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あなたの家庭の味はありますか。
大学のとき、何の授業かは忘れてしまったが、家庭の味について調べる授業があった。
お題は確か「お雑煮」だった。
お雑煮は出身地によって味付けや餅の形や仕上げ方も異なるから、さまざまなところから人が集まる大学ではもってこいの課題だったのかもしれない。
けれど私はその課題に対して、強い反発を感じたことを覚えている。
それは、その出身地らしい伝統的な料理が、家庭で振る舞われているはず、それぞれの家庭ならではの色があり、そこにも地域差が当然のように出てくるはず。
そして、そのような家庭に育った人だけが、この大学にいるはずだという前提に基づいている課題のように感じたからだ。
何その、完璧な家庭前提。
わが家には、先生が望んでいるようなお雑煮のレシピはない。
普通に売られているレシピ本に載っているレシピ
そのものがわが家の味だ。
もしかしたら東京出身なので、関東ならではの具材や作り方だったのかもしれないけど、そこにプラス家庭の色みたいなのはなくて、レポートを書きながら、きっと先生が求めているのはこういう内容じゃないよなぁと思った。
その地の歴史や家庭のほっこりエピソードを適当に盛り込んだ内容だって書けた。
でもそうしなかったのは、前述した、先生が当たり前に考えていた、その前提に対して腹が立ってきたからだ。
そんな思慮の足りない課題に対して、こちらが気を遣う必要がないと思った。
その地方らしい、家庭らしい味が当たり前にあると思うなよ。
冷静になれば、私のように東京出身で地域色のないお雑煮だった、という内容のレポートを出した人もたくさんいたかもしれない。
今は多様性が叫ばれている時代だから、いろいろなことが配慮されているし、配慮しなきゃみたいな思いもある。
でも、配慮されるものは、弱者、未婚既婚、子ども、性差に対してなど、分かりやすいものが多いように思う。
だから、家庭の味みたいな些細なことこそ、配慮の余地が無い。
そういう無意識の当たり前が、どうしようもない自分の過去を、生活を責め立ててくる気がする。