大学時代に不登校になったこと⑨~さいごに~
最後に私が「過去の精神的な不調」に対する向き合い方と「大学生の不登校」に関する私見を示して終わりとする。
13.研究室と心の問題
少し物事を俯瞰して、大学の研究室(ゼミ)という制度と心の問題について私見を述べる。
大学の保健センターの心療内科を受診して気づいたのは、自分と同じように研究室に行けなくなってしまった境遇の人が想像以上に多いということだ。保健センターに相談したくても心療内科の先生はいつも予約でいっぱいだった。あくまで体感だが、どの研究室にも1名くらいは不登校がいた。進学者に対して罹患率は5~10%くらいではなかろうか。
実際に私以外にも大学~大学院時代に研究室に行けなくなってしまったという経験を持つ人を2人知っている。私の大学時代の知り合いはそう多くないのに私含めて3名が不登校だった。
精神のバランスを崩してしまう学生が5~10%も存在しているという私の体感が正しいとすれば、大学の研究室というシステムにも何らの問題がある、あるいは現代の学生に適合していない可能性があるということだ。(だから、不登校になってしまった人もあまり自分を責める必要はない。制度にも問題はあるかもしれないのだ。)
その要因として私が考えることは2つだ。
一つに大学4年生から始まる研究のハードルがとても高いということだ。しかも、今までの勉強とは性質がかなり異なる。ここで「研究」というものに対してついていける学生、ついていけない学生が強烈に篩にかけられ、ついていけない学生が挫折を味わることになり、この挫折から精神的な不調に陥ってしまう。
これは就職活動での挫折から精神的な不調に陥るケースに似ているかもしれない。
もう一つは人間関係の変化だ。クラスという同年代の横並びの組織から、研究室という様々な年代の上下関係のある組織に変わることで、今までとは違ったコミュニケーションの取り方が求められる。また、研究室はクラスより比較的小さなコミュニティになることで、密なコミュニケーションが求められる。こういった人間関係の変化にうまく対応できないと精神的な不調に陥ってしまう。
こういった学生のケアのために、研究室のシニアの人たちはもっと学生に対して気を配ってよくよくフォローするべきだ、と主張してしまうのは簡単だが、ただでさえ研究時間が取れない大学の指導者にあれもそれも・・・と責務を主張するもの正直どうかと思うところである。
大学の保健センターのような機関がもっと拡充して、気軽に(?)相談できるような環境が整えられることがベストなのだろうか。
ここについては語るといくらでも書けてしまうが、今回の趣旨から脱線してしまうので、これくらいとする。
14.「精神的な不調」という事実への向き合い方
精神的な不調を経験した私たちはこの事実にどのように向き合うべきだろうか。
私自身は、この「大学院時代の精神的な不調」に対して次のような評価を与えている。
最初のほうで述べたが、不登校の3S(成績、性格、生活リズム)の要因を持った私が、奇跡的に大学院を不登校になることなく卒業できたとしても、その3Sの因子を抱えたままであれば、社会人のどこかでポッキリと折れてしまうことは十分に想像しうるifの世界だ。
大学院の場合、最悪、退学になっても大卒という肩書が残る。一方で、大学卒業以前に不登校になると最終的な学歴が大卒以上になるかは怪しい。また、もし社会人で精神のバランスを崩した場合、学生とは違い、職を変わったり失ったりという不安とも戦わなければならない。
私は、大学院時代の精神的な不調とそれを乗り越えることによって、大卒の肩書を持った状態で、未然に社会人生活での精神的な不調を回避する力が身についたので、災い転じて福となすことができた。
もちろん精神的な不調がないほうがいいに決まっている。だから、私の心の防衛機構が「私は遅かれ早かれどこかで精神的な不調を起こしていた」、そう思い込ませているかもしれない。
それでも、私は現段階でこの主張に満足している。起こってしまったことに対しては、あまり後悔や悲観ばかりしても仕方ないのだ。スラムダンクの三井寿が「なぜあのとき俺は無駄な時間を…」と悔やんで何か得られただろうか?
大学時代の不登校といった小さなことにいつまでも構っている暇はないので、心理的合理化でもなんでも適当にカタをつけておけばいいのだ。1年や2年なんて誤差だ。今の自分を作り上げているのは1年のブランクのハンデの影響よりも、その後がどうであったかのほうがずっと大きな比重を占めている。
皆さんも回復後もどうか人生のわずかな期間のことだけに囚われないでほしい。
(おわり)
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