ひねくれ者の子守唄
自分のひねくれた性格は何処からきたのだろう、と思うことがあります。
「みんなと同じであることは、格好悪いことである。」
という家で育ったから、それがひとつの原因かもしれません。
幼稚園で好きな食べ物をひとりずつ発表していくことがあったのですが、何故か女の子は最初の子が「いちご」と云うと、続く女の子も「いちご」「いちご」「いちご」、、、
こういう時、自分もいちごが好きなら「いちご」って云えばいいのに、みんなと同じことを云うのが格好悪いと思っていたわたしの答えは、「お肉」でした。
「チョコ」とか「ケーキ」ならまだ可愛かったけど、いちごと同じ可愛い路線も許せなかったみたいです。
服や持ち物を選ぶときも、みんなが持っているものを欲しがると
「こんなの、みんなと同じじゃない?」
と母が明らかに不満そうな顔をするので、なるべく人と被らないようなものを無意識で選ぶ、という癖もついてしまいました。
多数派になることは、わたしにとっては屈辱に近いことで、学校でも「他に意見がある人」と聞かれたら、是が非でも別の視点からの意見を云わなければ、と思ってしまうタイプでした。
ひとことで云えば、非常に面倒な奴です。笑
でも、わりと大人になるまで、周りを困らせても自分が悩むことはあまりなくて、そのことについて深く考えたこともなかったのでした。
ところが、
そんなわたしから生まれた子が、まあ見事なくらいみんなと一緒がいい、という典型的な日本人気質でして。
好きな食べ物を発表するときには、前の子たちが「いちご」「いちご」と続いてたら、いちごが好きかどうかに関わらず「いちご」って云うような子です。
わたし的には有り得ない回答なんですが、でもそれを頭ごなしに否定することはできませんでした。
わたしみたいな捻くれた性格にしたくない。
と、思ってしまったのです。
一応、「ママはね。ああいう時は絶対に人と同じことは云いたくない人なのよね。」
と伝えてはみましたが、
「ふーん。変わってるね。」
と返されてしまいました。
うーぬ。わたしやっぱり変わり者なのね。
わたしは制服は悪だと思っているくらいなのに、娘は制服が大好き。家に帰っても脱ぎたくないくらい。確かにわたしの時代に比べたら制服は格段に可愛いし、娘の私服よりずっと高価だから着心地もいいのかもしれません。
みんなと同じ黄色い傘がいい、とか、みんなと同じ靴がいい、とか例を挙げたらキリがないですが、娘を見ていると世の中の多くの人がこんな風に人と同じであることを希求しているのだなあ、としみじみ思います。
わたしの中にもあったかもしれないそういう欲求は、幼少期に摘まれてしまったんでしょうね。わたしはみんなと一緒はやっぱり落ち着かないのです。
みんなと一緒が大好きな娘ですが、家の中では母親であるわたしに対して揺るぎない反骨精神を持っているというわけで、社会には同調しても母親には同調しないという部分では頼もしい、のかな?
いや、わたし自身がひねくれた性格に自分自身で辟易していたのかもしれません。
みんなと一緒が嫌ならもちろん無理に合わせる必要ないけど、一緒が好きなら、好きなほうでいいや。
そもそも、わたしに教えられるほどの世渡りスキルがあるわけではないし、実際娘の学校生活の方がわたしのそれよりもはるかに楽しそう。
どうでもいいことなら、みんなに流されることに甘んじるのも、世渡りスキルなのかもしれない。まあ、わたしはやっぱり好きじゃないけど。
個性や自我って親が関わって作るものじゃないですもんね。社会に同調しながら、少しずつ作っていく自分らしさもあるのかもしれません。
自分を大切にして、命と健康を疎かにしたりしなければ、その他のことは本人にお任せしようと思います。そもそも何が正解とかないですし。
できたら多様な視点を持って広い視野で考える人になって欲しいですけど、その辺は長い目で、焦らずに。
つくづく子どもは親とは別人格だなあと思います。
わたし自身はきっとこれからもひねくれ者で、流される娘に負けない摩擦係数で生きてゆく所存です。
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