「レヴュースタァライト」を越えて〜劇場版スタァライト感想〜
※このnoteは前日譚「アルカナの示す先は(少女☆歌劇 レヴュースタァライトとタロット、スターシステムについての情報整理、及び劇場版の予想)」と一緒の記事にまとめていましたが、あまりに長文が過ぎたので改めて劇場版を観た後の感想のみを抽出・加筆したものです。
いやあ……大満足だ……
スタァライトで皆が観たかったもの、未消化だったこと、監督やスタッフ陣がやりたかっただけのこと、その全てを2時間に凝縮していましたね。
当初立てていた予想(舞台少女たちの卒業と取り残される華恋、執着の終着、主題の繰り返し)は概ね当たりに近いものでしたが、更に輪をかけてやりたい放題やってくれましたね。
はじめに好きなシーンなぞをぽろぽろと。
・進路に早大文学部を選ぶ星見さん。
ショックを受けられた方も多いかもしれませんが、日本の演劇界で考えると納得がいきます。早大には舞台人、演劇人を多く輩出した自由舞台等の老舗演劇サークルがあり、その出身生はアングラ演劇などで台頭し、現在では日本の各劇場の芸術監督に就任されている方、現役の方も多いです。
・俳優か制作(裏方)か。舞台に携わることが主の大場さん。
決起集会でインパクトを持ちビス打ちする大場さん。某歌劇団をモチーフにしている本作では、女優さんは表に出るのが仕事だからと裏の大道具などに関わろうとする人はごくごく稀でしょう。それを進んでやる彼女がやっぱり推せる…最終的に王立演劇学院に留学したという示唆がされますが、あちらは日本よりも分業のレベルが進んでおり、裏方の仕事についてをメインとして、学べることを全部学ぼうとしているんだと感じます。
他にも他にも、
・急に変形してどことなく新エヴァやピンドラを彷彿とさせる列車
・遅れてやってくる2本目の刀
・やけに作画に気合の入ったデコトラ
・やけに色気のあるふたかお
・唐突に表面化するまさあめ(関係性オタクの心拍数が上がるやつ)
・幼少期の内気な華恋ちゃん
(→カニハニワが好きなのは、そんな内面の自己投影だから?)
・まひリンピック
・星見純那の構築する原稿用紙フィールド
・大場ななの「がお。」
・度が過ぎて尊大(=驕り)な真矢
・劇場版でいい女、バランス感覚のある女度が更に増すクロディーヌ
・進路のひとつに上がっていた青嵐
・お前実は華恋の事めっちゃ好きだろメガネ男子
・胸を刺されてめちゃくちゃ吹き出すポジションゼロ
・でっかい"T"
・タワーが刺さってポジションゼロ
などなど、丁寧に星を積み上げていったアニメ版とは異なり、荒々しく豪華なバイキングのような、まさしくワイルドな劇場版でした。
1)舞台少女の死と主題
舞台少女の死とは何なのか、それを聖翔メンバーに提起したのは大場ななでした。大場ななは皆殺しのレヴューで、このままでは舞台少女としては死ぬ(私たち、もう死んでるよ)ということを皆に示します。抜け殻となった不気味な等身大の人形は死んだ自分の象徴。舞台少女は新たな燃料を賭して再び燃え上がらねばなりません。
死の意味するところは向上心を無くすこと、新たな舞台を求めることをやめること、停滞すること、歌って踊って、奪い合わないこと。
それを死として、本作ではこれまでより更に映像で直接的に表現してきました。
しかし本作における死は、再生産のために必要な過程でもあります。タロットの運命の輪のように、死と再生を繰り返すエネルギーこそ、スタァライト・舞台少女の主題です。問題なのは、死んでいることを自覚せず、死んだまま腐っていくこと。あるいは、恐怖に立ち止まること。
決起集会で、既に舞台の上に立っていることを自覚している天堂と大場を除き、舞台少女として歩む覚悟を決めかねている皆は輪の外に居ます。B組(冒頭のキリンの「間に合わない」然り、これが制作陣の心境と彼女たちの心境との2つが重なっているのがニクいですね)の意志に揃って前に進むことが出来ませんでした。しかし「あ~~~~!!!怖いな~~~~!!!」と恐怖を受け入れ進もうと切り出した演出眞井の一言から、少しずつ皆んなの心に火が灯されていきました。
また、本作でキリン(観客)は自らを燃料として燃やし、舞台少女にトマトを託しました。それが「レヴュースタァライト」で唯一キリンに与えられた配役であり、キリンは満足して燃えていきました。
観客の望み、応援が舞台少女の力になることの暗示だと考えられます。
2)ワイ(ル)ドスクリーンバロックの意味は
ワイドスクリーンバロック、SF作品で用いられるとされるジャンルの一種だそうですが、つまりは一種の荒唐無稽さ、ナンセンスさ、表面的論理性の否定を意味しているようです。アニメ作品ではグレンラガンやキルラキルもこのジャンルの要素を含むと言われていて、類似性に納得がいきますね。
劇場版スタァライトでも映像演出の一環として、急激に変わる場面転換、キャラクターすら置いてきぼりにされるレヴューの開始などに現れています。
また、本作においてキリンは植物の騙し絵として描かれましたがこれはジュゼッペ・アルチンボルドの作品群の明確なオマージュです。
アルチンボルドはマニエリスム(マンネリの意味。創造性を失った芸術、つまりキラめきの喪失とも読み取れる)の時代の作家であり、自然の完全性を追求したルネサンス期から、それを誇張していびつな美を見出していくバロック期に渡っていく過程の画家です。
スタァライトで描かれる美(→作品的な善)の方向性は、演出過多で、輝いていて、奪い合い、争い合う、獣のような獣性を秘めた美学です。だからこそワイドではなくワイルドとしたのでしょう。
また本作で象徴的に扱われたトマトは、ルネサンスからバロックへ移っていく、大航海時代以降にヨーロッパに持ち込まれた植物です。
水分が少ない過酷な環境であるほど糖度が増す特性を持ちます。飢えていればこそ強くなる性質が舞台少女にピッタリ。
また、赤く血肉を思わせるため"牛の心臓"と呼ばれる品種もあり、肉体的な象徴でもあります。
イタリア語でトマトのパスタはポモドーロと呼ばれ、語源を正すと金色の(d'oro)リンゴ(pomo)を指します。リンゴといえば再生讃美曲の「エデンの果実」に繋がり、知恵と欲望の象徴でもあることがわかります。
リンゴは原罪の果実であり、本作ではそれぞれが相手に対して思っていた罪を告白することで赦されていったことに、創世記のテーマが表面化しています。
3)『スタァライト』〜必ず別れ、また繰り返す物話〜
アニメ版における『スタァライト』のあらすじや、『スタァライト』の持つ作品構造を確認してみます。
衝突し、別れ、生まれ直すことは、本作が『スタァライト』という劇中劇を内包する「レヴュースタァライト」である以上逃れられない宿命なのです。第100回を迎え、例え悲劇でなくなったとしても、その根本が"普遍的な離れ離れになることを繰り返す"永遠の物話『スタァライト』である限りその性質を持ち続けるのです。
その構造を脱するには、どうすればいいのでしょうか。
『スタァライト』で行く手を阻む女神たちは、それぞれ負の感情の名前を持っていました。第100回の改訂版『スタァライト』では、それら女神がもともとは正の感情の女神であったことがわかります。
しかし101回目の聖翔祭ではふたたび、負の感情の女神に戻っていました。舞台少女たちも負の感情に支配され、停滞していました。一度カタルシスが起こっても、心は再び腐っていくのです。だからこそ、再び生まれ直すこと、再生産が必要なのです。
4)剥き身のレヴュー、オーディションではないワイルドスクリーンバロック
レビューの最中で天堂真矢が「舞台の上でこそ、私は本当の私でいられる」といった旨のことを口にしていましたが、これこそ本質を突いた一言だと思います。
生の舞台って本当に怖いところで、虚構を前提としているからこそ、ウソが通用しないんです。根っこに真実がないと、伝わらないし見透かされます。舞台ではその人の人間性が白日の下に晒されるのです。つまりそれは剥き身。本作で繰り返される獣性(ワイルド)の在り方です。飾り立てない本心、本音、本質。いわば真心のこもった真剣です。
本作のレヴューシーンにおいては、そうした本音・本質以外の言葉は意味をなさず「しょうもない」「喋りすぎ」といった具合に切り捨てられました。
停滞してはいけない。舞台を進めるため、自分の未来を進めるために、本心の真剣を握りしめ、自らの死を認め、相手に死を与えなければ、再生産しなければ先に進めないのです。
双葉と香子は相手のせいにする依存関係を清算し、
まひるはひかりを(愛憎入り混じる意味で)大嫌いだった事、
ひかりは華恋から逃げていた事を認めて、
ななは純那を愛玩し見下していた事、
純那は他者の言葉に威を借りて及び腰だった事をやめて、
真矢は自身の正体がエゴの塊である事、
クロディーヌはライバルであり続ける事を受け入れ、
執着を消化し、精算して、
終着を昇華し再生産して、
新たな関係性を結び直して、それぞれの次の舞台へと進んでいきました。
アニメ版で構築されていたと思いこんでいた、追って追われるキレイ事の関係性は解消され、レヴューの勝者は逆転し、剥き身の本性をぶつけ合い、燃やし、ドラマを産み、変革・再生産して、舞台少女達はそれぞれの舞台に。
では、どうしてこのようなことが起こったのか?
「今回のレヴューはオーディションではありません」
誰かが選ばれるオーディションとは本番の舞台上で行われるものではなく、舞台に上がるべき人物を選ぶために行われるもの。
オーディションでは自分が選ばれるべき人物であることを示すため、全力を賭して理想の自分を演じるでしょう。
しかし本作では、舞台少女たちはもう舞台の上に上がっています。それは本番の舞台の上。本番の舞台で自分を着飾ることはありえないこと。ななが御託を言う純那を「だーかーらー」と許さず、まひるが「どうして舞台から逃げるの」とひかりに詰め寄ったのは、そこは共演者や観客と剥き身で相対する、真剣勝負の場所だからなのです。
5)役割と舞台、そして舞台少女からの卒業
大場ななは本作においてかなりの時間、自分の役割に徹していました。彼女は「レヴュースタァライト」の世界にいながら、『スタァライト』の美学を否定するもの。それが別れを繰り返す「レヴュースタァライト」の舞台装置である"大場なな"の役割でした。
アニメ版では観客に「レヴュースタァライト」のループ構造の種明かしをし、『スタァライト』の悲劇を否定しながら華恋に破れ、ロンド・ロンド・ロンドではひかりを待ち受けて物語を劇場版に引き継ぎました。
劇場版では舞台少女たちを前にして強者として君臨し、低い声で威嚇し、彼女らを糾弾して現状に気づかせようと試みました。また、目標を失った華恋から舞台少女になったわけを引き出し、彼女をひかりの元へと送り届けました。
「私だけの舞台とは?」
序盤から提示されたこの問いかけ。
それを端的に表す言葉にして擦り切れるほど引用されたのは、シェイクスピア劇中の言葉「この世は舞台、人は皆役者」でしょう。
この句は人間が生きていく上での、場毎の役割について示唆していますが、ここで見落としてはいけないのは、そのそれぞれが主役とは言っていない点です。
これは個人的な見解ですが、例えばシェイクスピア作品随一の知名度を誇る『ハムレット』でさえ、タイトルロールのハムレットを主役として描きたくて書かれたものではなく、それを通じて悲劇性の中の喜劇性、猜疑心や嘘は必ずバレること、人を騙せば必ずその報いがあることなど、多層的なテーマを感じてもらうために書かれたものです。
ですから「この世は舞台、人は皆役者」という言葉も、「それぞれが人生の主役として」ではなく、「それぞれが立つ舞台(環境や人生の岐路)において、(他者から、神から)求められる役割を果たせ」という意味を指すのだと思っています。
舞台上に登場人物が現れる時、それは役割を持って現れます。その役割を果たすことが出来ればその場に存在する理由がなくなるので、退場していきます。
本作のレヴューシーンでは普段の舞台少女としての衣裳ではなく、なんらかの劇を演じている役者として様々な衣装を身に纏っていました。配役をされた上で舞台上に上がった俳優は、果たすべき役割があり、それを終えれば退場します。
ひかりは日本でのレヴューのために来日し、運命の舞台で無間地獄を選んで失踪しました。また、第100回聖翔祭後も自主退学しました。
劇場版でキリンは自らの役割に気づき、燃料となって舞台に火をくべて、退場しました。
舞台装置として物語を強引に進めた大場ななもまた、役割を終えた後狩りのレヴューで舞台少女としての自分の(相手への)執着に落とし前をつけ、純那と別々の道を進み、退場していきました。
華恋にとって、舞台はひかりちゃんでした。
ひかりも華恋も、お互いにキラめき(舞台上での情熱、生きた感情)を失くす共通の経験をしてはいましたが、華恋はひかりちゃんとの約束だけを信じて、「見ないし、聞かないし、調べない」でがむしゃらに努力を続けてきました。でもそれは舞台に立つことが目的ではなく"ひかりちゃんと再開するための手段"でしかありませんでした。華恋は舞台そのものを、それまできちんと見つめようとはしてこなかったのです。
舞台版#1でも彼女は、大場ななと一緒に「皆仲良く」を主張する舞台少女でした。劇場版で、ななは華恋と一緒に電車に乗っていた時、"主役・トップスタァになりたいという望みが中心じゃない"という共通点を持っていたからこそ、彼女の背中をぶっきらぼうながら後押ししたのでしょう。
今回ひかりちゃんと決別し、自分だけの未来を見つけようとして初めて、
華恋は舞台から見える客席の人々、舞台に立つ恐怖を自覚します。
華恋はこの瞬間、他のみんながすでに到達して乗り越えていった舞台の上に、ようやく一人で立ったのです。既に自分の居場所を舞台に決めたまひるや真矢たちは、それぞれ自分の進路を明確に前向きに書き示していました。
では、華恋は?
劇場版の終盤で、ひかりによって華恋は自分の過去を精算し、自分を再生産します。
そして華恋とひかりは自分の名前の看板を背負い相対します。
これは彼女たちが自分だけの舞台、それぞれの人生を歩もうと決意したことを示し、更には「レヴュースタァライト」という作品によって彼女たちに与えられた役割(物語の結末へ向かうこと)を全うしようとしたことを示すものでもあると感じます。
『スタァライト』の物語を終えた華恋は、遠い星でも、ずっと昔でも、遥か未来でもない、現在、現時刻に舞台のオーディションを受けます。
新たな舞台に進むために。
愛城華恋は、次の舞台に。
彼女はもう"「レヴュースタァライト」の主役としての愛城華恋"ではありません。愛城華恋という一人の人間になったのです。
他の舞台少女たちもまた、「レヴュースタァライト」と舞台少女の象徴である上掛けとボタンを空に飛ばし、卒業しました。
星(トップスタァ)を目指す道しるべだった塔は役目を終え、崩れました。
塔は2つに別れて登ることは出来なくなり、必ず別れる物語『スタァライト』の幕は閉じられました。
『スタァライト』が作者不明の物語であるのは、もしかしたらその永遠の物語が、出会いと別れを繰り返しながら自分を何度も再生産させていく、あらゆる人の普遍的な人生の象徴だったからなのかも知れません。そして別れ、一人立ちする物語でもあったのだと感じます。
未だ見ぬ結末を自ら記して、舞台少女たちは塔を降り、歩き始めました。
「レヴュースタァライト」から先へ、
それぞれの新たな舞台へと進んでいったのです。
あ…余談ですがパンフレットの大場ななの台本、
彼女だけ、自分の演じる役にマーカーや丸をつけるといった強調をしていないんですよ…ふつう主役ありきの舞台を考えてる人なら間違いなく強調するんですが、それをしないという事は主役への拘りが無い・あるいは舞台は皆んなが作るものだという意識が非常に強いってことなんですよね…加えて書き込みも最小限で、心理面やディテールが細かく書いてある純那ちゃんとの対比が…もう本当に解釈一致…
ななちゃんは皆を愛する怪物だから端っから自分の拘りがない上に感性も鋭いから、書き込みを入れずとも表現しなければならないことが直感的にわかるんでしょうね…すげえわ…