不安ビジネスと経済循環についてーー「個人の痛みや望み」と「社会の動き」のつながりから考える
現代の日本社会を眺めると、「国家の政策がどうだ」「産業がどう変化するか」というマクロな話題と、「自分は明日どう生きればいいのか」「このままで成長できるのか」というミクロな個人の悩みが、一見まったく別々の文脈で語られているように感じられます。しかし実際には、私たちが生活者として抱える痛みや望みが需要を生み、その需要が企業や国家政策の方向性を左右していく。それらがまた社会や文化を形成し、新たな個人の痛みや望みを生み出す――そうした動態的なサイクルが絶えず回り続けているように見えます。
この循環は、ある意味で永遠に終わらないとも言えるでしょう。なぜなら、人間の「痛み」や「望み」が完全に消え去ることはほとんどなく、その都度、社会的・経済的な動きやテクノロジーの変化によって形を変え、また個人やコミュニティのレベルで再生産されていくからです。戦後日本の高度経済成長期を見れば、「生活水準を上げたい」「物質的に豊かになりたい」という強い望みが、産業の拡大を支えました。しかし、その成功体験がバブル崩壊後の「失われた30年」に陥った要因とも言われています。今まさにインフレが少しずつ現実味を帯びる中、人々の不安感も増大し、それが新たなビジネスの種になる構造が生まれています。ここには歴史を貫く大きなパターンが潜んでいると感じます。
歴史が示す「痛みと望み」の絡み合い――戦時下から戦後復興まで
野口悠紀雄が論じる『1940年体制』は、戦時下に国が産業や金融を強く統制し、大企業にリソースを集中的に投下することで一時的な効率を追求した経済体制が現代にまで続いていく流れを解説している本です。1940年に築かれたその体制の多くは形を変えつつも維持され、結果としてチャルマーズ・ジョンソンが言う「通産省による日本の奇跡」(『通産省と日本の奇跡: 産業政策の発展1925-1975』)を演出しました。国家の産業政策と官僚機構がもたらした恩恵は、国民の「物質的に豊かになりたい」「戦後の苦しい生活を脱却したい」という“痛み”の裏返しである“望み”を、見事に救済した側面があったわけです。
ところが、バブル崩壊後の長期停滞期になると、「豊かさを維持できなくなるのではないか」「日本経済はもう成長しないのではないか」という不安が人々の意識に巣食いはじめました。こうした「痛み」が生まれると、それを解消しようとする様々な政策やビジネスが台頭してきます。量的緩和や大規模公共投資、そしてデフレ脱却を掲げる金融政策……。しかし、それらの「痛みの解消策」がうまくいかないとき、今度は個人としての新たな不安がさらに増幅され、「成長しない国でどう生き延びるのか」という問いが若年層から高齢層までを覆うことになる。まさに、不安は永遠に姿を変えながら回り続けます。
Z世代は社会の映し鏡――大学“高校化”とテーマパーク化の背景
https://youtu.be/i1QjD8fdgmY?si=isdBo8toV2u-GQ8B
上記の動画では、かつての若者論が「これだから若者は」「若者が甘えている」と語られがちだった一方、今のZ世代は、むしろ社会全体で起こっている現象の先端や露呈した姿を見せているにすぎないという視点が注目されています。動画内でも指摘されていたように、大学の“高校化”やテーマパーク化が象徴するのは、若者が何か特別に変わってしまったというよりも、大学が「管理と快適さ」を極度に追い求めるビジネスモデルへと移行している姿です。
大学が保護者を“お客様”とみなして、管理を強化する
不快要素を排除して、常に“楽しく”“苦労のない”環境を提供しようとする
こうした流れは、もはや大学だけに留まりません。企業もサービスも、人々の“不安”や“不快”を取り除くことを全面に押し出し、「いつでも快適」「いつでも安全」を提供する方向へ進化しています。しかし、本来の社会生活はそんなに単純ではなく、痛みや不快があるからこそ学びや成長がある。テーマパーク化した社会は、その痛みや不快の排除を目指しますが、完全に取り除くことは不可能ですし、それが再燃するたびに逆に不安を加速させる構図も生み出します。
不安を生み出すこと自体がビジネスになる時代
Z世代だけでなく、あらゆる世代が抱える不安にフォーカスし、そこからビジネスを創りだす動きも進んでいると上記の動画では指摘があります。いわゆる「不安ビジネス」です。就活支援、転職支援、保険、化粧品や消臭剤……。どれも「あなたの不安を取り除きます」「あなたを守ります」と謳い、個人が根拠のない不安をかき立てられれば、利用されやすいサービスばかりです。
「匂いが気になるかもしれないからファブリーズを常に使おう」
「就活の準備を1年生からやらないと、隣の友達に置いて行かれるかも」
「不安なら転職エージェントに登録を。あなたにピッタリの職場を」
こうしたメッセージに多くの人が動かされるとき、それは企業にとっては確実な需要創造であり、同時に個人からすれば「痛みを癒す手段」を手軽に得られるサービスでもあります。社会の動きと個人の痛み・望みは、こうしてビジネスを媒介として相互循環しながら加速していきます。
不安が消えない理由――「成熟社会」の日本における構造
日本は長く経済大国として成長を追い求めてきました。しかし少子高齢化が進み、市場の拡大が望みにくい「成熟社会」になったとき、成長そのものに限界が見えはじめます。そこで多くの人が「自分は成長できるのか」「社会はどこへ向かうのか」という不安を抱きやすくなります。
成長はすぐに実感できるものではない
短期的な成功体験を得られない環境が広がる
国や企業が従来のように上向きのビジョンを打ち出しにくくなる
結果として、個人は「自分だけが取り残されるのでは」「もっと早く成果を出さなくては」と焦り、より短期的な“成長実感”を求める。大学で「すぐに役立つスキルを学びたい」「結果を残せるインターンに飛び込みたい」という学生が増える一方、企業側も「若手がすぐ離職してしまうかもしれない」という不安に駆られ、マネジメント指導や研修ビジネスに手を出す。社会の不安は連鎖しながら、それぞれをターゲットにした産業へと姿を変えていくわけです。
生成AIの台頭がもたらす新たな不安と希望
さらにここ数年、ChatGPTをはじめとする生成AIが急速に発達し、ビジネスや学術、創作の現場を大きく揺るがす存在になっています。AIの進化により、ホワイトカラーの仕事が奪われるかもしれない――という不安が急速に拡大する一方で、「AIを活用すれば個人の生産性が飛躍的に高まる」という期待も生まれています。
「AIが人間の仕事を奪う」→不安を煽るビジネスや情報商材が登場
「AIを使って稼げるようになる」→新しいスクールやオンライン講座の乱立
ここにも、「痛み(仕事が奪われる恐怖)」と「望み(よりラクに効率よく成果を出したい)」の構造があり、社会全体でAIの普及に拍車がかかればかかるほど、その循環は一層加速するかもしれません。そして生成AI時代の需要と供給は、「人間的な温かみのある仕事」と「AIに頼って効率化できる仕事」の二極化をより鮮明にするでしょう。すると今度は「人間しかできない高度なコミュニケーションの専門職」を目指す人々と、「AIを自在に操るスキルを身につけたい人々」の間で新たなレースが始まり、また不安が生まれ、ビジネスが生まれる……という構図が浮かび上がります。
「痛み」をどう扱うか――循環を変える鍵
このように見てくると、「不安」「痛み」「望み」を完全に取り除くことは不可能だと改めて感じます。それらがあるからこそ、新たな需要と供給が発生し、社会が動く原動力にもなるのです。では、私たちはこの絶え間ない循環をどのように扱っていくべきなのでしょうか。
痛みや不安は“度合い”の問題
痛みや不安そのものを根絶することは不可能ですが、それに囚われすぎると健全な判断を失います。むしろ「不安には根拠がない場合が多い」ということを自覚し、適度なラインで付き合う必要がある。哲学者や宗教、心理学が長年模索してきたのは、まさにこのバランスの取り方なのではないでしょうか。不安や痛みを言語化する場を増やす
どこに痛みがあって、何を本当は望んでいるのか。組織内でも地域コミュニティでも、対話や共有の場がないままでは、個人の不安が増幅され、結果として“闇雲な需要”を生みやすくなります。対話を重ねることで、本質的に必要な価値を見極めていくことが大切になると考えます。意図的な“プロダクトアウト”の発想
近年は「マーケットイン」が行き過ぎて、顧客の不安や快適性ばかりに合わせすぎる傾向があります。しかし、それだと似たような商品やサービスが増え、真のイノベーションが生まれにくい側面もある。一定のリスクを負ってでも「自分たちがこれを良いと思う」「これで社会を変えたい」というプロダクトアウト思考を持つことが、過剰な不安ビジネスへのアンチテーゼになると考えます。不安を煽るだけでなく、学習や試行錯誤を促すAI活用
生成AIの時代は、未曽有のスピードで変化が訪れます。ここで「AIが怖いからいち早くコンサルに頼ってノウハウを買う」という発想だけに留まらず、「AIを試行錯誤しながら、自分の作業プロセスをアップデートする」学習体験を組織的に取り入れることが重要ではないでしょうか。痛みや不安を契機に、自らの手で新しい道を拓く主体性を育むわけです。
循環の中に「希望の兆し」を見出す
「痛みや望み」という人間の根源的な原動力は、おそらくこれからも永遠に尽きることはありません。それは裏を返せば、社会や産業が止まらないことを意味します。常に何か新しい需要を生み、そこへ資金や人材が投下され、技術革新が起こり、また別の不安や痛みを発生させる。それこそが人類史そのものとも言えます。
しかし、「痛みと望み」のサイクルをただ眺めているだけではなく、その循環が少しでもポジティブな方向へ展開していくように、私たち一人ひとりが「自分たちは何を大切にしたいのか?」を問い続ける意志が求められます。社会的な動きと個人の願いは、本来断絶しているわけではなく、お互いに影響を与え合いながら絶えず形を変えています。その連関を意識し、健全な自己理解とコミュニティ理解を深めること――それが、過度な不安と盲目的な望みの連鎖を和らげる唯一の方法ではないでしょうか。
歴史的には、戦後日本の奇跡も、そこに至るまでの痛みや苦しみが大きな動力源でした。かつてとは比べものにならない技術革新と情報量に包まれた現代においても、同じように痛みと望みがないまぜになりながら、新しい価値が創出されています。生成AIの普及は社会を大きく変えるでしょうし、不安を増幅させる部分もあるでしょう。しかし、それと同じくらい「自分たちの能力を拡張する、共同創造のパートナー」としてのAIに希望を見いだすことも可能です。
結び――循環する「痛みと望み」をしなやかに引き受ける
私たちは国家の政策や産業の大きな動きから逃れることはできませんが、それらは「遠い世界の話」ではなく、じつは私たち自身の痛みや望みによって形づくられています。一方、個人の悩みや不安は、必ずしも自分だけの問題ではなく、社会が変化していく一端を担っているとも言えます。
「痛みや望み」はなくなるどころか、常に形を変えて表れます。そして、それを取り巻く需要と供給のダイナミズムによって、国家や産業が再編される。その再編がさらに新たな痛みや望みを生み出していく……。この果てしない循環とどう向き合うかが、私たちの成熟社会の課題です。言い換えれば、不安と快適、痛みと成長、個人と社会とが織り成す円環のなかで、「いまここ」に軸足を置きつつも、歴史や未来の視点を柔軟に取り入れながら、しなやかに生きていく知恵が試されているのかもしれません。
本記事では、「個人の痛みや望み」と「国家や産業の動き」の間にある相互循環を、歴史と現代の視点から考察してみました。日本が成熟社会に突入した今こそ、過剰な不安に煽られず、しかし痛みや望みを原動力とする創造力を信じることが大切なのではないでしょうか。生成AIという強力な新技術の到来は、痛みや望みの形をいっそう複雑に変えていくと考えれます。
しかし、その複雑さを拒むのではなく、しなやかに受け止めながら、私たちが本当に欲している世界観を描き直す――その不断の営みこそが、循環する社会の流れをより豊かに変えていく原動力となるのではないでしょうか。