[#想像していなかった未来] 漫画家になるとは想像していなかったブログ
1977年生まれの私は、現在47歳のおじさんです。趣味で漫画を描いていて、今年の7月にヤングキングという雑誌に読み切りが載りました。評判もとても良くて、現在は連載用のネーム(下書きのようなもの)を3話ぶん提出し、編集長のチェック待ちです。上手くいけば今年中に連載が始まります。47歳にしてプロ漫画家デビューというわけですね。なかなかレアなパターンだと思います。タイトルは「杉村くん」で、内容はちょっと切ないヤンキー漫画です。noteにも載せているのでぜひご覧ください。
私は小さい頃からエネルギーの低い子供でした。保育園ではみんなの仲間に全く入れず、ドタドタした周りの子供に圧倒されて毎日泣いていました。そして一人で折り紙を折るのが好きでした。私の一番古いプレゼントの記憶は、誕生日に親が折り紙を買ってくれた事です。親やおばあちゃんが四角い色紙を鶴とか亀とかに変形させるのを見て「しゅ、しゅごい!」となって何かが覚醒したのを覚えています。折り紙は「手元でコチョコチョやる作業」という、今の私がやっている「部屋で一人で漫画を描く」という行為と通じるものがありますよね。私は今でも人の多い所は好きではないですし、この社会にもあまり仲間入りできている気がしません(私は就職して給料をもらう仕事はアルバイトしかした事がありません)。三つ子の魂百までの言葉の通り、小さい頃から基本があまり変わっていないのです。
小学校でも引き続きクラスの輪にはあまり入れず、でも図工だけが得意で、時々作品が賞をとったりしていました。なので、自分は勉強もスポーツもあまりできないけど、何か手元でコチョコチョやる作業の才能はあるっぽいぞと気づき始めたのです。ただ、この時漫画はまだ描いていませんでした。我が家はそんなに裕福というわけでもなかったので、ドラゴンボールを全巻集めたり、ジャンプを毎週買ったりという事ができず、特に漫画大好きっ子にはならなかったのです。
その後、中学校で一つの転機が訪れました。ヤンキー化したのです。保育園の教室のすみで折り紙を折っていた子供が不良になるなんて意外と思われるかもしれません。これはどういう事かというと、90年代の当時、不良化する人にはいくつか共通点があって、それが「みんなの世界に入れない」だったのです。粗暴すぎて「みんなの世界に入れない」ので不良化するパターンもありましたし、家庭環境が悪いせいで変な感じになっちゃって「みんなの世界に入れない」というパターンもありました。そして私は「エネルギーが低くてみんなの世界に入れない」というパターンだったのです。不良グループの中には、なんか覇気が無くて先生に怒られても全然効かない人っていますよね。私はあのタイプでした。この不良グループで初めて「入れる」という体験をしました。粗暴でも家庭環境が悪くても、「みんなの世界に入れない」という意味では同じような人達だったので、仲間意識が芽生えて仲良くできました。…というか私の通っていた中学校は、地域で有名なヤンキー中学で生徒の8割くらいは不良ノリがあったので、自動的に8割くらいの人たちと仲良くなれたのです。この頃の経験が、私の描いている「杉村くん」につながっています。みんなの世界に入れない人達に居場所ができる、たとえそれが社会的には良くない場所であっても、という内容です。
けれども、居場所が出来た事でそれまで得意だった図工には興味が無くなってしまいました。折り紙も図工も、ひょっとしたら私にとっては、この世に居場所が見いだせない孤独感を埋める代替行為だったのかもしれません。…というのも、その後高校に進んだら、そこは部活が盛んな体育会系の高校で、再び「みんなの世界に入れない」状態になってしまったのです。一応その高校にも不良はいたので、彼らと友達にはなっていましたが、学校全体のノリにはやはりなじめなかったんですよね。なのですごく目立った問題生徒になってしまいました。職員室に呼び出されたり補習を受けさせられたりは当たり前にあって、しかも「覇気が無くて先生に怒られても全然効かない人」なので、それすらも忘れて行かなかったりしてました。停学中も別の高校の友達と遊んでいました。先生には、次に何かやったら退学と言われていましたが、まあもともとみんなの世界に入れないボーイだったし別にいいやと思っていました。でもやっぱり、何で自分はこうなんだろうという孤独感があったんですよね。やっと出来た居場所が不良グループで、そのノリでいたら高校では退学寸前になってしまうという。どうすりゃいいんだみたいな気持ちがありました。そんな中、なんとそのタイミングで、母ちゃんが隣町のデッサン教室の案内を見つけてきたのです。デッサンを習って美大を目指したら?というわけです。私はずっと、自分が折り紙や図工が好きなのを忘れていました。でも母ちゃんは覚えていたんですよね。で、何だか良くない感じになってしまった息子に、「お前もともとは手元でコチョコチョ系だったじゃん?」みたいな意味もあって見つけてきてくれたんだと思います。私も一発で「あ、これは面白そうなコチョコチョだ」となりました。孤独でしたし、以前と同じくそれを埋める代替行為でもあったと思います。でもきっかけは何でもいいんですよね。その後すぐ、高1の後半から美大を目指してデッサンを習い始めました。不良の友達とは疎遠になりました。
…が、それから3年後、美大は全部落ちました。浪人も1年しましたが、それでもだめでした。また「みんなの世界に入れない」の状態になってしまったのです。「またこれか」とショックでしたが、もう成人近い年齢でしたし、落ち込んでもしょうがないなという事で、夏くらいまでゴロゴロして過ごして、その後は普通に勉強を始めて普通の大学に入りました。偏差値は30から70まで上げました(自慢です)。
ここでは二つ転機がありました。一つは、受験勉強の合間にノートの空きスペースに漫画的な絵でゲームキャラの絵を描き始めたのです。新しい手元コチョコチョです。私は中学の頃からゲームセンターが好きだったのですが、受験勉強をしていた頃(1990年代後半です)のゲーセンにはノートが置いてあって、そこでおたく的な人達がイラストを描いて交流するという文化があったのです。あと、ゲーメストというゲームセンター雑誌にも読者のイラスト投稿のページがありました。今までそういうものをあまり知らなかった私は衝撃でした。そうか!自分は絵が描けるし、こういう場所なら仲間に入れてもらえるかも!と思ったのです。それもあって受験勉強の合間にゲームキャラの絵の練習をしていました。図工ともデッサンとも違ういわゆる漫画っぽい絵はこの時初めて描き始めました。そしてその流れで大学では漫画研究会に入りました。おたく的な世界に興味が出て来たのと、うっすらと「こういうのが描ければ漫画家になれるんじゃないか?」という気持ちが出て来たのです。そしてその後、大学卒業の時期になっても就職活動はせず、漫画を描いて持ち込みを始めました。
そして卒業後、浪人していたので25歳~30歳過ぎまで、アルバイトをしながら漫画を描いては持ち込みを繰り返していました。しかし結局デビューは出来ませんでした。やっぱりここでも「みんなの世界に入れない」だったんですね。漫画研究会の人はすんなりデビューするし、アシスタント先の先生はどんどん売れっ子になるしで、今まで以上に「入れない」ことでの孤独感が強かった時期でした。
その後、当時つきあっていた彼女と結婚するために(現在の妻ちゃんです)、漫画も絵ももう辞めて、自分の会社を立ち上げてお金を稼ぐ事にしました。当時は六本木にある服飾関連の会社でアルバイトをしていて、そのWEBサイトに載せる写真を作る会社を立ち上げたのです。洋服は昔から好きだったのですが、会社の経営自体はとても大変で、365日休みは無いし今までやっていた事と全然違うしで、働きすぎて不眠症からのうつ病になってしまいました。35歳くらいだったと思います。
その後、妻ちゃんと一緒にペット関連の小さなお店を始めました。これは今も続けています。自分の会社の方は、取引先の体制が変わったタイミングで解散となりました。実はその間、漫画に関するチャレンジも時々続けていて、けれどもどれも納得いく結果にはなりませんでした。一応、原案として単行本を出す事はできましたが、私の名前は載せてもらえませんでした。やっぱり「みんなの世界に入れない」なのです。
このブログの最初に、「保育園ではみんなの仲間に全く入れず、ドタドタした周りの子供に圧倒されて毎日泣いていました」と書きました。私はエネルギーが低いので、騒がしいのが苦手です。そして現在住んでいる街も、都心近くで繁華街のある大きな街で、とても騒がしいです。妻ちゃんの地元なので、結婚したタイミングで移り住んで今年で15年くらいです。15年経っても全く慣れません。この街にも「入れない」わけです。さらに妻ちゃんは毒親育ちで、そういう毒家族とのつきあいもあります。それらが慢性的なストレスとなっていたのか、不眠症もうつ病もいまだに治りません。そんな中、自分の考えている事をまとめたりアウトプットする、自己カウンセリングのような意味合いで、このnoteに載せている漫画を描き始めました。2016年からです。
そしてそれから8年、毎日この手元でコチョコチョの作業を続けています。たぶん全部で1000ページくらいあると思います。その中の「杉村くん」から80ページぶんを選んで、今年の1月にヤングキングに持ち込みました。そして全てがすんなり進んで、うまくいけば今年中に連載が始まるかも?という事です。47歳にしてやっと「みんなの世界に入れそう」というわけです。嬉しいです。…が、同時にもう、みんなの世界に入れるとか入れないとかはもういいや感もあります。
なぜなら、現在の私にとって漫画を描く事は、みんなの世界に入るためとか、昔からの夢だったとか、好きな事でお金を得るためとか、もはやそういう事では無いからです。ただ単に「救い」のためなのです。私は不眠症もうつ病もなじめない街も妻ちゃんの毒家庭とのつきあいも心底苦しいです。さらに我々は子供のいない夫婦なので、将来を考えても絶望的な気分になります。おそらくそれらは全て、自分の生来のエネルギーの低さが大元にあると思います。仕事のせい、街のせい、毒家族のせい、そういうふうにも言えますが、エネルギーが低いから、それらネガティブな要素をはねのける事が出来ず「ぐぬぬ」と我慢してしまった結果でもあると思うのです。それは保育園の頃、周りの子供のドタドタを「ぐぬぬ」と我慢して折り紙を折っていた頃と同じです。その折り紙が漫画になっているだけなのです。どこに行っても「入れない」まま47年も生きてきました。これもまさに三つ子の魂百までという事で、あの頃と同じく手元でコチョコチョやる作業で自分を救っているわけです。前述した自己カウンセリングという意味合いです。自分を見つめなおし、分析して、形にする事で自分を納得させ、自分はこの世界や自分自身とどう向き合うべきなのか、その営みによって自分の将来に救いを見出すわけです。もちろん単純に楽しいので、夢中になって余計な事を忘れるマインドフルネスの効果もあります。このブログは「#想像していなかった未来」というテーマのコンテスト用に書いています。折り紙が好きな子供が漫画家デビューというのは、インドア系という共通点もありますし、なんだかんだ想像できる未来ですよね。でも、あの頃から続けていた「手元でコチョコチョやる作業」が、おじさんの年齢になった今の自分が生きるための救いになっている、それはまさに「想像していなかった未来」です。そうなんです、未来は想像できないんですよね。なので色々苦しかったり病気が治らなかったり暗い気分にもなりますが、未来は良い感じになるかもしれないよと考えるようにしています。そう思えるのは、漫画を描いていたからですし、元をたどれば保育園の頃に親が、折り紙を買い与えてくれたからですね。感謝です。親にとってもあの時の折り紙がこういう発展をするなんて、それもまた「想像していなかった未来」だったと思います。