明日天気になぁれ
おはようございます。
昨日「天気予報見たら果てしなく雨らしい」と書いたけど、その日の午前中には雨は止み、午後はずっと曇り。今朝も今は雨だけど、また夕方には晴れる予報の様。
ふと気がつけば、僕はいつも出だしで今日の天気が晴れだ雨だと触れて本題に入っている。
それが晴れでも雨でも、自分の気分と相まって嬉しいだの残念だと言ってきたけど、天気ってなんだろうね。ましてやそれを予想する天気予報ってますますなんなんだろうね。
ふとそう思った。
天気予報の、情報としての重要さ
天気予報って、いろんな要素が絡まり合っての今の天気になるからどんなに科学が進歩しても的中させることは難しい。それでも大きく外れることはないし、極端な話外れたところで誰もどこにも文句の言いようがないし、そもそも誰も言わない。
国の機関である気象庁や一部の企業が、自然災害予防対策の一環として気象情報を常に発信してくれている。異常があった時にすぐに気がつける様に常に気候状況の観測を続けている副産物として「こうなった時は大体こうなるよね、だから明日はこうなりそうだよ」と、僕らが今日何着るべきか参考にできる程度の情報に噛み砕いて提供してくれている。
天気予報を受け取る側の認識
皆ニュースは見なくても天気予報は気にして、そのためにテレビをつけたりアプリでわざわざ確認する。畑の野菜の様子や船を出すために波の高さを気にする必要もないのに。そのくせ、今が過ぎてしまえば誰も振り返りもしない。
僕は寒がりだから羽織ものも人より必ず一枚多く持ち歩くし、普段履く靴も基本的には雨が降っても乾いた後に磨けば元通りにできる革靴ばかりだから、天気予報なんてなくても困らない。そのはずだけど、やっぱり毎日見てしまう。
天気予報に感じた違和感
(台風や地震など特別な時は別として)ニュース番組のオマケという程度となんとなく軽んじている一方で、「習慣」という言葉で片付けるには軽すぎる。
情報として時に命に関わるほど重要で、国家機関や企業が日々瞬間瞬間を細かく観察するほどなのに、一度発信されるその情報量はフワッとしている。
受け取る側も朝起きて窓を開ければ今日の雰囲気がなんとなくわかるのに、日常生活により影響がありそうな株価の動きなんかより遥かに興味を持って情報を追い、そして過ぎてしまえばどんな結果でも一切気にしない。
テレビ画面のフレームやPCのホームスクリーンでも常に表示されるなど日常に溢れる情報数としても類を見ないのに、流し見しかされない。
「天気予報ってなんなんだろうね」っていう違和感は、大事なのか些細なものなのか、その両極端で定まらないところだったのだ。
でも、天気予報が「フワッとしてていい」と思われている限りは、災害も大事もなく平和な日々であるこれ以上ない証明なんだな。
「台風が南に停滞し続けています」
「熊本で震度3の地震がありました」
いざ何かあった時に、その情報がその自然災害の最中にいる人、もしくはこれからその影響を受けそうな人々にとっては生死を分けるほど大切な情報となり助けてくれる。
でもだからこそ(災害時には重要な情報として期待しながらも)天気予報がフワッとしている位の日々が1日でも多く続いてくれるのがやっぱりいいね。
なんとなく、そんな当たり前のことに気付きながら、午後の晴れ間に期待をしてしまう朝でした。
僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。
皆様も、良い一日を。