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声の記憶

人の顔を覚えるのが苦手です。
そして人の名前を覚えるのも苦手。

名前は、覚えるのが苦手なだけならまだしも、忘れるのも早くて、会わなくなってしばらくするともう出てこなくなります。

そんなわたしですが、何故か忘れにくい記憶がありまして、それが声の記憶です。

思い出すのはきまって、
自分を呼んでくれる時の声。

湯川さん、だったり
巴世里ちゃん、だったりする。

その人それぞれの呼び方と声。

ハスキーな声。
張りのある声。
あったかい声。
のんびりした声。

躊躇うように呼びかける人。
爽やかに呼んでくれる人。
いつも楽しげに呼ぶ人。

声は、その人の印象と一緒に記憶の引き出しに入っています。

—-

そういえば、わたしは仇名がつかないタイプの人間で、現在の本名も旧姓時代も、上の名前か下の名前に「さん」か「ちゃん」を付けて呼ぶか、または呼び捨てが定番でした。

旧姓だったのはかれこれ25年前くらいなんだけど、声の記憶だけは結構残っています。

旧姓の呼び捨てだった人。
旧姓に軽めにちゃん付けする人。
とても優しげに呼んでくれた人。
さん付けでゆっくりと丁寧に呼んでくれた人。

みんな何だかくすぐったいような想い出と一緒に仕舞われています。

ただ、昔のことすぎて、
声の記憶はあるのに、そのほかの記憶がとても曖昧になってしまってることに愕然としてしまうのではあるけど。

旧姓のまま声の記憶が上書きされていない人は、ずーっと会っていない人であることが多いのかもしれません。

そして、ふと

親しかった筈なのに、
上の名前も下の名前も
呼んでくれなかった人のことも
思い出しました。

シャイな人だったのよね。

他の話はたくさんしたのに、
呼んでもらえなかったその人の
声の記憶は見事に残ってないのでした。

相手の名前は、呼ぶべきなのかもしれない。
おい、とか、なあ、じゃなくて。

名前を呼んでくれていたなら、
きっと忘れなかった声の記憶。

でも

忘れたことも含めて想い出なのかな。

そんなことをとりとめもなく考える
秋の夜でした。

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