豊かな人間関係
どうする必要もないであろう。そもそも中年にもなって「友達」が欲しいという感情が、まるで私のような人間嫌いには理解に苦しむのだが。
この手の、ある種の心の弱い者が発する「ねっとりとした」陰鬱な吐露が不快極まりない。まだ女子大生相手にお金払って食事の相手をしてもらっている小金持ったおじさんの方が、はるかにマシであると思う。
ネットで固定HN持って10年も活動していると、長い関係が続いている方もそれなりにいる。私とネットで長期に渡ってコンタクトを取り続けている人は、何故か健康問題を抱えている人が多く、実際に会うということが難しい面がある。ただし、ここでその中の一部の人は「対面する」こと自体にあまり意味を見出していない。
定期的に「会いたい」って言ってくれる人もいて、それで数回会っている方もいるので、そこは素直に「友達」という関係性に入ると考えて良いかなと。ただ、それも元々の出発点は「yuki」として自分の趣味嗜好、物の考え方を発信する私を受容してくれたのであって、それは「実存としての私」ではない。
先の記事で「友達が欲しい」と嘆く中年は、殊に「実存としての私」を受け入れてもらいたい、という切実な願望を感じてしまうのだ。中高生のセンチメンタルな感情ならまだしも、40を過ぎた男がそれを事もなげに打ち明けるというのは、やはりこれは薄ら寒い。
「実際に会うことが、さして重要ではない」と相互に意思の確認を取っているような、一見不思議な関係に見えるにも関わらず、私が不意に炎上してしまった際には助け船を出してくれたり、しばらく2、3か月くらいメールが来ないなぁって時期が続いたりすると、また体調が良くないのかしら、なんて心配してみたり。
これはちょっと普通の友達よりもよほど深い関係性にあるのでは?と思わないでもない。
「表層的な友人関係」よりも、会ったこともない相手とより深い関係を構築できるのは、「寂しい実存としての私」を受容してほしいのではなく、相手の趣味嗜好・知見・哲学をより深く享受したい、そういう思いが先行しているからである。であれば自ずと「相手へのリスペクト」が生じるだろう。
言葉使いは時を経るとフランクになっていくかもしれないが、お互いに立ち入るべきでない領域を弁えているし、「それには興味がない」ので、そこにはドライでカラッとした空気が流れている。それでいて「冷たくない」のである。
そしてこれこそが、「豊かな人間関係」の一例ではないかと私は考えている。
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