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廃駅とニート。路線を維持するのは難くても

ある平日の昼間、私は部屋で寝転がり、Xを眺めていた。
タイムラインに、2023年に廃駅となったJR北海道の留萌駅の画像が流れてきた。

廃駅となってからまだ2年も経っていないのに、
立派な駅舎の正面に掲げられた「JR留萌駅」の文字はかすれて傾き、
窓や扉はバリケードのようなもので封鎖され明かりも人影もなく、雪に埋もれていた。

しかしそんな寒々しい画像を眺めていると、不思議と暖かく前向きな気分になってくる。
鉄道駅という社会的な役割を失い、うら寂しい外観となった今も、
こうして誰かが訪れて写真をとり、国際的なSNSにアップされ、津軽海峡を隔てた隣の島に住む私に何かを届けてくれている。

ふと、廃駅はニートと似ているなと思った。
ニートといっても、子どもの時とか、あるいは前世とかでは、
何かしらの社会的に承認された役割があり、華やいでいた時期もあったかもしれない。
しかし、盛者必衰、鉄道路線が有限であるのと同じように、そのような生活は永遠には続かない。東京駅でさえ、いつかは廃駅となるだろう。もう花盛りは過ぎているかもしれない。

とはいえ。
廃墟の画像は各種SNSで魅力的なものとして拡散されることは少なくない。
廃駅にもタンポポは飛来し咲くし、現役時代に植えられた桜も毎年咲く。
人が少なくなった分、鳥たちの飛来は増えているかもしれないし、
忙しい生活者や旅行者の往来は減った分、暇な物好きが訪れるようになったことで、
海を越える幻の電車の行き交いが増えているかもしれない。

例えば湯宿を維持することができず廃業となった後も滾々と湧き続ける温泉のように、
そもそも湯宿を一度も経験したことのないワイルドな野湯のように、
リノベされようがされなかろうが、廃駅は間違いなく生き続けているのである。
むしろ別次元では、現役時代よりも華やいでいるかもしれない。
駅舎を失い、もはや廃駅ですらなくなったとしても、それは変わらないだろう。

同じようにニートと呼ばれる人間にも。
様々な思考や感情が行き交い、赤トンボが泊り、木々はそよいでいる。
ニートとは、東京駅にも負けない、巨大なターミナル駅なのである。


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