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最大公約数と最小公倍数のダンス
こんにちは、ゆきふるです。
今日は、組織における意思決定のあり方について、思うところを綴ります。
高校時代の経験と、そして苦手な数学に関する概念も交えながら。
この思考の出発点となる高校時代の思い出
夏の暑さがピークを迎える頃、私たち高校生は文化祭の準備で忙しくなる。
私たち文化祭実行委員会は、貴重な青春時代の夏休みを費やし、文化祭を成功させるための計画を立てる。そんな中で、私は意思決定の難しさというものを痛感していた。
様々な計画やらを検討する中で、意見が割れることは日常茶飯事だった。
私は私自身の性格からか、常にみんなの意見の"いいとこどり"をしようとしていた。なるべく多くの人間の意見を吸い上げ、繋ぎ合わせてそれっぽい合作のようなアイデアを出そうとしていた。しかし、このスタンスには一定の限界をなんとなく感じてもいた。どんなにうまく調整しようとしても、各人の意見には、微妙な矛盾点がどうしても残ってしまうからだ。
一方で、あらゆる人の意見の共通する部分を抜き出して、それを組織の意思決定にしようとするメンバーがいることも知っていた。
当時はなんとなく「無難なやり方だな」とあまりポジティブに思えなかったが、その後、大学生、社会人として経験を積む中で、こうした保守的なスタンスも時には必要であると思うようになった。
2つのアプローチ(最大公約数と最小公倍数)
組織におけるこうした意思決定のプロセスには最大公約数的なまとめ方と、最小公倍数的なまとめ方が場面に応じて用いられることがあるとおもう。
組織の意思決定におけるそれぞれの考え方の定義について、私見は以下の通りである。
まず最大公約数の方はと言うと、異なる価値観や意見の中で、共通する要素を見つけ、そこを強調することで共感や合意を築くアプローチ。
簡単に言うと、既存の要素の中から最適な答えを出すやり方である。
一方、最小公倍数の方は、異なる要素やプロセスを調整し、異なる視点を調和させて統一的な意思決定を目指すアプローチ。
簡単に言うと、既存の要素の延長にある未知の最適な答えを出していく、また全員で共通の部分の差を埋めていこうとするアプローチ。
これは、かつての私の「みんなの意見のいいとこどり」に対応する。
多様性の受容の観点
上述の2つのアプローチを整理したところで、ふとある疑問が湧いた。
組織の意思決定においては、最大公約数と最小公倍数、どちらがより多様性を認めていると言えるのだろうか。
少し考えてみたが、私としては、どちらもある側面からは多様性を認めていると言えるのではないかと思う。
まず最小公倍数については、共通している部分のみにフォーカスしてはいるものの、これによって、多様なメンバーが広く同じように、全体の意思決定に対して納得できる部分が存在することを意味する。
また最小公倍数については、多様なメンバーそれぞれに対し、既存の意見の塗り替えを促すことにはなるものの、最終的な意思決定時においては、皆が広く納得できるものになっていると言える。
名前の逆転が面白い
最大公約数的なアプローチは、名前に「最大」とついているが、考えの幅、範囲は狭い。
各者の共通する部分での合意を目指すからだ。
一方、最小公倍数的なアプローチは、名前に「最小」とついているが、考えの幅の範囲は広い。
既存の考えにとどまらず、未知のアイデアを広げていけるため最終的な意思決定の着地点の可動域は広い。
私はここに、名称と実際のアプローチが逆であるという面白さを感じていたりする。
そして、最大公約数的な意思決定が採択される場合というのは得てして、メンバーそれぞれの立場や発言権が横並びであり、さらに上位の決定機関が存在する場合が多いと思う。
つまるところ、保守的なスタンスであると言える。社会を知り、こうした場面が比較的多いなぁと感じたりしている。
一方、最小公倍数的なアプローチは、最大公約数が保守的であるのに対して、革新的なアプローチと言える。
ただこれは、2つのアプローチを比較しての話であり、本質的にはあまり革新的なアプローチではないとも思う。私がかつて感じた限界とも関連している。
私なりの答え、最大公倍数
以上の経験や私見を踏まえて私は、その実現可能性はさておき、あえて最大公倍数(≒∞)的なアプローチというのも、頭の片隅に置いておいても良いのではないか、と思うのである。
公倍数的なアプローチをとる時、無限に考えが発散してしまうことを避けるために、限界値はもちろん必要だ。だから、最小公倍数というアプローチが存在する。そこは理解している。
しかしやはり、せっかく公倍数的なアプローチをするのであれは、はじめは限界値を設けず、つまりメンバーの共通的な部分の差を埋めようという意識もせず、異なる意見と意見をぶつけ合う中で全く未知の、想像もしなかったようなアイデアに辿り着いてやる!くらいのスタンスも、あっても良いのではないか、と思うのである。
これこそが、「みんなのいいとこどり」な最小公倍数的アプローチに限界を感じていた16歳の私への、今の私からのアンサーである。
相変わらず抽象的な話になってしまいました。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
では、また。