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[#私のイチオシ] 杉村くん 第16話~ごっつあん~

BSの「世界サブカルチャー史」という番組をご存じでしょうか?映画とか音楽などのサブカルチャーを通して世の中の動きを分析する的な番組で、すごく面白くておすすめです。

この日本編(1960年代~1990年代)ではおおまかに、60・70年代で我々の生活の豊かさがMAXになったけど同時に空虚を抱えるようになって、毎日浮かれていればそれが埋まるかと思ってたら結局埋まらないし景気も悪くなって病みが進行した…という分析がされていました。なるほどそうかもね~と思ったプラス以前から考えていたこともあって、今回の漫画を描きました。

2000年代あたりから「リア充」という言葉が出てきましたよね。最近だと「陽キャ」という言葉もあります。ごっつあんは一見、リア充で陽キャです。しかし高校で心が折れてしまいました。思い当たる方もいるかもしれません。表面的にはリア充で陽キャ的なんだけど、それは大人しくしてると不安だからというパターン、ありますよね。実は本当は「充」でも「陽」でもなくて、逆に空虚を抱えていてそれを埋めなきゃヤバイ感からの「ギャー!ホゲー!」ということです。私の漫画だってそうです。私は毎日数時間漫画を描いていますが、これは風邪をひいたり腐ったものを食べてお腹を壊した時もやめられないのです。一日でもやめると不安なのです。妻ちゃんは明らかなワーカホリックで、仕事をしていないと不安がりますし、SNSで必要以上に自分をアピールする人もそうなのかもしれません。みんな音声的には「ホゲー!」とは言ってはいませんが、本質的にはホゲー!なのです。

https://note.com/yuki1192/n/n93129eb89152

ホゲー!は高エネルギーとも言い換えられます。そして心の穴を埋める活動は、あせりやヤバイ感から来ているため結構な高エネルギーになります。そしてその高エネルギーが他人に向けば他者への攻撃に発展しやすいのだと思うんです。いじめをする人は元々いじめられてたり不遇な環境にいたため、心に穴が空いてしまったパターンも多いですよね。そもそも攻撃って大変エネルギーのいることですし、通常あまりできないと思うのです。

https://note.com/yuki1192/n/nd4036bdaf395?magazine_key=m6b3b9ca1ffeb

逆にその心の穴を埋めるエネルギーが自分に向けば、何かに没頭できたり自分を傷つけたりしてしまうのではないでしょうか。クリエイティブな活動や仕事中毒、自傷行為はその代表例だと思います。これも普通にエネルギッシュですよね。寝ずに仕事をすることに喜びを感じたり、自分に痛い思いをさせるのも普通は嫌です。でもその嫌よりもエネルギーが勝つのですから。

https://note.com/yuki1192/n/n84acb2c86d8c?magazine_key=m83ac0d58f5d0

また、90年代によく話題になった援助交際も、自傷の一種+他者との関係性で穴を埋めようとしていたのではないでしょうか。

https://note.com/yuki1192/n/n57be81ddf53f?magazine_key=mf3a1e183c1d5

この話のもとになった女の子は、家がお金持ちでモデルの仕事もしていて、やっぱり一見リア充なんです。でも本当の「充」じゃなかったんです。普通は知らないおじさんとかに何かエロ的なことをされるのは嫌ですよね。でもそれを超える穴うめエネルギーがあったのだと思います。少なくともお金目的ではありません。

日本サブカルチャー史の中では、「荒れる若者」についての言及もされていました。そもそも若者は元気なので、スポーツをやったり友達と遊んだりと活動的です。でもそれが何かの理由、多くの場合は抑圧でいびつになることがあります。70・80年代はわかりやすい不良や非行的な行動で、90年代はキレるという行動で、ということでした。両者は見た感じは違うジャンルに見えますが、不良や非行は日ごろから「ホゲー!」とやっていて小出しに解消していたのに対し、キレる若者は日ごろは「ホゲ…ホゲ…」と抑圧されていて、何かのきっかけで「ホゲーーーー!!!!」となることなので、本質は一緒なのだと思います。そもそも私を含め不良化する人はどこかみんなと違って同じようにできない、悪い言い方をすれば生まれつき出来が悪いパターンが多かったです。何かしらのぼんくらメンなのです。そこで抑圧が発生し、ホゲって心を解放しないといけないわけです。私自身もそのぼんくら環境にずいぶん救われてきました。同じような人ばかりですからね。今回の漫画のごっつあんも、最初からレベルの高い学校なんかに行ってしまっていたら、リア充のふりすらできなかったと思います。

https://note.com/yuki1192/n/n7ec664f3ee60?magazine_key=mf3a1e183c1d5

ところで先日、友人がこういうnoteを書いていました。

いわゆる障害者アートについてのnoteです。むしろ「アート」なんて呼び方は後付けで、彼らは好きに何かをしているだけ、もはや作品づくりですらない人もいる、そしてそこに人の心を動かす力があるという内容です。それはその施設の運営者までも救うのです。自分のありのままや弱さを他人の目を気にすることなく出す姿に、考え過ぎちゃう人たちは救われるのです。だって彼らは特に「深い意味は無く」それをやっているのですから。

http://a-yamanami.jp/artworks/artists/711/

「意味がない」のに何かをするのって我々の忘れていたことだと思いませんか?日々の家事や仕事は考えることがいっぱいですし、趣味である私の漫画だって「ここはこうしたほうが読む人は解りやすいかな?」とか考えますし、超基本の生理活動である食事や睡眠も、スマホを見ながら食事したり明日は何時に起きなきゃ…と考えてふとんに入るわけです。あらゆるものに意味が発生しているんです。でも一方、例えばこのnoteで紹介された「アート」の一つに、「サッポロ一番 しょうゆ味の袋を一日中触って眺める」というものがあります。

http://a-yamanami.jp/artworks/artists/457/

完全に意味は無いですよね。でもその姿に「何者かにならなければ」「こんなことをしていて意味があるのか?」と日々焦る↑↑の友人は救われたのです。この気持ちはすごくわかります。私も、そしてあなたも、「何者かにならなければ」「今やってるこれは意味がないんじゃないか?」という焦りに覚えがないでしょうか。私は美大受験の頃から、絵に関することで何者かにならなければにとらわれていました。今でもとらわれているかもしれません。純粋に意味なく何かを「ホゲー!」とやっていたのは、「杉村くん」の舞台である中学生の頃が最後だったかもしれません。それは周りのみんなもそうだったと思います。いえ、もしかしたら意外とごっつあんのように裏の意味のあるホゲーの人も多かったのかもしれません。でも、表面上だけでもお互い、バカだな~しょうもないな~感に救われていたのです。例えるならそれはお互いが、ある時は障害者アートを作る側、ある時はそれに救われる側になっていたのです。私の中学校は市外でも有名な荒れた学校でしたが、実はぼんくら同士の体を張った救い合いというちょっと美しい世界もあったのです。それが「杉村くん」の基本テーマです。

https://note.com/yuki1192/n/n52bac3f27aab?magazine_key=m99be84dd6d2f

でも当然、このままじゃいけないな~という意識も出て来ますよね。ごっつあんのモデルになった友人だけでなく、何人かは勉強をがんばって社会的に上位といわれる世界に行きました。私の場合は、美大受験を始めて失敗し、それから池袋の立教大学に進みました。しかしごっつあんは心を壊し、私も大学を出ても就活すらしていませんでした。会社勤めが出来る気が全くしなかったのです。そして今は他の漫画でも描いたとおり、自営業で働きすぎて心身を壊してしまいました。ロースペックでも許された田舎から、ハイスペックを要求される都会に引っ越した理由も大きかったです。結局、我々は一生ぼんくら地元でホゲホゲやってるしかなかったんでしょうか?

……意外とそんな気がします。良い進学先とか高い収入、都会的な生活とか、要するに意味がたくさん発生する概念は、人間が後付けした「社会的に良い」価値観です。でもそれって「生き物的に良い」んでしょうか?逆に、意味なく楽しくホゲホゲやってるのは周りの迷惑になるから「社会的に悪い」ですが、「生き物的に悪い」となるでしょうか?私達が何か社会的にずれてるな~というのは中学生の時にはすでに気づいていました。でもどこかで、その社会にも合わせなきゃいけない意識に縛られていたんですよね。↑↑のブログには、障害者施設の代表の「障害者は人の心が作ってる」という言葉がありました。人間が後付けした価値観の中で「社会的にできない」ことがあって「困らせる」人たちのことを障害者と呼んでいるということです。後付け価値観では、毎日レッドブルを飲みながら満員電車で通勤するのは「良い」で、サッポロ一番の袋を一日中触って眺めて暮らすのは「悪い」ということになります。でも生き物的にはレッドブルは体に「悪い」ですし、好きな手触りに幸せを感じて暮らすのは「良い」ですよね。ホゲホゲやってた我々も似たようなものでした。

でもやはり、社会の中で暮らす以上はどこかで後付け価値観、つまり意味のある行動に沿わなくてはいけないわけです。満員電車もホゲホゲもどっちも生きるのに必要で、答えはありません。少なくとも言えるのは、自分がその時した選択を、いずれは自分のことに活かすということだと思います。私は美大受験も立教大学もぱっと見はあまり意味がありませんでしたが、絵の勉強ができたのと4年間遊んでいられたことで漫画を描く技術が手に入って、今こうやってセルフカウンセリングみたいなことができているのです。実は人生って意味のない事はあまり無くて、それぞれのイベントがちょっとづつ関連し合って今を意味あるものにしているんだと思います。

[おまけ]
私は以前、サイコビリーというジャンルの音楽が好きで、よくライブハウスに行っていました。こんな感じの人たちです。

http://bigrumble-japan.com/

なかなかいかついですよね。ライブでは「レッキン(パンチ合戦)」という独特なノリ方をします。(↓は海外の映像です。)

このパンチ合戦、「意味がある」と思いますか?無いですよね。なんならこのモヒカンのようなそうでないような髪型(サイコ刈りと言います)も、たくさん入ったタトゥーも、社会的な価値観では「意味がない」んです。盛り上がっちゃってるからパンチ合戦するわけで、サイコカットもタトゥーもかっこいいと思っているからするのです。私はこのころ、漫画を描いては持ち込みを繰り返していて、自分のしていることに意味を発生させようと必死でした。だからこそ、意味無く楽しむに惹かれていたんだと思います。本場の欧州では、サイコビリーミーティングという大きなイベントが毎年開かれているのですが、運営しているプロダクションの名前が「JUST FOR FUN!」と言います。直訳すると「楽しむために!」自然な感じにすると、「楽しければいいじゃん!」というニュアンスです。良い言葉ですよね。

https://psychobillymeeting.com/en/

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