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【成人の日エッセイ】大人になるということ

コーヒーを好きになるようにして、本というものを、あるいは音楽というものを好きになった。

最初は肌馴染みがまるでしなかった。
どこか別の国の嗜好品なんだとさえ思っていたような気がする。

ただあるときから、憧れのような冒険心のような、定義し難い感覚に身を委ねて摂取しているうち、気がついたら好きになっていた。コーヒーも、本も、音楽も。

ところで、私がなにかを摂取するときに常々恐れているのは、「代わりになにかが追い出される」こと。

人間の可処分精神は常にぱんぱんで、パイを奪い合っているぎゅうぎゅうの状態。そこにまた新しく、毎日毎日どんどんどんどんインプットの波が押し寄せてくる。

波を起こしているのは自分という場合もあるし、生きているだけで自動的に摂取してしまう情報がそうさせているときもある。



少し話を戻す。

高校時代、コーヒーを好きになった代わりに何が私の中から追い出されたのだろう

そんなことを考える必要もなければ、一対一対応で即時選手交代しているわけでもなかろうに。それでも考えてしまう。私はそういう面倒くさい人間。

一つだけ心当たりがある。

それは「無邪気な否定」。

高校以前の私は、好き嫌いがはっきりしていた。そして何かを「好き」だと宣言することは、それ以外の選択肢を否定することと同義のように感じていた。

父と母が嬉々としてコーヒーを楽しんでいる横で、「コーヒーなんて苦くて大人のための飲み物だ」と試してもないくせにあえて敬遠していたのも、そんな小さな拒絶のひとつだったように思う。

でもある日、自分と同い年の友達が貴重なお小遣いを消費してコーヒーを買い、大事そうに飲んでいる光景を目にし、驚き、そして私の無邪気な否定がぐらつく感覚が走った。

それから、なんとなく敬遠していたはずのコーヒーが、私の日常にするりするりと入り込んできた。今では1週間のうちにコーヒーを摂取して良い「コーヒーデー」の制限を設けねばならぬほど、沼にハマっている。



あの頃、私の中から追い出されたのは、小さな拒絶心。

ん?待てよ。
二重否定になっていないか?

つまるところ私は、拒絶心を追い出して、代わりに柔らかい摂取心を手にした。

なにかが追い出されるどころか、増えてしかいないではないか。
私たちが生きていくうち、本当の意味でなにかを失くしていくことなんて、もしかしたら無いんじゃないか。

まあ、そんな都合の良い解釈でもしていなければ、私は歳をとっていく自分を受け入れて生きていくことができないのかもしれない。


最後に、新成人のみなさん、心よりお祝い申し上げます。

では、また。

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