【37日目】会社辞めました_退職後何も決まってない人のありのまま記録
9:30 起床
引き続き遅めの起床。おばあちゃん家は木造で隙間風が寒すぎて布団から一歩も出たくない。でも防寒バッチリのマンションでは味わえない底冷えする感じ、悪くない。キンキンに冷えた後に急いでつけるガスストーブが天国みたいに感じられるもんね。
11:00 緩和ケア病院へ
93歳になる祖父がこの冬ついに体調を崩して入院した。さいごは穏やかに過ごせるようにと最近緩和ケア病院へ転院したので会いに行った。(コロナの関係で前の病院では面会NGだった)
痩せ細った体、半開きの目、聞こえない声、その全てが、元気だったおじいちゃん像とはかけ離れていて、少しドキッとしてしまう。
「辛い」とか「悲しい」の「ドキッ」ではなく、徐々に衰えていくその姿、生命の灯火が徐々に消えていくその不安定さに見てはいけないものをみているような、どういう表情をしていいかわからない、そういう類の「ドキッ」だ。
私は人の死に向き合う度、周囲との捉え方の違いに、どうしていいかわからなくなる。
ここ数年で大叔母と叔祖父と父方の祖父が亡くなった。
涙する親族を横目に、だけど、「悲しい」とか「寂しい」という感情はわかなかった。疎遠だったわけではない。年に1度は会っていたし、よくしてもらった人ばかりだった。
だけど、どうしても「それがこの人のタイミングだったんだ」と静かに納得する自分がいる。そこには悲しみより、その日まで「生き切った」ことへの感謝やおつかれさま、という気持ちの方が大きい。
昔から国境なき医師団のドキュメンタリーなどを見すぎたせいなのか、「いつ死んでもおかしくない」というスタンスで生きているからこその感覚かもしれない。
私たちは、(自殺などのケースを除けば)自分の死ぬ時を選べない場合が大半だ。
そんな世界では、誰がいつ、どんな形で死ぬかなんて想像もつかないし、それこそ明日、大切な誰かが、もしくは自分自身が死んだっておかしくない。
だから、望む形だったかどうかにかかわらず、最期のその時まで生き切ったこと自体が、とても尊い事実だと思っている。
もう一つ、「悲しい」という感情の裏に潜む「生きていてほしかった」という願いの重さも苦手なのかもしれない。
「生きていてほしい」という願いは、時にとてもともても重い、期待のように感じてしまう。
もちろん、例えば私だったら、大好きな旦那さんにずっとずっと、生きていてほしいと思う。だけど、生きる権利は彼のものであり、死んだ方がいいくらいの悲しみや、辛さや、想像できない苦しみに変えてまで、私が願う権利はないと考えている。苦しみを増やす願いより、少しでも彼が満ち足りてくれる選択を私は全力でサポートしたいと思うからだ。彼に幸せでいてほしいからだ。
そんなことを考える、お見舞いだった。
13:00 姪っ子に会う
病院の後は姪っ子たちが待つおばあちゃんの家へ。久々に会う姪っ子たちは無条件でかわいくて、デンマーク土産のお菓子を物珍しそうに食べる姿を永遠に見ていられた。
大叔母と叔祖父は定年後2人で30カ国以上を旅していた。ドイツ、デンマーク、フランス、ハワイ、アメリカ、、、名前を聞いたことはあるけれど、小学生だった私には想像もできないくらい遠い国々だった。
おばあちゃんやおじいちゃんのが見せてくれた写真は、海外旅行どころか国内旅行もままならない家族のもとに生まれた私にとって、唯一外の世界を知れる手札だった。
お土産に異国の地のかわいいストラップや磁石をもらう度、自分の持ち物の中でも圧倒的な空気感を帯びたそれらに、何度も何度も想像を巡らせた。
そんな「憧れ」を私は大人になって自分の力で現実にできた。もう誰に頼らなくても飛行機を取って、好きな国に飛んで行ける。
姪っ子たちも、いつの日か、今日の異国のお菓子の思い出を胸に、飛行機に乗る時がくるのだろうか。わからないけれど、彼らの小さなきっかけを作れるおばさんでありたいと思う。
18:00 年越し蕎麦を食べる
京都で買ったお蕎麦を食べた。美味しかったし、父のいない大晦日の穏やかさに、母と二人で「幸せだね」と言い合った。
19:00 編み物をする
母に昨日から教えてもらっている編み物。ようやく慣れてきて1人で編めるようになった。
この毛糸のおかげで下手さバレない
編み物の目標にするクリップがかわいい
途中2段間違ってるけど、そこはアクセントとして 笑
そして夢中で編んでたら年を越してた。
そんな新年でした。
明日はこれを小さいポシェットにする予定。
それではまた明日。
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