分かり合えなくていい
というポジティブな概念。
否定語はネガティブに捉えられがちだけれど、救いを含んでいることも多いと思う。
分かり合える、という感覚が生み出す傲慢さや他者理解、多様性への壁。
そんなことを感じるのはやはり、自分自身が社会に適合できなかったこともある。
本当の意味で、社会に適合している人とは、社会とはなんだろうか。
年の瀬には少し語りたくなる。
そんなことを書き連ねる。
分かり合うとは
人と人は分かり合える…ことがある。
親族や友だち、恋人など、環境や価値観の近い人と、通じあっているように感じることは多いかもしれない。
しかし、どれだけ近しい人でも、この価値観は合わない、理解できないと感じることもあるのではないだろうか。
もちろん、本気で語り合って、ぶつかって、それを乗り越えた友だち、親友はいるかもしれない。
最初は苦手だったけど、少し理解できるようになった人もいるかもしれない。
それはそれで素晴らしいことだけど、みんながみんなそうなれるわけではない。
異なることを理解する
最近よく聞く多様性は、「異なる」ことが前提である。
自然界に多様性があるように、人間にも多様性が存在している。
では、異なる存在と分かり合うことはできるのだろうか。
例えば、私は左手の肘から先が欠損している。
大多数の両手がある人からしたら、左手がない、ということを想像はできても完全に理解することはできないだろう。
逆に、私も両手がある生活を理解することは一生ないはずだ。
少し強引かもしれないが、このように他人の感覚や感情を完全に理解することはできない。
あくまで「想像することができる」だけだ。
しかし、それで充分なのだと思う。
多様性を推進する現代においては、異なることを異なると理解する、というマインドが重要なのではないか。と思う。
分かり合えない前提で
分かり合うことを前提とするならば、分かり合えないということは、誰かに何かが足りないのでは、となる可能性を含む。
わかろうという気持ちが足りない!という根性論的な話になったり、思いやりがない!という人格的な話になったり。
それが良いか悪いかは置いておいて、他人を理解するということは、努力ではどうにもならない場合も多い。
犬より猫のほうがかわいい!という人に対して、猫より犬のほうがかわいい!と主張しても伝わらない。
そしてそれには正解がない。
犯罪はいけない、という人類の存続のためのものであれば多少変わってくるが、それも戦争などで根底が変わる場合もある。
前提条件、つまり、生まれも育ちも考え方も違う。そんな人同士が分かり合える、ということのほうが稀なのかもしれない。
だからこそ、人と人は分かり合えなくてもいい。分かり合えないことが当たり前でいい。
分かり合えないという前提条件があるからこそ、相手と向き合えるのかもしれない。理解しようとできるのかもしれない。
そう考えると、人と人との関わりというのは、思っているよりも簡単なのではないか。
分かり合えない、という感覚が、人間関係を少し良くしてくれる。
そんな感覚で、今日も人と関わり続ける。