2021年秋、京都芸術大学・芸術教養学科に学士入学しました-2:芸術を専攻すること
芸術・アートという、心の片隅でずっと向き合いたいと思いながら、後回しにしていた分野をついに専攻!・・・するにあたっての雑感。
私の家族は決して豊かではなく、文化・芸術に関する習い事に通ったり、贅沢をさせてもらう余裕はありませんでした。子供時代から、何かを学ぶ=職業訓練や生きることに直結するもの、が基本。けれど、両親は、人生はそれだけで完結するものではないということは分かっていたのでしょう。やりくりして神社・仏閣、エンターティメントなどに連れて行ってくれ、本に学ぶことを教えてくれました。義務教育でもそうした活動があったことが記憶に残っています。ねだっておもちゃを買ってもらったりテーマパークに行ったりなどの子供らしい思い出はほとんどありませんが、限られたリソースを大人がこうした経験に割いてくれたことを自分では幸運だったと思っています。そんなわけで、大人になってからも、私にとって文化・芸術はーー深くかかわれるほどの学びの機会や経験はなくてもーー生活の一部、ビタミンとして機能していました。建築を学んだことでも、恩師の「建築は実用の芸術」という言葉が一番強く心に残っています。
そんな私、現在は、海外の某地方都市に住んでいます。近隣に鑑賞できるような文化的対象物やエキジビションはなく、お店はチェーン店、家は区画ごと造成された新興住宅地がほとんどの個性のない街並み。建物も製品も大量生産のお世辞にも美しいとはいえないものが並ぶ。本屋、図書館は絶滅危惧種。市場競争やオプションの少なさをぼやく声は聞こえます。しかし必要なものや情報はネットで入手できて、生活には困らない。
そんな私が通教のテキストを開いた第一印象は、「長いことかなり右脳よりに生きてきたんだわ」。自分が大好きだった文化やアートなモノ・コトから今はこんなに遠く離れて暮らしているのだ、と改めて感じました。
自然と共生すること、足るを知ることは大事。人生はそれだけではないはず。自分は凡人だけど、本のある生活、人間のクリエイティビティや魂の栄養に触れる生活が必要、と改めて認識しています。本当はネット越しではなく直に体感したい。でも、とにかく動き出すことが大事、と一歩を踏み出しました。
今回の通教は、そんな私の、文化への渇望に、道を照らしてくれるでしょうか。