AIが芸術方面にまで台頭してくると、人間の側はより「人格の時代」になってくる気がする。
最近、twitterで#midjourney と検索すると、こちらの予想以上にクオリティの高い画像が生成されている様子が伺えます。背景として使える自然系には強いだろうと思っていましたが・・・
学習過程で「萌え」の画風トレンドも移り変わるのでしょうか。
見出し画像はこちらのデモサイトから。
本題に入ります。
AIが人間の能力を超えた精緻な芸術表現を無尽蔵に生み出すことになるとすれば、人が生み出した作品を鑑賞する我々は、次第にアーティストの「技術力」以外の面も総合的に意識していくようになるだろうと私は思っています。
作品を通して、それを生み出された方の確立された世界観であったり、またはそこから滲み出てくる精神性、そういうものを探求するようになっていくでしょう。
AIが「生成」するものは集積知からの条件検索によるアウトプットであり、そこには膨大な学習データは存在するものの、純粋な特定の個人を感じることはできません。なので鑑賞する側としては「この人が描いたんだ」というのを感じたいという欲求は必ず出てくるはずなんです。それは今後のAIの「技術力」の進化とは全く別のベクトルでずっと残り続けるものです。
SNSの登場時点で、「技術力」以外の面も自らプロデュースしていく能力が求められている雰囲気は感じます。そういうことが元来得意ではないけれど、何とか頑張ってそれらを使いこなそうとしている人も実は多くいるのでしょう。
なのでAIが芸術方面にまで進出してきたとあっては、よりセルフプロデュースに力を入れなくてはと考える方も増えてくるのではないかなと思ったりしています。
けれど私は、そういう意味で「自分を出す」ことがストレートに今回のタイトルで言うところの「人格」とは微妙に繋がらない感覚を持っています。これ言語化がすごく難しいのですが・・・
「これこれこういう人です」っていうのは、鑑賞する側の我々が、語られていない領域を想像するのが面白いのであって。
*「我を出すな」と言っているわけでは全くないです。
個人的な意見としては、「今まで通り自然体で良いと思いますよ」ってことですね。
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