障害と偏見の受容

「障害者」と聞いて、皆さんはどんなイメージを持ちますか?

わからない、大変、頑張っている、優れた才能がある、何も思わない…

様々な答えがあると思います。

私は一応当事者ですが、「障害者」に対する「偏見」がたくさんあると自覚しています。

障害者とひとくちに言っても、本当に千差万別。

一人ひとり考え方が全く違います。

ここで書くことは、私の意見でしかありません。

「障害者」というのはカテゴリーでしかない、ということを感じてもらえたら嬉しいです。

※ちょっと長いです(以下2,500字程度)。

※結論は「理解し合うこと」に書いてあります!

私のこと

始めに、私の障害を少し詳しく書いてみます。 


区分:肢体不自由(上肢)

等級:2種3級

障害名:先天性による左前腕より欠損


こう書くと難しいのですが、生まれつき左手のひじから先がない、っていうだけの障害です。

等級というのは、それによって使える割引などが変わってくるので、そこはけっこう大事な情報だったり…笑

障害の種類に興味のある方はぜひこちらへ↓

(障害再認定というものは初めて知りました、もし手が生えてきたら受けてみようと思います)

私はたまに「かわいそう」と言ってもらうことがあるのですが、私自身は障害者を「かわいそう」だと思いません。

しかし昔は、障害者である自分のことを「かわいそう」だと思っていたのかもしれません。

そんなことを、少しふりかえってみようと思います。


健常者への偏見

大学時代、私は「障害者への偏見をなくしたい」と思って福祉学科に入りました。

3年生からは、その中でも「障害者ソーシャルワーク」という分野を専攻していました。

「障害」ではなく「障がい」と表記しましょう。
個人に障害があるのではなく、社会が障害を作り出しているのです。

このように、授業では「健常者」から見た「障害者」について勉強していたように思います。

これはとても新鮮なことでした。

私にとって当たり前である「障害」は、健常者にとっての当たり前ではありません。

だからこそ「障害とは」という定義から始まるわけで。


障害者を勉強するのは、障害者への偏見をさらに強くすることになるんじゃないか。


そんなふうに、私自身が「健常者」から見た障害者の考え方に「偏見」を持って勉強していました。


障害者への偏見

「私はあれもできるしこれもできる。なのにさ、やらなくていい、なんて偏見じゃない?」

母と話していた時、私はふとそんなことを聞きました。

小学校などでは「やらなくていいよ」と言われることが多く、とても悔しかった記憶があるからです。

しかし、母の答えは私の予想と全く違うものでした。

「あなたのできることが何かなんてわからないよ。だってみんな、片手で生活したことなんてないんだから。」

私は片手で生活することが普通です。

普通にできることを「やらなくていい」と言われているのだから、それは障害のことを「かわいそう」と思われているのだと想像していました。

しかし、その「かわいそう」は私の思い込みでしかありません。

大抵の人は、「片手でこれをするのは大変だ」という想像があって、「大変なことはやらなくてもいいよ」と言う意味で言ってるんじゃないかと思います。

私も誰かが大変そうにしていたら、「やらなくていいよ」と声をかけます。

まあ、これもあくまで想像ですが…


私は勝手に、自分のことを「かわいそうな人」だと思い込んでいたんだ。

「障害者はかわいそうだと思われている」という世界で、私は生きていたんだ。


そう気づきました。

世界はそんなに、障害者のことを軽蔑しているわけでも、差別しているわけでもないでしょう。

接する機会が多くないから「わからない」のが本音ではないでしょうか。

社会が障害者を差別しているというよりも、「障害者は差別されている」と思う人たちが、そういう社会を作り出しているのかもしれません。


偏見を伝え合う

常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。

これはアインシュタインの言葉です。

今回の記事もまさにこれで、私の常識、すなわち「偏見」でしかありません。

人は誰でも、自分の常識で固められた世界を生きています。

ならばその世界は、偏見の塊であるといっても過言ではないでしょう。


偏見を持たずに生きていくことはきっとできません。

なぜなら、私たちの世界には正解がないからです。

世間一般では、「両手のある世界」が普通ですよね。

しかし、「左手のない世界」が当たり前の私にとって、「両手のある世界」は異常な世界になります。

このように視点を変えることで、私たちの世界は普通にも異常にもなり得ます。

正解は人によって変わってしまうのです。

これだと健常者と障害者は共存できないかのように思えますが、そんなことありません。

同じ世界に住むことはできなくても、お互いの世界を伝え合うことはできます。

海外の人と話す時を想像してみてください。


「日本では、部屋に上がる前に靴を脱ぐんだよ。」

『私の国で靴は脱がないよ。日本の面白い文化だね。』


これと同じです。


「袋を開けるとき、私は左手の代わりに歯を使うよ。」

『そうなんだ。私も片手ならそうするかもしれない。』


これだけでいいんです。

お互いの世界を変える必要は無いんです。

否定しないで受け入れること。

「私の世界が正しいんだ」という主張より、「私の世界はこうだよ」と伝え合うことで、私たちの世界はきっと広がります。


理解し合うこと

偏見とは、相手を理解しようとせず、自分の世界だけを正解としてしまうことだと私は思います。

「私が正しくて、あなたが間違っている」

それだけでは偏見はなくなりません。

偏見:かたよった見方・考え方。ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしにいだかれる非好意的な先入観や判断。

引用: https://www.google.co.jp/amp/s/www.weblio.jp/content/amp/%25E5%2581%258F%25E8%25A6%258B

世間的には「障害者への偏見」が重視されがちですが、障害者には「健常者への偏見」がないのでしょうか。


…ごめんなさい、私は偏見を持っていました。

私は何でも出来るのに「やらなくていい」と言われた。これは偏見だ!

この考えこそ、「私は正しくて、相手が間違っている」という、私の健常者への偏見そのものでした。

私はあれもこれもできるんだよ。だから一緒にやろう。

人は自分の感覚以外を体験することはできません。

だからこそ、お互いに伝え合うことが大事なんです。

偏見を認め合うこと、異なる世界(価値観)を伝え合うこと。

そうやってお互いを理解し合うことが、偏見を減らす近道なのかもしれません。

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もりしー
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