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大学時代に不登校になったこと⑤~再発~

7.再発と卒業

これで、一件落着…となるはずだったのだが、秋ごろ、また突然研究室に足を運べなくなってしまった。心療内科への通院も行けなくなってしまった。

ここまで何とか回復して、乗り越えられそうだったと思いきやのタイミングでまた研究室に行けなくなったことは、一回目以上につらかった。

状況的にも非常に良くなかった。このタイミングで再発したということは、留年がほぼ確定だ。就職先も決まっていたが、もし留年となれば就職がどうなるかは怪しい。

私はもう大学院を辞めることを考えていた。仮に留年して研究を続けられる見込みもないと思った。

大学院を続けることもつらかったが、大学院を辞めることを受け入れることもまた、つらかった。身にはならなかったが、義務教育から大学院まで学習を積み重ねてきたのに、大学院を辞めてしまえばそれが否定されることになると感じた。それに両親に何と説明すればよいのだ。ここまで私は両親にこのことを言っていなかった。突然、今まで2年間ほとんど大学院に行っていなかったので大学院を辞めると伝えることを打ち明けるなければならないことも苦しかった。

それでも、大学院をもう一年続けることは意味がないことだと感じて、退学届けを書いた。本当はもうそのまま大学事務に提出したかったのだが、退学届けは先生のサインが必要だ。

何とか研究室に行って先生と相談した。しかし、自分のふがいなさ、ままならない現状、大学院を辞めるという最悪の事態を受け入れないといけないこと、思いはほとんどが言葉にならず、涙にしかならなかった。

何とか「最悪のケースを考えている」と、退学のケースに言及した。

しかし、先生から返ってきたのは想定外の回答だった。

「おそらく君は留年しても、現状が良くなる見込みは薄い。だから、留年を考えているくらいなら、何とか卒業を目指しなさい。」と。

先生は「最悪のケース」を「退学」ではなく「留年」だと勘違いしてたのだ。そして留年しても、回復の見込みがないし、(研究室にもう一年いても先生も困るだろうし、)卒業させてしまおうと考えてくれたのだ。

人生を大きく変える勘違いであった。話している途中で先生が退学と留年を勘違いしていることはわかったが、都合のいい方向に話が進んでいるし、その時の自分には涙を抑えることで精いっぱいで訂正する余裕もなかったので、そのまま勘違いしてもらうことにした。

研究室に行くときは退学する覚悟であったが、提示されたことは今年度での卒業であった。研究室の帰り自転車に乗りながら、想定しない方向に転がり始めた展開に、久しぶりの希望を感じた。

とはいっても、卒業するには修士論文が必要で、修士論文発表会を通過する必要がある。あと二か月か三か月だけ頑張ってみよう。レベルの低い、どうしようもないものであることは承知の上で、自分のできる範囲で修士論文を書いてみよう。ぼんやりとした不安ではなく、目の前に論文作成という課題が与えられたことで、取り組むべきことが明確になったことが功を奏したのか、その日から少しずつ研究室に顔を出したりしながら修士論文の作成を行った。

小康状態のときに修士論文の参考文献のまとめを書いていたことも助けになった。形式だけ参加したことになっている学会の内容や修士2年の夏にちょっとだけ行った実験と卒論の切り貼りをしながら、修士論文の体だけなした何かを提出し、英語で行う修士論文発表会は日本語をgoogle翻訳にぶち込んだ原稿をそのまま読み上げた。

スーパーボウルの放送があった日であったことを覚えている。修士課程に必要なすべてが完了した。私はふわふわとした不思議な感覚であった。

そして3月。なぜか修士を卒業した。卒業したというより、卒業させられたのほうが正しいだろうか。本当に自分に修士をくれることは信じられなかったし、ありがたかったし、うしろめたさもあった。修士の期間に身についたことも、実績もなく、ただただ精神のバランスを崩した2年間に対して大学が修士号をくれた。

私はこのことを裏口卒業と呼んでいる。アカデミックの観点から言えば、修士号を私に与えることは甚だ不適当であることが、一個人の精神の回復にはこの修士号はワイパックスよりもエビリファイよりもアモバンよりもよく効いた。

結果として就職して、精神のバランスを崩した研究という分野から離れると私の精神状態はほどなくして安定した。

(⑥に続く)

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