FAT LAVA: Otto【ライフワーク】
おはようございます。
梅雨入りしたんですよね?っていう位いい天気ですね笑
西ドイツ時代の陶器において、その代名詞とも言えるFAT LAVAの作品を多く作り、その名を世界に知らしめたファクトリーを1つずつ掘り下げていきます。
Otto(オットー)
Ruschaの回でお話ししましたが、西ドイツの陶器を世界に知らしめるきっかけとなったFAT LAVA。その元となる『Volcano glaze(ヴォルケーノ釉薬)』を開発したOtto Gerharz(オットー・ゲルハルツ)が自身で設立したファクトリー。
うん、なんともわかりやすい。
ファクトリーの起源
1951年からRuschaのアートディレクターを務めていたOttoによって、1964年にラインバッハで設立。ラインバッハはドイツの西側、もう少しに西に行けばすぐにベルギーという、ボンの南西に位置する小さな街だ。
Ruschaのアートディレクターとして『Volcano glaze(ヴォルケーノ釉薬)』を開発したOttoだったが、それに甘んじることなくただひたすらに関心のある釉薬の研究するために、Ruschaを去り自宅に小さなアトリエを開設。その後会社を設立し、1970 年に工業団地に移転する。
2人の天才の、幸せな話
希代の釉薬オタク(失礼)は"Otto"がファクトリーとして1996 年まで展開した釉薬のすべてを作り上げる、優れた職人でもあった。そして、そのオタクには幸運なことにこれ以上ない相棒がいた。その相棒の名はKurt Tschorner(クルト・チョルナー)、Ruschaであの名作『313』をデザインしたその人だ。Ruchaで共に働いていたこともあり、1987年までずっと2人で協力しながら様々なスタイルを世に送り出し続けた。更に嬉しいことに、今ではOttoの息子のOtto Gerharz Jnrが事業を引き継ぎ今もOttoのファクトリーを守り続けている。
釉薬の天才とデザインの天才がお互いを認め合い、自由にやりたいことがやれる夢のような環境がファクトリー”Otto”であり、彼らの作品がOttoの作品なのだ。そして、それが今なおその子供に継承されて生き続けている。まるで映画みたいな、ストーリーだ。
Otto Keramikがその2代目の制作する姿をなんとyouTubeにアップしてくれているのでぜひシェアしたい。
Otto Gerharz Jnr.の制作風景
理想を貫き通す、大量生産の真逆を行く方針
Ottoは会社にしたとは言え、従業員数が最大20名と少なく大量生産はできなかった。天才たちの作品を、丁寧に、常に新しいことに挑戦しながら作り続けてきた。
そんなOttoらしい、目立たないけれど使う人のことを考えたありがたい気配りがある。それは、底部分を覆った通常色つきのフェルトだ。これにより、焼き物を光沢のある素材や磨かれた木材のテーブルに置く際にも、焼き物独特のザラザラで傷つける心配がなくどこにでも気軽に飾れる。
このフェルトが付けられる様になった背景は定かではないけれど、焼いた後にわざわざこの工程を踏んでいること、そして二人の天才がこだわったことの2点を踏まえて、僕はそれを気配りだと考えている。もし他の理由があったとしても、これが結果的に作品も作品を置く場所も傷つけない様になったのは事実なので。
西ドイツの陶器には決まって底に各ファクトリーのロゴやスタイル番号が刻まれている。しかし、そんなルールも気にしないのも天才気質だし、フェルトが付けられていることで逆にOttoだとわからせるという逆転の発想はピカイチだと思う。この発想はルブタンの赤いソール、マルジェラのタグの縫い付ける4つ角の手縫の紐にも通じる、機能やデザインをアイコン化してブランドの魅力を増す優れたアプローチだ。
美しいだけでなく機能的で、こんなに温かいストーリーが込められている作品なんて、好きにならない訳がない笑
結果的に、皆さんにも興味を持ってもらえたらこれ幸い。
僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。
皆様も、良い一日を。
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