マガジンのカバー画像

なぜ天動説は支持されたのか

8
天動説が支持された理由を中世ヨーロッパの観測技術や宇宙観の側面から記述します。
運営しているクリエイター

#科学史

なぜ天動説は支持されたのか ⑧ケプラー(完)

第一回から読みたい方はこちらから ケプラーの登場と地動説への決着 ティコの精密で長期間にわたる測定結果を解析し、惑星が楕円軌道を描くこと、太陽は楕円軌道の焦点に存在していることなどの法則を発見したのがケプラー(1571-1630)だ。 彼によって天動説が完全な優位を築くことになる。 ケプラーはティコの晩年に彼の助手となり、ティコが秘匿していたとされる観測データを、ティコ没後にいち早く扱うことができる幸運な立場にあった。 ティコは天動説を完全に拒否することができなかった

なぜ天動説は支持されたのか ⑦ガリレオ

第一回から読みたい方はこちらから 〇ガリレオによる望遠鏡の発明と宗教裁判 ガリレオ(1564-1642)は実験を通じてモデルを立証するという実験科学の祖として位置づけられる。ピサ大学、パトヴァ大学の教授として物理や天文など幅広い分野で功績を遺す人物だ。 彼は後述するケプラーとほぼ同年代の人で、地動説を支持するもの同士としてケプラーとの親交もあった。ケプラーが、惑星軌道の関係性を確立し、理論面で地動説を決定的なものにしたのに対して、ガリレオは望遠鏡を発明し、木星衛星の発見や

なぜ天動説は支持されたのか ⑥ティコ・ブラーエ

第一回から読みたい方はこちらから ティコ・ブラーエによる精密な観測 ティコ・ブラーエ(1546-1601)はデンマークの大貴族で、豊富な資金と人を導入し当時の観測技術で行える最高の測定を長期間にわたって行った人物である。 ティコ以前にも星を観測して位置を記録していた人々はいたが、当時はデータの扱いが雑で誤差や誤りも多く、観測期間も短かった。例えばその地域からは見えるはず星が載っていなかったり、星の位置が大きくずれていたり、観測期間も数か月~数年であった。ティコが行った観測の

なぜ天動説は支持されたのか ⑤コペルニクス

第一回から読みたい方はこちらから ここからは天動説から地動説がどうやって受容されてきたかを16世紀から17世紀にかけての主要人物四名の視点から見ていこう。紹介するのはコペルニクス、ティコ・ブラーエ、ケプラー、ガリレオだ。 〇地動説の復権:コペルニクス天動説から地動説への転換点はご存知のとおりコペルニクス(1473-1543)の登場だ。 彼は司祭や医師として活動したようで、学識もあったようだ。天体理論の研究をする中で地動説をアリスタルコス以来2000年ぶりに再発見した。

なぜ天動説は支持されたのか ①素朴な天動説

地動説と言えば、天動説を支持する旧来のキリスト教的価値観によって長らく容認されなかったものとして語られる代表格だ。 「コペルニクス的転回」が画期的なパラダイムシフトを意味したり、科学的データで否定された考えに固執する様を「未だに天動説を信じるようなもの」(※1)と評したりと、天動説は古い見方や伝統に縛られて、新しい考え方を受け入れられないことの代名詞になっている。 確かに宗教裁判におけるガリレオの「それでも地球はまわっている」という発言(※2)に示されるように、中世ヨーロッ