見出し画像

光、あるいは、

地方の小都市の、駅からも市街地からも離れた場所には宙ぶらりんの空き地がいくつも転がっている。それはかつて賑わった商店の跡地なのかもしれない。ごくふつうの一軒家だったのかもしれない。血の繫がらない男女が暮らし、重なり、子を作る。その子は育ち、家を出る。若かった男女は老い、逝き、家の中は無人となる。かつての子どもは生まれ育った家を壊し、土地が売れるのを待つ。無為な空き地が無為な想像を刺激する。それは退屈で、いかにも凡庸だ。しかし、凡庸な物語の細部を想起することは、必ずしも容易なこととは言い切れないだろう。空き地の周辺を歩いてみよう。話を聞いてみよう。そこに住んでいた人たちのことを。奇矯な振る舞いに彼らは顔を顰めるだろうか。口を閉ざすだろうか。いや、そもそもそこは区画整理がなされ、新しい住人で占められるようになって久しい区域なのかもしれない。だったら彼らには昔そこに居た人のことなど思い出しようがない。緩やかに代謝は鈍くなっていく。それでも人も暮らしも回っていく。物語が物語として立ち上がるために必要な具体は特徴を欠いたまま、しかし、そういう場所に暮らした者には個別でしかありようがない風景が特別誰かに振り返られることもなく時間だけが過ぎ、人も風景も老いていく。荒涼と、とだだっ広い空き地を眺めながら呟く。口の中が砂っぽい違和感で乾く。このぐずぐずの風景の記憶を、奇妙な感慨とともに掬いあげた表現に私は惹かれてきた。荒涼を荒涼と形容した途端に確実に何かが崩れてしまう表現の痕を、たぶん私は求めてきた。

湖畔からは距離がある。感覚的にはむしろ琵琶湖よりも鈴鹿の山に近いとも思う。大昔はここも湖の一部だったらしい。その名残だろうか。湖底に堆積した良質な土が、古代以来、狸に化けた焼物に生かされていると聞く。湖畔の街から車を走らせ、小高い山をいくつか抜けたところに位置する水口の、ローカル線の駅や市街地に到着するまでの途中。郊外というよりは田舎。もう少し行けばロードサイドの風景に出くわし、さらに進めば市街地に着く。車で十分程度にすぎない。それでも窓から見える景色は大きく変わる。田舎、郊外、都市紛いの、擬(もどき)の、バイパス沿いや駅前の錆びた街並み。緑豊かなところもあれば、胸苦しい平板さをそこら中に漂わせてもいて、どことなく息が詰まる。車が生活の足となる地方の小都市での暮らしでは、そのすべてが地元の風景として人の心の奥底に溜まっていくのだろうか。

水口の田園地帯の一角に、一軒の花屋がある。地図アプリが正確な道順を示すことはない。どこからも行きにくい場所だ。二年前に改築された二階建ての店舗は、以前は手入れを放棄されたやや大きめの荒屋で、一階部分が地元の画家、野田幸江のアトリエとして使われていたという。二十年近く前に野田が描いた絵を、私は画家本人から資料を介して見せてもらったことがある。当時の野田はシャッターを下ろし、窓も塞いだ真っ暗な部屋の中で蝋燭の灯りだけを唯一の光源として制作に取り組んでいた。揺れる炎は右手に握った鉛筆と、鉛筆の芯の先が黄土に色づいたジェッソ下地の木製パネルにあたって生じる点と線、まだ何も描かれていない手つかずの一部を照らしていたのだろう。描いている絵がどうなっていくかも、刻んだ線の跡が何をかたちづくってきたのかも蝋燭の灯りは照らさない。極端なまでに描くことの「現在」に傾斜した野田幸江の制作は、記憶へのアクセスを一層深めたのかもしれない。描かれていたのは記憶の風景画だ、しかし、いや、だからこそ、だいぶ奇妙な。

下地に塗られた黄土色は砂漠のようにざらついている。私が見たのは、二〇〇六年に高橋コレクションで発表された「祈りと制作」だった。そこには––全身に一本の毛もなく、逞しい肉体を持ったおそらくは裸の––⼈のかたちをした決して⼈ではない異形の者たちが⼤量に描かれていた。額に入った絵画、木立に囲まれた一本道、水を張った田圃、力強く隆起する木と草木がつくる里山。ここはどこなのか。ここであってここではないのか。長い壁に掛けられた幻想の砂漠は、夢のようにシュールで、だけど同時に、細部は緻密でリアルで親密で、こちら側と向こう側のあわいに下ろされたスクリーンのように見えた。ところどころ遠近感を欠いた記憶の風景の断片。断片と断片のあいだで手を取り合ったり、踊ったり、寝転がったり、祈りを捧げたりする異形の者たち。彼らは実に生き生きとしている。この者たちはいったい誰なんだろう。どこから来たんだろう。グロテスクで、悍ましくもあるこの者たちは、だが、邪悪な存在ではないのかもしれない。見ようによっては画家の内面へと退行しているように見えなくもない「祈りと制作」は、この者たちの存在によって不思議な明るさを獲得し、外部へと向かって鈍い光を発しているようにも感じられた。

暗闇の中で蝋燭の炎が揺れる。作品そのものを閉ざしかねないこの頃の野田の制作環境は、しかし、だからこそ余計に、彼女に光を感受させたのかもしれない。目を閉じたときに瞼の裏側で明滅する光。外側の世界の痕跡でもあるはずのそれは、まるで閉ざされた目の内側のような野田の暗箱=アトリエにおいて、彼女が下地に混ぜ込んだ絵具の粒子にいつしか置き換わっていた。光の遮断は記憶へのアクセスを促し、かつて画家が慣れ親しんだ夢とも幻ともつかない記憶の風景を彼女に垣間見せたのかもしれない。だが、画家が見た風景を絵画の中に再現するためには、何より光が必要なのだ。ジェッソ下地の黄土色は、だから、彼女の瞼の裏側で明滅した光の痕跡なのだろう。あの異形の者たちは木製パネルをスクリーンに変え、そこに記憶の風景を投影すべく彼女の脳髄と瞼とを行き来し、光の粒子を運んだ使いなのではないか。黄土色の砂漠に出現する異形の者たちの不可解な愉悦。「祈りと制作」では、その者たちの存在によって記憶が絵画となるための通路が確保されていたのだ。

内的世界への傾倒と外側の世界を照らす光への粒子レベルの執着。どちらかの要素を少しでも欠いてしまえば今にも崩れかねない繊細な記憶の風景画。野田幸江の初期作品に漲っていた魅力は、内と外のあいだでギリギリのバランスが維持されることでもたらされていた。一見して幻想的にも神秘的にも見える描かれているものの異様さ。目を惹く画風と、特徴的な制作ルーティーン。表面張力めいた均衡が観者に強いる緊張。緊張が惹起する危うさ。野田の絵は、当時アートに携わっていた少なくない者を魅了したことだろう。若い画家のこれからがそれほどまでに眩しいものでもあったろうことは私ですら想像がつく。既にスタイルを確立させながら未完成な部分を残し、今後次第ではさらに大きくなる気配もひめている。予想できないスケールと可能性。だからゆっくりでいい。そうすればこの画家はこれから、観る者を未知なる場所に連れて行ってくれるかもしれない。しかし画家は、期待された彼女のこれからをみずから断ち切り、「祈りと制作」以降、作風を大きく転換させた。

転換の背景の説明に私は多くの言葉を費やしたくない。だからここではその理由を、かけがえのない他者の緩慢な喪失、と述べるに留めておきたい。二〇〇〇年代後半に生じた野田の転換は、端的に言えば画家が内的世界から脱し、暗箱の外側に広がる世界を描きはじめたことに起因する。二〇一二年にすどう美術館で開催された「向こうがわへ 〜愛のつづき〜」からはその成果の一部を窺い知ることができるのだが、そこに描かれていたのは、夜の市街地の様子や、家族連れで賑わう公園、フェンスで囲まれた空き地、コンビニの駐車場、セレモニーホールに集う喪服を着た人々といった、日常的でごくありふれたものをモチーフにした風景画だった。これら転換後の野田の作品に、初期作品に感じた悍ましさを、それゆえの驚きを、私は感じなかった。むしろ転換「以後」の作品群から受け取ったのは、記憶の⽣々しさから⽣じる、持続する痛みの感触だろうか。内から外への移行は画家にとって不可避なものだったのだろう。心の休息地でもあった内側の世界には大きな穴が空いていた。風景は一変し、かつて描いた記憶の風景画を成り立たせる土壌は失われていた。再びそこへ戻ることは難しい。目を向けることもままならない。だから、外を描く。しかし、外への意識を拡張させ、逆方向の眼差しで「向こう側」へと到達するには、あまりに深い闇が内側から溢れ出てしまう。絵の中の、青にも白にも緑にも滲んでトーンを規定する黒の強さが、胸を抉る。

内へも外へも向かえない。ならば向こう側への通路などこちらから遮断してしまえばいい。画家がそう考えたかは知らない。だが、転換以降、家業の花屋の仕事に携わり、植物を取り入れ始めたこの頃の野田の作品を見ているとそう思うことがある。とりわけ二〇一八年にBIWAKOビエンナーレで発表された「すべてのことが まっ平らになってゆく…。」に私はその気配を色濃く感じた。この作品で画家は新築予定の更地を耕し、向日葵とコスモスの種を蒔いて芽吹いた種を育てる一方、木片に描いた絵を土の上に捨てるように配置し、植物と絵が時の経過とともに朽ちていく様子を作品として展示していた。二年かけて制作された作品は画家の思惑とは正反対のことを彼女に示したのかもしれない。たとえ絵と花が朽ちても、その後には何かが残る。どうしたって生命は循環する。すべてのことはまっ平らにはならない。終わりに見出しうるのは、朽ち果ててまっ平らになるすべてではなく、すべてがまっ平らになることをひたすら待ちつづけた人の、無情なまでにがらんとした現在でしかないのだ。どれだけ時間が経っても失われた風景が心を捉えるなら、容易には修復できない心の歪みを、地表の凸凹を、揺れる木々を草花を、いまここのどこを切り取ってもすべてがすべて違っているこの世界の姿を見据えて、自分にしか見えない「風景」をもう一度思い描くしかない。

二〇二一年八月。会場に足を踏み入れた瞬間、巨大なカイヅカイブキに目を奪われた。セイタカアワダチソウを粘土で固めたオブジェは繭のような不思議な形をしていた。アクリルケースの中に置かれた白桃は腐り、表皮の一部が柔くなり黒ずんでいた。歩くたびに綿毛が舞った。不意に撒かれた砂礫が目の端を過り、足の踏み出しを一瞬躊躇った。二年前の夏、ANB Tokyoで行われた「腐っていくことやここからの眺め」に広がっていたのは、野田の「風景」の現在形だった。団地や高速道路の脇に植え込まれ、ある時代の景観をかたちづくったカイヅカイブキに顕著なように、そこでは意味と役割を失った植物たちが心地いい距離感で配置され、腐敗へと向かって静かに佇んでいた。介入の跡の露出を最小限に留めた作品はその抑制的な手つきゆえに、むしろそれが切断されて今ここにある事実を前景化させてもいた。無用となった植物たちがつくる荒地。私はそんな風景をとても美しいと思った。

目の前で刻一刻と更新されていく風景を、全身全霊をかけて眺めること。それは記憶の中に閉じこもることとも、闇雲に向こう側へ逃避することとも違っている。描くことに伴う凝視を経て、野田幸江は切断による介入を行うことで彼女の「風景」を出現させた。二〇一八年を境に野田は一度絵から離れ、生業である花屋の仕事と植物を使った作品制作を生活の中心に置いたが、それは日常の中に切断の連続を招き入れることでもあっただろう。それを日々の生活の中に「向こう側」を取り込むことだと言えば、夢想的にすぎるだろうか。鋏を入れて植物の生命を絶つ。風景の中にさりげなく介入する。死んだ植物を「風景」として再構築する。では、その「風景」の中で植物は無用のまま終わるのか。終わるだろう。しかし、無用のまま朽ちた植物は決して平らになることはない。腐り、他の何かに作用し、別の何かを循環させる。土壌は表面に凸凹をつくる。同じような、だけど本当は、なにひとつ同じではない、いつだって暫定的な「ここからの眺め」がこれからも繰り返されていく。内側の荒地を見つめ、向こう側を招き入れることで構築された現象としての「風景」。内と外の、こちらとあちらの境界が曖昧になったいまここ。その場所から彼女はまた絵を描くだろうか。わからない。ただし花屋の二階に移されたアトリエには窓が設置されていると聞く。光も十分に差し込むようだ。ならば窓の先に広がる風景を、今はただゆっくり眺めていればいい。

初出:野田幸江 個展 「花を育てるとか」(gallery TUTUMU、2023年2月23日(木) – 3月12日(日))

いいなと思ったら応援しよう!