
しばらくして動画素材が届きますと連絡があった。そして膨大な動画が集まってきていた。かなりの量だ。
それを整理して、まずは使えるカットを優先的に分けていく。それに内容に合わせて順に映像を並べるのが編集作業です。
最初は大まかに繋いで見ながら、企画意図に合わせながら段々と修正とていくのですが。なんと、納期が迫っているのに、担当者はまだ企画の方向性が定まらない、つまり内容が定まらないようだった。これでは徹夜しても難しいのでと思うほど困った状態だった。
CT・MRI検査の日がきた。いつものように横になってCTがスキャンするだけで短時間で終わるとおもって、病院のCT室へ向かった。名前を呼ばれ検査着に着替えてから、何度も何度も撮る。しかもCT室からMRI室と移動してかなりの時間かかったように思う。
思わず技師さんにたくさん撮るんですねと言ったしまった。細かく見るために必要ですと言われた。
瞬間、何か怪しいのかな。
家に帰ってから、お役所の動画制作も、いまだ方向性無いまま、ラフな編集をするだけだた。
佳境に入っていなければ行けない時期だっただけに、このままで受け続けられるのか不安がよぎった。ここまで納期が迫ってるから納期を延ばしましょうと、そのうち連絡が入ると思っていた。一般企業の仕事なら普通の事だからだ。
翌日、CT・MRIの結果が出た。
どうだろうかと思いつつ奥さんと一緒に診察室に入った。
いつも明るい先生が真剣な顔して、「やはりガンの影がありますね」「この光っているところがガンの可能性があります。」一緒にいた奥さんと二人して固まってしまった。
ただ、これだけでは詳細はわからないので前立腺の細胞を取って調べる検体検査をします。
予約させてください。となった。4月入ってすぐを予約された。
奥さんは心配でしょうがないのか、「こんな時、何の仕事してるの。断ったらどうよ。」言ってる気持ちは痛いほどわかるが断るわけに行かない。曖昧といってもそこそこの作業を始めてるし、内容はいまさら誰かに渡しても、理解して作業を安易に受けてくれる人はいないだろう。と思っていた。
でも次の検体検査日までには納品なので、思いっきり進めるかと、気合をいれた。
役所の担当者がzoomで上司を入れて会議をさせてほしいと言ってきた。上司が入れば話は加速すると期待してその日を待った。
何と女性の上司だ。開口一番、担当者と上司の意見の違いから二人の喧嘩で始まった。
〇〇さん、この素材なんで選んだの、こっちのほうが良いのではない。それにこの話はあとのほうが良いでしょう。ちょっと待ってまだ良い素材があるでしょう。探しなさい。何をやってたの。
と、いったぐわいで最初から何も決まってないようだ。上司と話を済ませてから会議にさそって欲しかった。何もかも全くのゼロベースに戻った印象だった。
とりあえず、担当者に再度整理してもらうこととなった。トホホだ。無理だこれは。
数日後内容が決まったが、こちらは奥さんからガーガー言われ、自分としても不安が募ってきた。検体検査でどんな事になるか。
考えれば考えるほど不安がつのり、仕事どころでなかった。
役所の担当も慌てて作ったデータを送ってきて、こちらもこのデータに合わせてしっかりやれれば良いのだが、この頃は私も気が漫ろでなぜかミスが増える。
担当者の方から、お願いしたのと違います。しっかしやってください。向こうは向こうで上司との関係でいらついている。
こちらもガンとの戦いの中、集中力にかけてしまう。
そんな状態で、再度zoomでの上司を入れての会議。
お役人というのは、不思議な人が多いと思ったのは。お互い進行状況はわかっているのに、初めての会議のように内容や進行状況の確認の再度説明をはじめる。知ってる事でしょうと思って黙って聴いていた。
もう上司も言わないと思いきや、前回と同じく重箱の角を突っつくような注文の連続。もう驚かなかった。
出来ることだけやるしかなかった。早く片付けで病気のことだけ考えたかった。
何だかんだあって、編集が上がり、ナレーターの吹き込みを終えたのが納期前日、つまり3月末だった。バタバタあったのが、納品の日は気分はスート肩から力が抜けていった。
病院での検査・入院が始まる
それから暫くして検体検査日が来た。病院へ検査といえ一泊、窓の外を見ると桜が満開だった。
検体検査というのは、前立腺に針をさして細胞を取って、ガン細胞のレベルを検査することです。その話で知人の言っていた事を思いだした。
今回の前立腺ガンと言われたとき、詳しい知人を探していたら、灯台元暮らしだ。ちょくちょくあっている元広告代理店に勤めていた友人がやはり、前立腺ガンの先輩であることを思いだした。
前立腺ガンには手術以外に治療方法はいくつかあるが、この人は今では主流になりつつある小線源治療といって、放射線を出すペンシルの芯と同じくらいの物を前立腺の中に100本ほど入れガンをやっつける方法ですが、この治療がまだ知られていない初期のとき、まだ治験レベルでのようころ某大学病院で治療してもらった話を思い出した。その時の生体検査がすごく痛かった。
そのことを思い出した。
生体検査とは、恥ずかしい話になりますが、お尻の穴から直腸の近くにある前立腺へ針を10数本さして細胞を取り検査するもの。つまりガンがどこに集中しているのか、場合によっては前立腺の外側に出来ているのか、ガン細胞の進行ぐわいがどうかなど見るのだそうだ。
彼が初めて生体検査をした時の話によると部分麻酔はかかっていたようだが、針を一本指すことに我慢出来ないほどの痛みがあり、耐え難いほどすごかった。12本ほど打ち込むのに耐切れずタオルの握りしめていたそうだ。医師はもう少しだがんばれ。と言っていたと思い出すように語ってくれた。
その記憶があるので、先生痛くないですかとの質問に、今は下半身麻酔で全く痛くないですよ。とのことで、安心し検査の日を迎えた。午後病院に入り検査は夕方予定でした。
看護師さんにつられて検査室へ歩いて入りました。検査室というより素人目には全くの手術室だ。担当の看護師も何人もいるし部屋の印象からも少々緊張してきた。
予定の時間になっても先生は現れない、看護師たちが電話連絡をそているのだろうか、「先生遅れるので麻酔の準備を先にやるように」と言われたとかと言って手術台に寝かさた。この病医院大きいが患者さんも多く先生も忙しいようだった。
腰のところに麻酔薬を注射されると、下半身がだらんとしたところへ先生が来て、自分からは下半身の状態は見えないが、暫くして「パチン・パチン」といった金属音が聞こえてきた。一瞬何の音かと思ったが、そうか、これが針を指している音なのか。と思った。
検査は終わり部屋であとは寝るだけ。朝は食事後退院だ。外は晴れ桜の花が綺麗だ毎年見てる桜がやけに美しく魅力的に感じたのはなぜかな。
結果が出た。前立腺ガンGS7。中よりやや悪いとのこと
一週間後、心配そうな奥さんと検査結果を聞きに診察室に入りました。
やはりガンでGS7(4+3)ですと言われた。
私はこれは悪い方ですか、それともどうですか。と聞いた。
先生曰く「中よりやや悪いレベルです。治療方法をご説明します。ガンは外に出ていません。幸いに中心部ですから治療は難しくないです。また、骨への転移をみるレントゲンでも転移は問題ないです。
今後治療には2つあります。一つは手術(ダビンチロボット)で全部取ってしまう全摘手術と、もう一つは放射線治療です。」
メリット・デメリットを話すと、ロボットでの全摘出は5年ほど経過観測しまうがその後なければ問題なしです。
放射線は身体に傷をつけないので優しい治療と言えますが、毎日2ヶ月ほど放射線を当て続けます。放射線で直腸がん、になるリスク、あとは膀胱ガンになり摘出するリスクが5%ほどあります。
どちらを選択しますか。と言われて迷った。
あの〜。小線源を入れる話を聴いたのですが、それは出来ませんか。
あなたのこの数値ですと小線源だけではだめです。放射線を体外から当てることになります。やはりガンのレベルが知人たちより悪いことを確認した。
ここで、友人が粒子線でのガン治療施設を紹介してくれるといわれましたが、それはどうですか。と聞くと。
医師はきっぱり、粒子線を当てたあと、こちらの病院では経過観察は出来ません。つまり粒子線の設備で最後まで見てください。ときっぱり言われた。
テレビ報道ではいかにも新しい治療法として紹介しているが、たしかに後の検診は長期間見てもらわないといけないことを考えると現実的で無いことがわかった。
数値が7つまりGSが6以下なら小線源での可能性があったようで、しかも7のカッコ内4+3が問題らしく、頭の数字が大きほど良くないとのこと。つまり私には適当でないとのことだ。
先生は、ご夫婦で待合室でしばらく考えてください。必要があれば何度でもご説明します。と言われ待合スペースに出た。
毎日放射能を当てるために通うのも現実的で無いと考えたのと、他のガンになるリスクを考えると。全摘しか選択がなかった。奥さんも他のガンなどを恐れていた。
しかもこの病院での手術数はかなりのもので信頼性を感じていた。
30分後、再び先生のところへ、「判断つきましたか」
全摘でお願いします。「それが一番です。こちらで決めることは出来ませんので選んでもらいましたが、私が患者なら全摘を選びます。」
もちろん再発等のリスクが無いわけでないのですが、しっかり全摘し管理をしていけば5年後にはすべて終わりますかなね。と言われた。
知人の小線源治療した元広告マンは15年たって、数値が上がりだしたことから、ホルモン注射を今年になって続けている。
幸いに薬が効きているので数値が抑えられていると言った。当人いわく薬が高いんだよ。それがつらいとね。
もう一人、20年ほど前の職場の部下で、ほとんど音信不通だったが、奥さん同士が友達の関係で、この病気の話を奥さんが話したら、私より10歳ほど年下だがだいぶ前に小線源を都内某有名な私立病院で入れたと聴いた。その後良くなったとのことだったが。最近になって奥さんどうしで会った時の話だ。
知人の奥さんの話では、その病院では滅多にないのだが、数値が上がってきてるので検査をするようにいわれたの連絡があった。
その奥さん曰く「だから斎藤さんのように全摘すべきだったのよ」と心配しながら連絡があった。
そうなのか、小線源は手術と変わらない結果があると発表されているが、まれには数値が上がるのだ。
私は先生に、もし全摘後、定期検査で数が上がる事はあるのですか。と聴いた。
先生曰く「全摘しているので、前立腺のガンではなく、周囲に残ったガンが数値を上げることがあります。ただしこの場合は取ってしまっているので調べようが無いので、弱い放射線を当てるなどで対処することが出来ます」
つまりなんだ完璧でないんだ。
知人たちも先生も言っていたが、小線源を入れると、前立腺と癒着してしまうので、再発してから手術で取り除くことは出来ない。ということだ。
このように聴くと、前立腺ガンはあまり危険性がないがんというけど、やはり何年も注意しながら付き合う病ということだとわかってきた。
手術はダビンチロボットが混んでいるので、三ヶ月後の7月末と決まった。先生曰くその間何もしないのも申しわかないので、ホルモン注射とくすりを出します。前立腺ガンの栄養素は男性ホルモンなのでホルモン剤で抑制すると小さくなるのだそうだ。
だったらそのホルモン剤だけで良いのでは、先生曰く「小さくなり効果があるのですが長期は続きません」全摘手術の前に小さくしておくと摘出がやりやすい。との説明だった。
それから一月後、病院で再び採血。その結果は、16から7にダウンしていた。ではこの調子なら手術は問題ないです。
とこらがこの時期コロナウイルスが猛威を脅威となっていたころだった。
もしコロナに感染していたら、入院も手術もキャンセルになってしまう。
入院数日前、ウイルス検査で病院へ行った。病院の外のプレハブで鼻に綿棒を入れられくす痒い感じで其の場は終わった。
流石に入院となると、気分ははれない。奥さんはバックに荷物を入れて病院まで送ってくれた。病院内の売店で、貸パジャマと紙おむつを購入。慌ただしく手続きをして病室のある階へ移動。昔ならば別途まで家族も荷物持ってこれるのだが、コロナ禍では、家族はフロアーの入り口にあるナースステーションまで。そこで奥さんとはお別れだ。
手術の結果も先生より家族の携帯へ直接連絡してくれるしみになっていた。
手術当日
看護師のあとを付いて自身で歩いて19番手術室へ向かった大病院だけあって手術室もいくつもあるのには驚いた。
大きなダビンチロボットが部屋の奥にみえた。前に病院から当日の心得と説明の動画を見せられていたので驚くことはないが、台に横になって喉から酸素を送るパイプ亜をいれるなど動画で説明を受けていたが、実際は口に全身麻酔のマスクをあてられたら、麻酔がかかって、そこから記憶はない。
5時間ほど経過してか、ナースステーションの横になる特別部屋のベットで目が覚めた。体中にケーブルがぶら下がり。足は血流を助けるためかマッサージのためか圧縮器のポンプの音がうるさくなっていた。
段々と頭がハッキリしてきたとき、先生が現れ無事終わりましたよ。といって早速出ていった。
その日の夜は眠れなかった。この部屋がどこになるのか分からなかったが、おそらく夜間の急患の受付近くなのだろうか、頻繁に入れ替わり到着する救急車のサイレンが鳴り続いていた印象があった。これでは病院のスタッフは休まる間もないだろうな。病院とはそういうところなんだな。と考えつつサイレンを聴いていた。
翌日、看護師さんら検査器機を繋ぎ直したり、点滴をいらえたりと身体にやたらと繋がっていて動きが取れない。
特に足を動かしたいが、何故か動かない。下半身麻酔が残っているのだろうか。心配になり先生に足が動かないのですが。それは前立腺とリンパもできるだけガンが残っていないように、剃り落とすように取ったので、神経は切っていないがしばらく足の動きがしにくい。でもすぐに戻りますから。だって。
その日の夕方だろうか。この部屋から自分お部屋のベットへ移動します。歩けますか。と言われる間もなく、点滴や尿管などいくつも繋がった状態で歩いてベットへ向かった。斎藤さんしっかり歩けますね。と看護師たちは感心してるのか褒めてるのか分からないが、部屋についた。
あとは1週間ほどここで退院まで過ごすことになる。昔の開腹手術とことなりすぐに動けるのは確かにびっくりだ。子供の頃、盲腸で入院手術した時は寝たきり状態が暫く続いたことを思うとロボットはすごい。
しかしチューブに繋がれた状態で動け無いと思っていたら。看護師曰くこの状態でトイレも行けますから。用を足してください。ええーこれで歩いて行けるのかな。
病室での食事もおかゆから、すこしずつ食事らしきものが出るようになってきたが、おせいじにも美味しいとは言えない。言うのは贅沢だとわかって入るが。トイレ以外に点滴をぶら下げた器具を持って廊下を言ったり来たり散歩をしていた。
廊下の外に見える隣の公園の夏の日差しが眩しかった。夏の日を病室で過ごすなどまったく予想もしてなかったかなね。
4人部屋の病室には色々な人がいるものだ。一見元気なおじさんは、どうやら糖尿病のようでが、何故か階下になる売店でお菓子を買ってきてたべてる。医師に怒られたり、心臓病で入ってる人もいたようだ。
入院して8日後、退院となった。
素直嬉しものだ。ナースステーションで退院手続きを済ませ帰って行く足が軽い。ふと振り返ると、入院受付をする何人かがナースステーションで說明を受けていた。付き添いの家族もここまでだ。不安そうな患者と家族の表情。一週間前の自分を思いだした。
病院とは人生の縮図のような気がしてきた。不安を抱えた人が集まっている。結果的に喜ぶ人と悲しむ人が交差している場所だ。
親類で病院へ入って退院することが出来ず他界した人を思い出した。病室から霊安室へ運ぶ姿そ見ていた時は辛かった。
それを思いだすと退院出来る気分は何とも言えないほど嬉しいものだ。向かいに来てた奥さんも嬉しかっただろうな。
親類も大腸ガンになっていた。緊急の手術だった。
病院を出て数分のところに大きなカフェがある。病院食しか食べていないので、コーヒーと何か美味しいもんが食べたかった。
そこから、心配してる友人や自分の親兄弟にも電話した。
妹のところに電話して、無事終わったよ。と報告したが、何故か声がさえない。
実は旦那が急遽大腸ガンの手術で入院していたと話を初めて聴いた。
そういえば春先皆で会おうと言ったとき、腹が痛い、いつもの石が動いて痛いのだろう。と言っていた事を思い出した。
その後は、自分のことしか考えてなかったが、私が入院する直前に腹痛で行った医院から大型病院へ運ばれ手術し大腸の一部を切除したようだ。
ただ私も大腸ガンと言われたのは、一年前のことだ東大病院へ行ってくださいと言われ慌てていた自分を思いだした。
妹の旦那の場合は腸を切り取り、その後は問題なしと言っていたので一安心だ。
そうかと思うと、私の恩師で大阪でイベントをやってる方が、フェースブックで病院へ入ったと報告している。何の病気と聴くと「突破性ガン」とか。脳天気で報告しているが、抗がん剤で毛が抜けている姿を毎日のようにフェースブック上げていた。病院飯がまずいと言って、適当なおかずを追加して看護師に買ってきてもらったとか。随分気楽だ。
気楽な方が良いのだろうか。数ヶ月後回復していった。
仕事はとてもやる気にならない。術後病院へ何度も検査で通った。採血の成績は素晴らしく値は0だ。ホッとした。
それから暫くしてだ。妹の方へ連絡したら、旦那は大腸ガンから肝臓へ転移が見つかったと聞かされた。肝臓の端っこなら手術で切れるのだが真ん中では難しい。そこで抗がん剤治療となったようだ。
抗がん剤治療時には吐き気など副反応がひどかったようだが、薬を変えたりしてすっかり元気に生活してると報告を受けていた。
今は、薬効くから心配無いね。と言っていた。
それから半年後、抗がん剤の投与を続けたが春先、肝臓のガンが大きくなっている。医者は薬を変えるととのこと、妹はこの薬保険でも一回10万円近くかかる。これで効果が出なかったらどうしよう。と言っていたが。
それから秋が近づいた頃だ。精密検査の結果、腹水がたまり始めている。妹の旦那は医師に言われた。肝臓がかなり弱っていると。
それから11月、医師に、肝臓と腎臓が壊死しています。腎臓は透析が必要なレベルだが、もう難しいかもしれないと言われた。一般知識として私もだが、大腸ガンがで転移することはわかっていたが、命を縮める人はあまり身近にいなかっただけにショックだった。
つらい話は続くものだ。
昔からお世話になっている小さな出版社の社長さんが池袋にいた。昔からいろいろ相談していた関係だったが、私がサラリーマンを離れるころ彼も独立しこの出版社を立ち上げた。普段は大らかでふっくらとした体格であったが、私と離れてから胃癌が見つかり摘出したと聞いた。おそらく苦労されたのだろう。
体重はヘりげっそりとやつれてしまった。
それから私も独立し苦慮しながらなんとか仕事をしているとき。暫くして連絡が入りその社長は息子に社長を譲り会長職になっていた。
示唆しぶりにお会いしましょう、楽しみに出かけたら筆談が始まった。数ケ月前に、喉頭がんになり声が出なくなった。今日も喉から声を出す教室に通っている。とてもつ荒く疲れる言っていた。
なにか気の毒で、お世話になった人だが私には何もしてやれず虚しく辛かった。
それから何年立っただろうか、新社長の息子さんとは会長から紹介され、たまに会う程度でしたが、若い方なので頑張ってそこそこ売上を伸ばしていたのは素晴らしと思っていた。
同じく今年の11月ころだ。妹の旦那の話があったばかりの頃、会長にしさしぶりにお会いし、雑談でもと声をかけ池袋駅近くのカフェで会ったときだった。
筆談で、息子が脳腫瘍になった。と書いた。手術で治ると思いこんでいたら、どんどん大きくなってきてる。医師曰く2ケ月もつかだ。と聴いた。妹の旦那と時期が同じだ。背筋がゾーとなってきた。言葉が出なかった。
昔知人のジャーナリストでやはり脳腫瘍で、最新鋭のガンマナイフで治療するので大丈夫だとえばっていたが、何度も手術をしたが治らなく。電話の先で、何度手術してもだめなので家族と話してもう諦めた。と伝えてきたのを思いだした。
親類の大腸ガンは肝臓へ転移、一年半後に帰らぬ人となった。
12月に入って、妹の旦那の方は病室から家に帰りたい、と言われ最後の希望と思いを叶えてやろう、介護用ベットをマンションに運び込み医師や看護師に支えられながら帰ってきた。
その連絡を聴いて早速見舞いを兼ねて妹のマンションへ奥さんとでかけた。さぞベットで寝たままかと思いきや。テーブルに座り元気そうで、はっきりとした喋り、わざわざおいでいただきすいません。といった状態だったので安堵した。当人も医師の話を聴いていて、あと数日か数週間かわからないが、我儘言ってこの家に帰ってきた。ここからが本当の余生ですよ。
と窓外の風景じ~と見ていた目が印象的だった。
暫く話してから別れ帰宅した。別れのとき妹は数日持てば良いんだけど。今日はありがとうございました。
と言って別れた姿が記憶に残った。
そして12月の初旬、朝方で電話が入り今朝旅経ちましたと連絡があった。
それから10日も立たない頃、息子が息を引き取ったと出版社の会長から連絡が入った。葬儀には出ようとしたが家族葬で済ませ、実家のある伊豆の寺で葬儀を行い埋葬するとのことだった。
何か言葉が出ない年末となった。
幸いにして私の方はなんとか経過は良いが、一年ほど前、ややもすると同じことになっていたかと思うと、複雑な思いだ。
ガンは治る病気と一般的に言われているが、改めてそうだろうかと思う。すこし遅れれば回復も治療も大変になる。安易に情報を解釈すべきでないと思った。
そして再度人生とは幸せとはを考え始めている。