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「パートナーに共有すべきじゃなかった」と言われた話。

日本は単一民族文化だ。他のアジアの国々も単一民族であることが多い。他の人種と交わることが少ないから、ひとつの民族として、ひとつの人種として、基本的にみな平等の扱いを受ける。医療や教育など、必要最低限の生活基盤はみな平等のはず。

一方で、北米やヨーロッパなど欧米諸国では Multicultural(多文化)と言われる。多文化社会は、さまざまな人種が混ざり合って、それぞれの文化、言語、歴史的背景などをお互いに尊重して、ひとつの国でも異文化に触れること、異文化を理解することが身近になる。

異文化理解が進むことで、自分の視野を広げたり、自分と異なるバックグランドを持つ人とのコミュニケーションがとれたり、異なる人種でも良い人間関係を築けたりできるはずだ。

しかし、今回見えたことは「多文化」「多人種」が混ざり合うということは、途端に、それぞれの国や人種で人をカテゴライズ(分類)し始めるということ。そしてカテゴライズすることで、「マイノリティ(少数派)」の立場になる人もいる。

そして「マイノリティ」にカテゴライズされた人々は、カテゴライズされた社会で生きづらくなることも多い。

単一民族文化のほうが「この国に属する人種」と「そうではない人種」と、はっきり区別されてしまうのかもしれないが、統一された文化の中では「そうではない人種」だとしても「この国に属する人種」とともに基本的には統一された、同じ扱いを受けることになるほうが多いのではないだろうか?特に日本ではその傾向が強いと思う。

「多文化社会」の中では人をそれぞれの人種に「カテゴライズ」する傾向があり、その「カテゴライズ」された属性によって社会から受ける扱いも異なってくる。

ここが、私が今まで見えていなかった「多文化社会」のもう一つの側面。

「単一文化」より「多文化」社会の方が社会として良いと思っていたけど、どうやらそれを無条件に良しと考えるのは違う気がしてきた。

単に「多文化」「多人種」を受け入れましょう、ではなくて、国や人種によらずとも、個人が個人として尊重されるべきであって、多人種を受け入れたことによって「カテゴライズ」されるのはさらなる偏見や差別を生むだけだ。

パートナーと話していると、こういった社会における「カテゴライズ」や「マイノリティ」と言われる人の、表向きには分からない、ダークな面をいやというほど突きつけられる。

さまざまな現実を知るほどにショックを受けるし、何も知らなかった自分が恥ずかしいし、どう向き合っていけばよいのかもわからない。知れば知るほど社会に対して悲観的になるし、不信感を持つし、気持ちが沈む一方だ。

私は基本的にどんな状況でも、できるだけ前向きに過ごしたいし、見方によってポジティブに捉えることもできると思っている。でも、彼が言うにはこの問題は自分の力で、自分の意志で、どうにかなるものではないと言う。それもまた悲しくなる要因だ。彼自身、自分の境遇を悲観しているようで。

確かに、社会の風潮、政治、治安、医療や教育にいたるまで、生活する上で「カテゴライズ」されたがゆえに、正当な扱いを受けられず「マジョリティ(多数派)」とは違う対応をされるのが当たり前の社会で生きていたら、自分でどうにかできるものではないと思うのも無理はない。彼はもうそれを受け入れて理解して過ごしているが、そこにいたるまで気持ちの整理をつけるのに、20年以上もかかっているのだ。

人種差別は子供に対しても容赦ない。SNSでもそのような動画を目にすることもある。彼はそんな社会で幼少期を過ごしてきた。学校のクラスの先生でさえ、子供に対しての対応が人種によって異なるというのだ。子供ほど皆平等のはずなのに、大人から受ける扱いが肌の色によって異なる。

本当に理解に苦しむ。文字通り理解するのに「苦しい」

理解できない。彼に返す言葉も見つからない。変に励ますのも違うし、気にするな、とも言えない。自分の立ち位置もわからない。何も言えなくて、ただただ涙が出てくる。

パートナーと同じ世界を見ていない、見れていないのが悲しい。同じように見えている世界でも、私と彼では違った見方をしている。違う人間なのだから感じ方は人それぞれで当たり前なんだけど、それだけじゃない。根本的に何かが違う。世の中のダークな面を本当の意味で共有することができない、分かり合えないことが悲しいし、申し訳ないし、悔しい。ときに、自分が見えている世界を否定されたようにも感じる。それもショックだ。

さらに「これはパートナーに言うべきじゃなかった」「パートナーにシェアする必要のないことだ」と言われたことも頭から離れない。一番近い存在のはずなのに、自分の気持ちをシェアされないほど悲しいことはない。それほど、「この話題は、話しても理解してもらえない」「あなたには分からないこと」と一線を引かれているよう。

家族でさえも、親しい友人でさえも、この話題はあまり持ち出さないらしい。分かっていてもあまり見たくない現実のためか、話しても意味がないと思われているのか、興味がないのか、分からない。単に彼が特に繊細なだけかもしれないけど。

日本で生まれ育った日本人の私にとっては、おそらく、一生、100%理解してあげることはできないかもしれない。日本人として日本で暮らしていると、人種差別の場面に出くわすことは少ない。

人種差別と捉えられるような場面にあっても、私はきっと気づくこともできないだろう。なんの疑問も持たずに、のほほんと、当たり前のように素晴らしいサービスを受けて、のんきに過ごしている。そんな自分が恥ずかしいとさえ思えてきた。

米国滞在中、ある印象に残った出来事がある。

彼とあるカフェに入ったときのこと。
私はラテを、彼はブレンドコーヒーを頼み、注文したコーヒーを受け取ると、私のコーヒーカップにはソーサーがついていたが、彼のコーヒーカップにはついていなかった。

そこで私が思うのは、注文した商品が違うから使うカップが違っていて、ひとつにはソーサーがついているけど、別の商品にはたまたまついていなかったのでは?という程度のこと。

しかし彼からすると、"racism(人種差別)" な面も少なからずあるのではないか?とのこと。彼はメキシコにバックグランドを持つメキシコ系アメリカ人で、いわゆるブラウン系の人種だ。

そこまで疑い深くならなくても・・・と個人的には思ってしまうのだが、彼の育ってきた環境では、接客サービスを受けるのも「皆平等」はあり得ないという世界。普通のカフェなら「皆平等」に接客されるもの、という日本で当たり前に思っていたことが、ここでは当たり前ではない。

見渡せば、そのカフェは確かに白人系の人が多い気もする。もちろん実際のところは分からない。カフェの立場からするとそんなつもりはない、と言うだろう。

さらにこんな話も聞いた。

お店でおつりをもらうとき、端数のおつりが返ってこないことがあるとのこと。例えば、13.25ドルの商品に15ドルを出したとすると、おつりは1.75ドルになるはずだが、1ドルしか返ってこない、ということがあるらしい。

私はこのおつりの端数が戻ってこないのは、欧米特有の習慣、文化の違いだと単に思っていた。学生時代に留学エージェントからも言われたことがある。日本にはないチップ制度など、システムや文化の違いでおつりの端数は戻ってこないこともあるのが普通だから、と。

でも、このおつりを全額返さないのは単なるチップ制度の違いだけではないらしい。店員さんによって対応が変わるし、店員さんも接客するお客さんによって対応を変える。「この人なら細かい金額は返さなくてもいいだろう(何も言ってこないだろう)」という人を選んで、言い方は悪いが「おつりをくすねている」場合もある。その場合、大抵は立場の弱い「マイノリティ」が標的にされる。そこで「おつりの額が違いますよ」と声をあげたらちゃんと返してくれることもあるらしい。

これらはあくまで私が見聞きした、個人的な経験上の話だが、こういった日常の中にある些細な対応の違いには、その社会の根底に人種の違い、人種のカテゴライズがあるからなのかもしれない。むしろもう無意識で行われていることで、誰も気づいていない、気にも留めていないのだろう。

現に私は彼に言われるまで気づかなかったし、少しも疑問に思ったことがない。でも、彼はそういった些細な違いを、自分に対してだけでなく誰かが違った対応を受けているのを見ただけでも、その違いにとても敏感だ。

こういう人種の話になると、私はいつも何も言えなくて黙ってしまう。重い空気が二人の間に流れて、その後しばらくカジュアルな会話もできなくなる。ケンカしたわけでも、議論したわけでも、傷ついたわけでもないけど、なんだか微妙な関係になり、コミュニケーションもたどたどしくなってしまう。毎度この繰り返し。

私の許容範囲、理解の範囲、経験の範囲、認識や常識の範囲、イメージできることの範囲、すべてを超えている。

たくさんの想像の範囲を超えて、自分で処理できる感情や情報をすべて超えていて、何を言ったらいいのか、どう受け止めたらいいのか、整理がつかない。こうやって文字に綴ることで何とか整理しようとしているけど、自分が何かをされたわけでもないのに、涙が止まらなくなる。

考えすぎだ、気にするな、とも言えない。そんな簡単に言えるような単純な問題じゃない。この問題に、ただただ、どう向き合っていいのか分からない。本当に。

こんな重苦しい話題をわざわざ持ち出して議論しなくとも、難しいことは考えずに気楽に、ハッピーに日々を過ごそうと思えば過ごせるはずだけど、それでも、彼には見えている世界だから。マイノリティの人々には確かに見えている現実だから。それによって彼らはときに心を乱されているから。無視することはできない。

こうやって書きながら「マイノリティ」という言葉を自分で使っていることにも、なんだか違和感を感じてきた。「マイノリティ」も人を「カテゴライズ」しているから出てくる言葉であって、人を自らカテゴライズしているようでモヤっとする。

人種問題を知れば知るほど、世の中の白人至上主義を恨んでしまうが、まずはこの現実を知ることができたのは、私にとっては大きな一歩なのかもしれない。このまま知らずに暮らしていたら、ニュースなどで社会問題のひとつとして触れることはあっても、自分事として捉えることができなかったし、どこか遠い国で起こっている、私には関係のないこととして何も感じず、スルーし続けていたかもしれない。

英語を学んだことで他国を知り、海外の人と知り合い、コミュニケーションをとっていく中で見えてきたこと。「国際交流」「異文化」と聞くとなんだか「キラキラ」したイメージが先行しがちだけど、それだけじゃない、全然「キラキラ」してない、なんなら「苦しい」部分もあることを、ここ数年で何度も実感している。

だからといって自分に何ができるというわけでもないけど、まずはパートナーに、一番身近な存在として寄り添える人にはなりたい。当事者にしか分からない感情があるのだろうけど、「パートナーにシェアする内容じゃない」と思わせてしまっているのを少しでも解消したい。

そのためにも、この問題に無関心や無感情にならずに、学び続けたいし、理解する努力を続けたいと思う。


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