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褒められるとプレッシャーを感じる私が、「褒め依存」を抜けるために。
褒められるとプレッシャーを感じる
人に褒めてもらって、単純にうれしい!ハッピー!で完結するのはどれぐらいの割合の人なんだろう。
私は昔から、褒められたその瞬間は嬉しいけれど、「だからもっとがんばらないと」とか「同じような成果を出し続けないと」というプレッシャーのように感じてしまい、重荷だと感じる傾向がある。(これは同時に、次失敗して失望されたくない、という気持ちの裏返しでもある。)
自分の中で、褒められた事象は、基本的に95~120%の力を出した成果物であることが多く、「がんばってできたこと」であることが多い。(それ以外だと「特に意識せずできたが、再現性がないこと」と「特に意識せずできたし、再現性のあること」があと数割に含まれるが、これは後述する。)
だからこそ、常にこの全力疾走を求められる感じが本当に辛い。
だったらいつも6割くらいの力で過ごせばいいと思うのだけど、私は本当に力を抜くことが苦手だ。どうやってもうまく力が抜けない。
たとえば夫は、仕事でも私生活でも絶対に無理をしない。6割とはいかないまでも少なくとも8割くらいの余白をもって生活していると感じる。し、本人もそう言っている。
でも彼は頑張っていないわけではないし、もちろんやるべきことはやっている。この塩梅がうまい人なのだ。
だから、そういう姿を見るたび、バランスの良さを尊敬する。
「失望されたくない」という恐怖
前述した「失望されたくない」というニーズはどう考えても幼少期のトラウマからきているとわかっているのだけど、どうしてもこの認知から逃れられない自分がいる。
当たり前だけど、相手が自分に「失望する」なんて自体はそうそう起こり得ないはず。「失望」よりもう少しカジュアルな感情があるはずなので、日常生活において誰かから失望されるなんてことは頻発しないはず。そうわかっているのに。
なのに、たとえば「もうちょっとこうしてほしい」といったフィードバックがくると、「私は相手の期待に添えられなかったんだ」「きっと失望しているに違いない」「自分はダメだ」というサイクルに陥る。(書いていて怖いw)
だから、常に「失望されないため」にがんばってしまう。
「褒め」の種類によってプレッシャー度合いは変わる
そもそも深掘りしていくと、すべての「褒め」がネガティヴにつながるわけじゃなく、たとえば容姿や服装など、自分のスキルに依存しないものは別に重荷には感じないことがわかった。
なぜなら「容姿=いずれ老いる」「服装=それぞれの好みが分かれている」という前提が自分の中に確立できているからだと思う。
たとえば、容姿を褒められても、「この人も永続的に私がこの容姿じゃないことなんて承知の上で、今この瞬間の私の容姿(やメイク)を褒めてくれてるんだな」と受け取れるから、「明日もかわいくいないと」とか「もっと綺麗にならないと」というプレッシャーはない。
服装に関しては「この人の価値観や好みと私の服の好みが近かったんだな」という印象でしかなく、それによって「だから優位だ」とか「だから劣っている」みたいなことは感じづらい。
他にもプレッシャー度合いが弱いこととしては、前述した「特に意識せずできたし、再現性のあること」が挙げられる。
たとえば私は自分のnoteの文章を友達に「いいね」と言ってもらえたりする場面ではプレッシャーには感じない。これは特に頑張って書いたわけでもなく、好きなように書いたし、きっとこれからも自分の指が動くままに書いていればできることだからだ。
一方で、これと似ているものでも「特に意識せずできたが、再現性がないこと」に関してはめちゃくちゃプレッシャーになる。
たとえば同じ文章でも、お仕事で受けているライティングはその時々でベストを尽くしているので、(もちろん最低限は補償できるけれど)同じようなアウトプットを出せる自信がないし、再現性が薄い。
ここでそのアウトプットを褒められてしまうと、また最初に戻って「うれしいけど、またこのレベルにしなきゃ、全力を出さなきゃ」としんどい気持ちになることもある。
「自分の所属する社会において価値が高いとされてきたこと」に依存している
一方で、自分のスキルに依存する(と私が思う)ものに関しては全く違う。
たとえば「賢いね(=勉強ができるという意味の)」「仕事できるね」みたいなのはめっちゃ重荷につながる。(もちろんこうやって評価してくれた今までの周囲の人が悪いとかそんな気持ちは微塵もない、自分の捉え方のクセの問題だとわかっているので、どうかご了承いただきたい)
学習能力の高さも、仕事のスキルも、正真正銘、私が努力によって得た(得てしまった)もので、言い換えれば「努力すればいくらでも向上できるもの」だからだと思う。だからこそ「もっとできるよ」と期待されているかのように捉えてしまう。
しかも、これらは集団や組織において「褒め=価値が高い」という指標に依存しやすい。
学校で「賢いね」と褒められることは、成績表の結果がいいことにつながり、それは「学校」という集団において「価値が高い」とされていることだったりする。
組織で「仕事ができるね」と褒められることは、業績や組織のアウトプットに貢献している証拠であり、つまり組織において「価値が高い」とされていることだったりする。
もしこれが、モデルの世界だったらその軸はきっと「容姿」や「服装」になっていただろうから、これは総括するとスキル依存というより、「自分の所属する社会において価値が高いとされてきたこと」に依存しているのかもしれない。
「みんなそれぞれすばらしい」を体感できなかった
もちろんそれだけが価値じゃないと頭ではわかっていても、じゃあそれ以外の強みを持った人が評価されたりしたか?と言われるとそういった事例が少なすぎて、「みんなそれぞれすばらしい」を体感できなさすぎたのだとも思う。
だって、学校で勉強やスポーツが(一般的な評価軸において)苦手で、授業中におしゃべりしちゃう子はもれなく怒られ、問題児扱いされ、先生に疎まれていた。
だって、会社で、(一般的な評価軸において)仕事のスピード感が遅い社員たちは、チームで「改善案」を出す必要があると言われ、スキルの向上や業務内容の整理を求められていた。仕事がゆっくりだったあの人は、クライアントに怒られ、チーム成績に悪影響を及ぼし、もれなく面談が組まれていた。
実際、そうだったじゃんと思う。
だからこそ、この認知を変えることは本当に本当に難しい。
娘に継承したくない、「褒め」への依存
私にはもうすぐ2歳になる娘がいる。
娘には、私のように「褒められるかどうか」に依存しない大人になってほしいと強く思う。
もちろん、社会は他者との関わりでできているので、他者の影響を全く受けないなんて難しい。だからこそ、褒められたからうれしいとか、がんばるとか、そういうポジティブな感情はもっていてもいいと思っている。
でも、その影響に「依存」していくことがないよう、健全さを保てるよう私はサポートしたい。
そのためには、私自身が不健全な「褒め」への依存を根絶しなければいけないと思う。
今日からやってみることをいくつか調べたり考えてみたので、ここに決意を込めて残しておこうと思う。
「褒め依存」を抜け出すために今日からやること
・そもそも「がんばりたいことなのか」を精査してから取り組む
「がんばってできたこと」が褒められてしまう以上、この「がんばり」の使い所を私は見極める必要がある。仕事も私生活も全部全力で取り組んでしまうと、もちろん全部褒められる可能性も高くなるけれど、同時に「もっとがんばらないと」というプレッシャーの総数も増加する。
だから、そのプレッシャーを最小限に抑えるために、全力を出す場面を慎重に選ぼうと思う。
・力をセーブするスキルを上げる
何かを取り組むときに、放っておくとすべて全力になるので「ここは全力を出さない」と決めて、セーブすることのスキルを上げていく。上述の「がんばりの精査」を通過し、頑張ると決めたことだけ全力を出す。
・自分で最初に褒める
仕事だと、どうしても先方のフィードバックが最初の「褒め」に繋がりやすい。し、それを待っているということは、「他者評価=すべて」という方程式が成り立ってしまう。
だから、その前に、自分の成果物(※)に対して、自分はどこが素敵だと思うのか、どこを自分なりにいいと思っているのかを言語化して褒めようと思う。
そして、もしそれが他者評価と違っていたら、それこそ容姿や服装と同じように「それぞれの価値観があるから、この人には違ったんだな」と受け止められるはず。
(※)明確に数値で評価できること(提出期限や、タスクベースの雑務など)に関しては「褒められたとしても再現性があること」なので、プレッシャーにはならないので、だいたいこれは数値で評価できない、ライティング系や制作物系の成果物を指す。