人生をふりかえってみたら、自分の光と闇を見つけた。
これから先、挑戦を続けていく自分であるために、これまでの人生をふりかえる「自分史」を書いてみました。
見たくない感情や出来事も言葉にしながら、忘れていた自分を思い出し、まだモヤがかかっている自分を知り、まだ知らない自分がいることの気配も感じています。
これから何度も読み返して、私の中にある光と闇を掴んで、自分自身の解像度を上げていきたいです。
読んでくださったみなさんにも、何かひとつでも心に残ることや気づきがあればうれしいです。
はじめに
思い違いだったのかもしれない。
人に興味がない冷たい人間だとずっと思ってきた。
人生の節目は自分で悩んで考えて決断してきたと思っていた。
人間関係に悩むことがたびたびあって、辛い思いをしてきた。
空気のようで存在感のない八方美人だと思っていた。
半分は合っているけど、きっともう半分は違う。
私にはたくさんの素敵な出会いがあって人に恵まれていて、幾度となく助けられ、ときには助けになっていた。
そして、好きだなと思えるコミュニティの中でみんなと過ごすのが好きな人間だ。
ひとりの時間もみんなとの時間も大切で、人に興味はないかもしれないけど、人は嫌いではないのだ。
大切に取ってあった昔の写真の数々や送別のメッセージブック。
ないと思っていたものは、あった。
生まれたときのこと
私が産まれたときは3800gぐらいだったらしく、叔母いわく、ベビーカーにぎゅうぎゅうだったらしい。
年子で産まれた弟のことをよく世話する面倒見のいいお姉ちゃんだったらしい。着替えるのを手伝ってあげたり、幼稚園の面談で「この子、大輔って言うの」と本人の代わりに先生に話していたらしい。同じ子供部屋で机を並べて一緒に過ごしていたし、友達と遊ぶときは弟もよく一緒の輪の中にいた。
思春期を過ぎてからは、歳が近すぎることもあってか、少しずつ話す機会は減っていって、今も顔を合わせてもあまり直接話さない間柄。
決して仲が悪いわけではないけれど、仲睦まじい感じでもない、絶妙な距離感を保っている。いつだかの時期に「おねえ」と呼んでくれていたのは実はうれしかったし、私がリラックマが大好きでハマっていたときは、実家に帰るとゲーセンで獲ってくれただろうキーホルダーとかを部屋に置いてくれていた。(社会人になってからの話だけどw)あまり話さないけど、昔から、心やさしくてまじめな子なのだと、私は知っている。
自主的に勉強する私と比べられて親に怒られて、当時は辛い思いもしていたと思う。助けてあげられなくてごめん。今まで、生きづらくて悩んだことも多かったかもしれないけれど、今は素敵な奥さんと新しい生活を送っていて本当によかった。
話は戻って、幼稚園の頃のエピソードで今も強く覚えているのは、お遊戯会。ピーターパンの劇で、私は意気揚々とウェンディ役を演じて人前に立っていた。といっても、誰がどの役になってもOKという超平和&カオスルールが適用されていて、ピーターパンもウェンディも10人ずつくらいいた気がする。だから大勢の中のひとりではあるのだけど、ヒロインがよかったんだろうなと。そしてこれをよく覚えているということは、楽しかったのだと思う。
陽キャ小学生
記録を大切にしまっておきたい。そう思っていたのかもしれない。
特に小学生の頃は、”写ルンです”を駆使して、友達と過ごす瞬間を切り取る写真をたくさん撮っていた。誰かを撮るのも好きだし、みんなの中にいる私を見るのも好きだったんだと思う。そしてそれをきれいに1枚ずつアルバムに収納して、調子がいいときは、タイトルと日付、映っている人の名前まで鉛筆で書かれていた。現像された写真が包まれた封を写真屋さんで受け取るときの高揚感は、今はなかなか感じられないと思う。
幼少期、にぎやかで明るくて楽しい空間だった。生まれたときから小学校6年生に上がるまでの間、私は中野区の社宅に住んでいた。偶然、私と同学年の子供が多くて、幼稚園も小学校も、社宅の友達と楽しく過ごした映像がたくさん思い浮かぶ。親同士も仲が良くて、今でもお母さん同士LINEグループがあって、たまに食事に行っているらしい。
社宅が取り壊されることになって、離れ離れにならなければいけなくなったときは本当に悲しかったし、親もみんなそうだったのだと思う。もし取り壊しの話がなくてここで住み続けていたら、きっと全然違う人生を歩んでいたんだろうな。
中野で過ごした小学生時代は、それぞれの学年でコアな”いつメン”はいたけれど、グループやクラスを越えて色んな人と関わって遊んでいた記憶がある。当時は八方美人モードというわけではなく、純粋に、人を分けたり差をつけたりするのが不自然だと感じていたのかもしれない。
誕生日会を催すのが流行っていたようで、誰かの誕生日会に参加するのも好きだったし、誕生日に関わらずみんなを家に招いてワイワイ遊ぶのが好きだった。お菓子を広げて家で過ごしたり、社宅の外のスペースで鬼ごっこやローラースケートをするのも楽しかった。
中学年くらいのときは、近所の図書館によく行って、背伸びしてファッション誌を読んでみたり、「ズッコケ3人組」シリーズの小説をよく読んでいた。あとは児童館で遊ぶのもすごく流行っていて、飽きずにバトミントンやビリヤードをしていた記憶がある。
クラブ活動は、バトンクラブ(バトンをくるくる回す技を当時練習していた!なつかしい!)や一輪車クラブに入っていてアクティブだった。ひとりっきりで何かをするよりも、友達と一緒に遊んだり、弟と一緒にゲームをすることの方が多かったけれど、一方で図書館が好きだったり、シールやメモ帳集めに精を出して文具を愛でていた。黒い紙に書けると当時画期的だったミルキーペンを手に入れたときの胸の高鳴りといったらない。文字を書くのもこの頃から好きで、友達と交換日記をするのも楽しかった。
あとは、習い事の習字が好きだった。協会か何かの月刊誌に優秀章の書が発表されるのだが、それに載りたくてがんばっていた節もあるし、ひとりで静かに集中するのが性に合っていたのかもしれない。
私の人生イチのモテ期はこの頃だと思う。クラスで「ゆかりちゃん派かまきちゃん派か」という論争が起きるくらい、一世を風靡した(笑)当時は”付き合う”という概念はなかったけれど、両思いの男の子は常にいたと思う。そこから一転して、中学生になってから男の子と喋れなくなる超シャイガールにキャラ変してしまうので、環境が与える影響の大きさを改めて実感する。
家族との思い出
おばあちゃんちがある奥多摩に行くのも毎回楽しかった。お父さんは、土日はもちろん大晦日や元日も家を不在にしていることがほとんどで、いわゆるカレンダー休みがない仕事をしていたから、家族で旅行する機会は少なかったけれど、その分、電車でも行ける距離だったおばあちゃんちは私に取って楽しみな旅行のひとつだった。
夏祭り。河原でのバーベキュー。特に夏の奥多摩が大好きだった。いとこと一緒にトラックの荷台にみんなで乗って、つかまり立ちして夏の風を感じながら山道をうねうねと進んでいく時間が楽しくて仕方がなかった。
私たちが泊まりに行くとよくお寿司を頼んでくれて、マグロ好きな私にだけ、マグロ尽くしの寿司桶を特別に頼んでくれたのもいつもうれしかった。
ひいおばあちゃんの部屋にいつもあったべっこう飴も、私にとって懐かしい味だ。
なかなか家族で出かけることができない状況だったから、その分、年に1回夏休みの期間に海外旅行に連れていってくれた。いとこ家族と一緒に、ハワイやグアムに行った。海で海藻を投げ合ってきゃっきゃと笑う遊び、よくもまあ飽きずにやっていたなと思う。海辺のコンドミニアムの大きな部屋を借りて、スーパーで買ってきた大きなお肉を焼いたりしたのも楽しかった。どこかで見た、冷凍庫かと思うくらいキンキンに冷えて窓が曇っている靴屋さんは衝撃的で、今でも我が家の笑い話のひとつになっている。
英会話教室に通わせてもらっていたので、スーパーで「小分けの袋ください」と知っている単語を使って見事に袋をゲットして、お母さんに褒められたのを覚えている。中学生になって英語に抵抗を感じなかったのは、勉強として習う前に耳で聞いて音で覚えて、遊びながら英語に触れる機会があったおかげだと思っている。
「人って怖い」という初めての感覚
会社の都合で社宅が取り壊されることになって、みんな引っ越しを余儀なくされた。数年ほどのバッファを設けてくれていたので、我が家は私と弟の進学のタイミングを配慮してくれて、知り合いがいる状態で中学校に行った方がいいだろうと、私が小学校6年生にあがるタイミングで、三鷹市に引っ越しをした。
引っ越した先も社宅で、幸運なことに同級生の女の子もいて、引っ越してきてすぐ仲良くなったので、周りに知り合いが誰もいない状態で不安だった私にとって、とても心強い存在だった。
初めて新しい学校に登校した日。校長室のようなところに行ったあと、クラスの教室に案内された。そのときの記憶はないのだけど、ドラマでよく見るように、黒板の前に立って自己紹介をしたのだと思う。
これまで平和にのほほんと過ごしていたところから、一変した。私にあてがわれたクラスが、先生いじめが繰り広げられているプチ学級崩壊状態だったからだ。主犯の男の子を中心に、ホームルームの時間に先生にヤジを飛ばし、悪口を言い、廊下に張り出された社会科見学の写真は、先生の顔だけ穴が開けられていた。何が理由で何がきっかけだったのかは分からない。しばらくすると先生は学校に来なくなって、卒業式の日も会うことができなかった。
当時の私は、「何やってるんだろう」と呆れる気持ちと、「目立ったら攻撃される」という初めての感覚を味わった。
転校生だからという理由なのか、私も一時期いじめられた。聞こえる音量で悪口を言われたり、バカにするような態度を取られたりした気がする。でもそのときの私はなぜかめちゃくちゃ強気で、いじめっ子の態度に動じることなく、学校生活を送っていた。「何で私がこんなこと言われなきゃいけないんだろう?意味不明なんですけど」ばりの態度だったと思う。
そうしたら、しばらくすると標的にならなくなった。反応がないからつまらなくなったのかもしれない。
私が強気でいられたのは、どんな状況でも変わらずに仲良くしてくれる友達がいてくれたおかげだ。環境ががらっと変わって、「人って怖いんだ」と感じた1年間だったと思っていたけれど、文集や写真を見てみると、友達も周りにいて、楽しそうな姿もあった。それなりに楽しい思い出もできていたみたいだ。
平和が戻った中学1年生
小学校を卒業後、市立の中学校に入学した。同じ小学校の生徒も半分くらい在籍している。
1年生のクラスは本当に”当たり”で、みんないい人で仲がよかった。7人の女子グループでいつも一緒に行動していた。交換日記も一度に何冊も同時にやっていたし、手紙交換もすごく流行っていて、毎日のように文章を書いては友達に共有していた。当時好きだった男の子と「目が合った気がする!」と興奮気味に日記に書いていたのが懐かしい。
私の周り限定の流行りだったのか分からないけれど、携帯電話がまだまだ普及していなかった時代だったから、FAXで手紙のやりとりもよくしていた。1日のほとんど、何かを書いていたんじゃないかと思うくらいのアウトプット量w直接お話するよりも、自分が伝えたいことや考えたことを文章にする方が好きだった。
不登校になった
クラス替えは本当に嫌いだった。強制的に環境が変わってしまう。人間関係もリセットされる。辛かったから脳が忘れさせようとしてくれたのか、中2〜中3の頃の記憶があまりない。
家で昔の文集をめくっていたら、中2の終わりに書いた日記を見つけて、当時の経緯を少し思い出すことができた。自分が好きだった男の子と、私の気持ちを知りながら付き合い始めた友達が許せなくて、いじめてしまったことがある。そしていじめられるという経験もあったのだと思う。
中2の2学期に登校拒否をすることになった具体的な理由は今も思い出せないけれど、廊下をうつむいて歩いていると、視線を向けるみんなが私の悪口を言っているような気がしていたのはなんとなく覚えている。きれいに磨かれた白い廊下が、永遠に続くような気がして、嫌いだった。
不登校になった②
3年生のクラス替えで、ケンカして嫌われたAちゃんとまた同じクラスになった。仲良く写真に写っているときもあるから、きっと3年生になってしばらく経ってからなのだと思う。2回目の不登校を経験した。私が怒らせたことが始まりのようだから、自業自得ではあるのだけど、今まで仲がよかったグループ全員から無視されて、悪口を広められた。(と思う。)
家にずっといたときもあれば、保健室に登校して1日を過ごすこともあった。どれくらいの期間そうしていたのか、まったく思い出せない。
修学旅行にも行って、卒業アルバムの写真も撮ってもらって、卒業式も出て友達と写る写真が何枚もあったから、なんとか最後は学校に通っていたのだと思う。
不登校になってしばらく経って、駅前のパン屋さんでお母さんに「もうそろそろ学校行ったら?」と言われたときは、すごく悲しかった。確か、学校で何があって何で学校に行きたくないのか、ちゃんと親に伝えていなかったと思う。
親も心配していただろうし、不安だし、どうするのが正解なのか分からなくて悩んでいたと思うけど、当時の私は「私の気持ち分かってくれないんだ」と受け取ってしまった。友達に裏切られた(と思っている)こともあって、自分を開示することが怖いことなのだという認知の形成に拍車がかかったのかもしれない。世界を信頼していた小学生の頃の私の面影が、どんどん薄くなっていった。
それでも、登校し始めるようになってから、私と仲良くして輪の中に入れてくれるクラスメイトがいた。その子の顔が浮かんできて、この文章を書きながら涙が出てきた。
今までの人生、人数や関係の深さはそれぞれだけれど、私の周りにはいつも誰かがいてくれて、その存在に幾度となく支えてもらっていたんだ。ただただ中学生の頃は辛かったというイメージでかたまっていたけど、それだけじゃなかった。人に恵まれていたし、心を通わせた友達だっていた。私はひとりじゃなかった。
卒業文集のクラスのランキングページ。不登校の黒歴史があったわりに、名前が入っていることにも驚く。私のことを嫌っていたのは本当は主犯の1人で、他の人はフラットに見てくれていたのかもしれない。
塾が楽しくて仕方なかった
中学校生活は紆余曲折だったけど、不登校だった時期も塾にだけはちゃんと通っていた。同じ中学校の同級生も多く通っているところだったけど、害を与えるような子はいなくて、仲がいい子がたくさんいて、私にとってのシェルターのような、安心できる場所だった。
オールバックでまん丸なお腹で、ユーモアたっぷりで懐が深かった塾長で英語を担当していた先生。普段は冗談も言わず問題が解けないとイライラしがちだけど、よくペンの蓋をするのを忘れて胸ポケットに入れてシャツを汚してしまう抜けた部分があった数学の先生。個性豊かな先生たちのことも好きだった。
それぞれの教科が成績別でクラス分けされていて、定期的に開催されるテストの結果でクラスが上がったり下がったりするシステム。テストの結果が教室や廊下に張り出されるのを見るのがいつもワクワクしていた。トップ10に入って自分の名前が掲載されることが何よりうれしかったからだ。
数学は苦手だから最初から捨てていたけれど、国語と英語は得意だったのと、いい点数を取ることへの情熱が高かったので、勉強は自主的に頑張っていた方だと思う。効率的にできないし記憶力も決して高くないけれど、コツコツ続ける戦法で結果を出せるタイプだった。
高校受験
塾の先生に薦められた当時偏差値70くらいあった高校を、とにかく制服がかわいくて自宅からも通いやすいからという理由で第一志望にした。今思えば、人間関係に悩みたくないからある程度偏差値が高くて落ち着いている学校がいいと思っていたのだと思う。あとは、行くなら上位の学校がいいなという達成欲やミーハー心もあったと思う。
親には全く相談せずに決めてしまって、学費が高かっただろうに、何も言わずに私の選択を尊重してくれたことには感謝しかない。仲がよかった友達は、頭がよかったのに、家計を理由に行きたい学校に行かせてもらえなかったと聞いて、色々な家庭や事情があるのだと子供ながらに思った。
うまく勉強が進まないとイライラして、ペンをノートに突き刺し続けるというまあまあな狂気っぷりも見せつつ、目標はブレずに毎日机に向かっていた。
第一志望の高校の過去問で、数学で4点(!)を取ったときはさすがにヤバいと思ったけれど、このまま続ければきっと合格するという思いもあった気がする。滑り止めの高校もチョイスしていたけれど、「私はここに行くんだ」と心に決めていた。学校でうじうじと悩んで傷ついていた私とはまるで別人のようだ。
たまたま数学の試験の難易度が低いときで本当によかった。憧れの制服に袖を通すことができた。
穏やかだった高校生活
高校生活は、穏やかで楽しかった。期待していた通り校風はまじめ。ギャルもほとんどいなくて、「授業中に居眠りする」という概念がなかった。
大学付属高校で、ほとんどの生徒がエスカレーターで大学に進学する。大学受験というイベントがなかったからか、余裕があるというか、今思えば全体的にほんわかした雰囲気だったように思う。校則もわりとゆるくて、スカートを短くしてもルーズソックスを履いても、少しくらいメイクや髪を染めても指摘されなかったと思う。
当時はプリクラ全盛期。駅前のゲーセンに行ってプリクラを撮り、ファーストキッチンかサーティーワンか大戸屋に行くのが放課後ルーティン。あと、カラオケにもよく行っていた。高校生っぽく休みの日は背伸びして渋谷に足を運んだりしたけれど、109はアウェイすぎて買い物できなかった。吉祥寺が落ち着く。
体育祭、文化祭などのイベントも楽しかったし、その後の打ち上げの時間も好きだった。学校を出てみんなで街に繰り出すのが、特別感があって少し大人になったように感じた。2年生のときのクラスの打ち上げの定番はシェーキーズ(ピザの食べ放題)で、3年生のクラスでは老舗の渋いお好み焼き屋さんのお座敷席を貸し切りで利用していた。
ちょうどこの頃日韓ワールドカップが開催されてベッカムヘアが旋風を巻き起こしていた時代だった。いつだかの日本戦は、学校の体育館でパブリックビューイングを開催してくれて、友達と一緒に立派なにわかファンとして盛り上がったのもいい思い出だ。(ちなみに私は稲本派だった。)
部活をやめてアルバイトの道へ
数少ない苦い経験は、部活。中学校でバレーボール部に入っていたので、同じく経験者のクラスメイトと一緒に部活見学に行ってみた。バレーをすごいやりたいわけではなかったけれど、多分、先輩が素敵だと思って、入部を決めたのだと思う。
でも、わずか半年ほどで辞めた。今だったら秒で炎上する体罰が普通に繰り広げられていたからだ。当時24歳くらいの女性コーチが鬼で、先輩はボールをぶつけられて顔にあざができていることもあった。(校風とのギャップがすごい。)
夏合宿では、朝の体育館の雑巾掛けから始まり、熱がこもる体育館での練習が辛すぎた。1on1レシーブ地獄では、右に左に、前後ろにボールが投げ込まれて、コーチが満足するまでボールを追いかけ続けなければいけない。周りのメンバーは声を出して応援する。そんな毎日だった。私は嫌になりすぎて、足を怪我したふりをするという暴挙に出たw(本気で心配してくれたみなさん、本当に申し訳ない。)後半は、コーチにボールを渡すという役をこなした。
「私、こんなことをするために高校にはいったんじゃない」と強く思ったのは、同級生の子がピアスの穴をあけていることがコーチにバレて、連帯責任で全員顔にビンタされた瞬間だった。先輩方は性格も良くてすごく素敵な人だったけれど、私はそこから離れることに決めた。
そのあとは、アルバイトを始めることにした。中学校の頃からずっと仲良くしていた子と一緒にマックで働いた。「スマイルください」と言われたときは、「本当にあるのか!」とびっくりと感動だった。
そういえば思い出したけど、お店の中の表彰システムか何かでスマイル賞を1度もらったことがある。1度はやってみたいバイトだったから、楽しかった。けど、ランクが上がって仕事の幅が広がるのがめんどうくさくなったのと人間関係がドロドロしているのがだるくて、1年経たずに辞めたと思う。
その後も、和菓子屋さんやパン屋さんなど、飲食系のアルバイトをいくつかしてみた。パン屋さんは、金額が手打ちのレジのパターンで、パンの金額が覚えられなさすぎて、一瞬で辞めた気がするw部活もバイトも、向いていないと思ったら自分ひとりで決断してさくっと辞めるということを繰り返していた。
3年生のときに始めたコロッケ屋さんのアルバイトはすごく楽しくて、卒業するまで続けていた。コロッケのケースをきれいに片付けながらレジをさばくのも楽しかったし、社員さんや大学生のアルバイトの人に可愛がってもらったのもすごく楽しかった。
特に当時の店長はたまたま同じ高校の先輩で、多分お母さんと同じくらいの年齢だと思うけど、すごく優しくしてくれた。何を話したのかはまったく覚えていないけれど、学校とは違うコミュニティで大人と一緒にいる自分が好きだったし、年上の人に可愛がられるのはけっこう得意みたい。
放課後にクラスメイトが買いに来てくれたりもした。
当時は私をいじるシャレで「コロッケ」というあだ名がついていたし、卒業文集に書かれるくらい、私を象徴するアイデンティティだったらしいw
社交性がある内弁慶で恋愛偏差値低い系
みんな仲がいい、という空気感が好きで、メイングループはありつつも他のグループの子とも交わるのが好き。ヒエラルキーが高いイケてる女子グループの子ともほどよく仲良くしつつ、”いつメン”とはくだらない話ばかりしてきゃっきゃと笑っていた気がする。内弁慶感。クラス替えがあっても3年間そんな感じだった。写真の雰囲気を見てみても、小学5年生までの私と似ている気がする。
高2のときは「チームそっち系」が結成されて、彼氏できたことないメンバーでつるんで、お互いの恋バナや、どうしたら彼氏ができるのか話していた。陰キャ感。
中学生の頃からほとんど男子と話せなくなっていた私は、高校でも同じく。それでも一人前に好きな人はいて、バスケの試合を見に行ったり、デートしてみたり、ディズニーランドに行ってみたり、片思いを謳歌していた。結局彼氏ができないまま3年間が過ぎて、制服デートの夢は破れてしまった。
後から振り返ると、私のことを好いてくれてアプローチしてくれた子もいたんだよなあ。当時は初すぎて鈍感すぎて、それが好意だと気づかなかったのがもったいない。
定期テストに燃える
大学付属校だったから受験をする必要はなかったので塾には行っていなかったけど、学校の定期テストは毎回密かに燃えていた。大学は試験なしで進学できるけど、定期テスト結果のランキング上位の人から希望の学部が優先的に選べるシステムだということはなんとなく知っていた。でもどの学部に行きたいとかこれといった要望はなかったけれど、定期テストは高校になっても変わらず自主的にがんばっていた。
「どうしよう〜全然勉強してないよ〜」とか言い合いながら、陰でしっかり勉強していたタイプ。負けず嫌いな部分もあるだろうし、不安な状態のままテストに臨むことの方が嫌だったのかもしれない。その都度、自分なりに勉強をやりきっていた。
記憶力が高い方でもなく、頭の回転が早いわけでもなかったから、中学受験のときのように、とにかく行動量と時間でカバーしていた。記憶系はとにかくノートに書きまくって、体で覚えていた。本質を理解するとかではなく、記憶ゲームとして取り組んでいたと思う。(恥ずかしながら、歴史とか全然記憶に残っていない。)「時間かけて続けていけば点数取れるのに、なんでみんなやらないんだろう?」と不思議に思うほどだった。毎回クラスで上位5本の指に入る成績を出すことができた。
やりたいことなんてなかった
3年生になって、いよいよ大学の学部選びをする時期になった。英語は勉強していて楽しいなと思っていた程度で、好きな勉強もなかったし、将来の夢も特になかったから、「私はこの方向性で行きます」と専門分野を決める覚悟は到底持てなかった。なので、法学部や経済学部は興味が持てず、「色々な分野の授業を取れるから」と消去法的な理由で、当時創設されて間もない総合政策学部に行くことにした。
エスカレーター式とはいえ各学部の枠数はある程度決まっていて、うちの高校からは5%くらいしか枠がない狭き門だったが、「記憶ゲーム」を頑張っていたおかげで学年で20位以内の位置だったので、現状維持をがんばるだけで枠を獲得することができた。レア感とか新しさに惹かれるところは、私のミーハー魂が反映しているように思う。
一方で、数少ない受験組の中には、「看護師になりたいから看護学校に行く」と明確な目標を持っている子もいて、素直にすごいなと思っていた。
昔の友達とのつながり
引っ越す前の時代によく一緒にいた小学生の時の5人グループのメンバーや、中学校のときに仲良くしていて一緒にマックでバイトしていた子など、進学してバラバラになってもたまに会っていたし、同窓会的なノリで大人になってからも会ったことがある。
特に仲が良かった子とだけはこんな風にある程度長く付き合っていたことも、今思えば尊いことだなと思う。27歳のときに挙げた結婚式には、その子たちも披露宴や二次会に来てくれて。当時お母さんに「それぞれの学校のときの友達を招いて来てくれるなんて素敵ね」と言われて、恥ずかしかったけど嬉しかった。
今はもう連絡を取り合ったりしていないけれど、みんなそれぞれ元気にしていたらいいな。
色々な人と関われる自分は好きだけど、本当に心を許す人はコミュニティごとにひとりかふたり。それは学生の頃も大人になってからも変わらない。
こんな感じで、高校生活はいじめられたりすることもなく平和に過ぎていった。
ただひとつだけ、悲しい出来事があったことを覚えている。
中学校以来の仲の友達に、ある日ファーストキッチンで「ゆかりは何を考えているのか分からない」と言われたことがあった。そこに至る経緯はまったく覚えていないけれど、私の記憶の中ではこの一言だけが強く印象に残っている。私が不登校をしていたときも心配してくれたし、よくその子の家に遊びに行っていた。それくらい長く濃いと思っていた相手だったからこそ、ものすごくショックだった。自分を否定されたような、そんな気がした。
自己主張したり自分の話を積極的にするタイプではないし、友達に相談するといえば恋愛のことくらいだったけれど、今の私じゃダメってことなのかな、と思って、自分のことがよくわからなくなった。この子とは大学に入ってからも仲が続いたが、この場面がどのように着地したのか、当時の自分がどう咀嚼したのかは思い出せない。
祝大学デビュー
総合政策学部国際政策文化学科。長くて漢字ばかりで、履歴書に書くのが大変だったけど、私が入った学部は、なんかかっこいい響きで気に入っていた。
八王子の山の中にある大学は、緑がいっぱいで空が広くて、敷地も広くて(敷地に入ってから自分の学部棟に辿り着くまで15分くらいかかったw)すごく好きだった。大学の外を出ると本当に何もなかったので、学食が充実していて、4階建てのビルにはマックやお座敷席のある和食屋さんがあったり、テイクアウト専用のお弁当屋さんがあったりして楽しかった。通称ラバヒルと呼ばれる丘でランチしたり、ゼミの授業をしたりもした。
これは入学してから知ったのだが、私の学部は他の学部の棟と離れた独立した建物で、人数も高校くらいの規模だったこともあり、学部の団結というか内輪感が強かった。
1~15組まで学部内でクラス分けがあり、それぞれのクラスを2年生の有志の先輩が面倒を見るという独特な制度があった。先輩が自発的にオリエンを開催してくれたり、仲を深めるための催しをしてくれたりクラス対抗の球技大会なんかもあった。
男子と話すことがほとんどできなかった私は大学デビューを密かに狙っていて、最初はもちろんドキドキしたけれど、全体的に男女関係なく気さくに下の名前やニックネームで呼び合う雰囲気で、私も自然となじむことができた。「あれ、普通に喋れるじゃん」と拍子抜けした。
サークルは、学部内限定のテニスサークルに入ることにした。ホーム感があって安心できる気がしたので、軽い気持ちで同じクラスの友達たちと一緒に入った。テニスを純粋に楽しむ人や経験者でテニスがうまい人もいれば飲み会だけに降臨するメンバーもいて、合宿の飲み会ではコール大会が催される中、はじっこではお酒飲まない女子がまったりお喋りをしている、そんな(よく言えば)多様性のあるサークルだった。
私はテニス未経験だったので、中古の安いラケットを購入して、教えてもらいながらやってみた。初心者レベルなりに、合宿で毎回恒例のチーム対抗戦では接戦を繰り広げることもあって、テニスするのも楽しかった。お酒がまあまあ強かったので、宴会も全力で臨んで、飲まされるキャラとして数々のコールに立ち向かい、必至の攻防戦を繰り広げた。お酒の失敗は何度もあって黒歴史といえばそうなのだけど、あの頃は意味のない時間をバカみたいに過ごすのが楽しかった。
テニスを楽しむまじめさんグループの子たちとも、飲み会になると俄然元気になる勢の子たちとも仲良くしていたし、男女関わらず先輩には可愛がってもらったし、慕ってくれる後輩たちもいた。相談されることもあって、色紙にはお酒のことをいじられることが多い中で、「安心する」「ほんわかした雰囲気が癒し」「まじめでやさしいしっかり者」などという言葉も並んでいた。
私と一緒にいて楽しいのかな。ノリについていかないと私はみんなにとっておもしろい存在ではない。当時はそんな風に思っていて、自分が中身のない空気のような存在なんじゃないかと思っていた節もある。純粋にワイワイするのが好きで素でいた反面で、空気を読んでノリを合わせていた部分もあったのかもしれない。自分は何者なんだろうと、無意識ながら悶々としていた気がする。
それなりの顔の広さと社交性はあったけれど、ONとOFFがあったようで、ひとりきりで学部棟に向かう通学路では誰にも話しかけられたくなくて、誰かを見つけても話しかけたくなくて、スマホを見て気づかないふりをしていた。
ほとんど家にいなかった外向型時代
大学にいるか、バイトに行っているか、誰かの家で飲んでるか、旅行に行っているか。
当時の私はできるだけ予定を詰めたくて、誰かと一緒にいたいと思っていた。これは焦りや不安があったわけではなく、シンプルに楽しかったからだ。
箱根に旅行に行って、一瞬自宅に帰って荷物を整理して、すぐに茅ヶ崎の友達の家に行って朝までみんなで飲んで、始発近くで大学に行って、0限(授業が始まる前の自学習の通称。朝活的な)でゼミのメンバーと壁打ちをするという鬼のスケジュールは今でも忘れられない。(後にも先にもこんな時間の過ごし方は絶対無理w)全部参加したくて、自分の意思でそうしていた。これは余談だが、暴飲暴食もたたって、大学時代が一番太っていた。どの写真を見ても、顔がパンパンだ。
やはり大学時代も、縦横無尽に複数のコミュニティを行ったり来たりしている。飲まされてつぶれる私も私だし、PC室に篭って英語の論文を書いている私も私だった。同じ大学の中でも、複数の顔を持っていた。
勉強のこと
入学した最初の年は、”附属性枠”という劣等感が少しあった。特に学部の特性柄、英語がデキる人が多く帰国子女もまあまあいて、1年生のときは英語のクラスが下から2番目だった。今はもう廃止されたらしいが、当時はTOEICで所定の点数を取れないと進級できないというなかなかのハードルがあって、本当に英語が苦手な人は替え玉受験をして(もちろん絶対ダメ)切り抜けていた中、私はなんとか自力でクリアすることができた。
最終的にはクラスは中の上くらいまでジャンプアップして、慣れないながら英語でグループプレゼンしたのもいい経験になった。(何について話したかはまったく覚えていないけど)
授業はまじめに出席していて、単位も着実に獲得していった。前評判通り授業のラインナップは幅広かったので、もっと深く学ぼうとすればよかったと後悔している。社会学の授業が面白かった記憶と、映画「マトリックス」を哲学の文脈で見る、みたいなテーマが特に印象に残っているが、肝心の内容を覚えていないのが本当に悲しい。
ゼミは、果敢にも外国人の教授の元で活動に励んでいた。日本語も普通に話せるので授業は日本語が主だけど、テンション上がってゾーンに入ると英語になりがち。大事なところ、英語で話しがち。英語ができる生徒が多い中で私は多分あんまり理解できていなかったけど、そのときなりにがんばっていたと思う。「エンパワメントとは何か」とか、答えがないことを考えて話し合うのが楽しかった。
ゼミの合宿で、何がテーマだったのか覚えていないけれど、中学生の不登校時にお母さんがそっと部屋に置いてくれていた『ブッタとシッタカブッタ』という本を紹介した。そのとき、教授に「弱さは強さだよ」という言葉をもらって泣いたのを覚えている。その後のゼミメンバーでの飲み会でも、「そのままのゆっつう(←当時のあだ名)が大好きだよ〜」と言ってもらった気がする。
初めての彼氏に裏切られる
大学1年生か2年生のときに、念願の初彼氏ができた。サークルの同期で、相手は2浪だったから年齢は2つ上。セブンスターをがんがん吸って車を乗り回してラルクを愛してやまない、”オレ様系男子”だったw仲良く過ごす時期もあったけれど、超気分屋というかなんというか、よく分からない人だった。会おうと約束したのに何度電話しても繋がらず、家の前まで行って何時間も待った挙げ句、「会いたくない、来るな」と突き放されたりもした。(何時間も待つ私も私。)それでも好きだった。
私が彼との恋愛相談をしていた子がいた。唯一この子には全部相談できると心を許していたクラスメイトで、サークルも一緒だった。彼女はサークル内で別の同級生の子と付き合っていて、お互いに恋バナをするような、そんな関係だった。
彼にいきなり「別れよう」と言われて取り乱した私は、「嫌だ」とか「何で?先週までいつも通りだったじゃん」などと食い下がった。すると、驚愕の事実が判明する。私がいつも相談していた友達とダブル浮気をしていて(しかもけっこう長い間)その子と付き合うことになったから、と言ったのだ。今まで私の悩んでいる姿を見て優越感に浸っていたのだろうと思うと、怒りの矛先は彼女に向かった。けれど、いじめた経験もいじめられた経験ももうこれ以上いらなかったし、事を大きくしたくなかったから。何もするわけでもなく、それ以来は絶縁状態みたいな感じ。サークルの集まりの中にいても、目を合わせたり会話することはなくなった。
元彼とはしばらくして友達に戻った。今思うと本当にしょうもない人だったけれど、当時はすごく好きだったから、本当に辛かった。少しの間だったけれど、何も食べられなくなるくらい、傷ついた。
またひとつ、「自分が心を開いた相手に受け入れてもらえない」という学習を重ねてしまったエピソードだ。
バイト仲間という縁
実家住まいだったから、ありがたいことに生活費に困ることはなかったけれど、遊ぶお金が欲しいという理由と、接客が楽しかったからまたやろうかなという気持ちで、近所の居酒屋でアルバイトを始めた。学生がたむろするような大手のチェーンは避けたかったのと、朝まで働くのは嫌だったから、24時閉店で客層も社会人向けの少し大人な雰囲気のお店がちょうどあったから、思い切って面接を受けてみた。
自宅のエリアは大学がいくつかあったので一人暮らしをしている大学生も多くて、アルバイトは同世代の子ばかりで、社員さん1~2名とバイトでお店を回すような環境だった。
順番にみんなの実家に泊まりに行く旅行が定例イベントになったり、30歳を過ぎても付き合いが続くような、かけがえのない仲間を見つけることができるとは、思ってもみなかった。先輩も、あとから入ってくる後輩も、みんな「まじめないい人」だった。色々な人が入ってきたけれど、許容するというか、深入りしないけど受け入れる、みたいな雰囲気だったように思う。
バイトが終わってから誰かの家に集まって朝まで飲んだのも楽しかったし(飲み過ぎ)旅行に行ったのもいい思い出だ。
バイトも楽しかった。パズルをするように席の案内をして回すのも気持ちよかったし、「すみません」と言われる前にドリンクのおかわりを促すゲームもやりがいがあった。みんなが楽しそうに働いている姿を見るのも楽しかった。お客さんに勧められて飲んだビールがおいしすぎて、それ以来ビールが好きになった。
ホールのバイトリーダーは、自分でやりたいと手を挙げたと思う。前任の先輩の大学卒業のタイミングで、引き継がせていただくことになった。日常の人間関係では決してリーダー的なポジションになることはないのだけど、バイトリーダー然り、サークルの合宿で幹事メンバーになったとき然り、社会人になって事務社員を取りまとめる役になったとき然り、何かの目的に向かっていくとき、まとめる役割の役職になると生き生きとする気がする。(うまく立ち回れるかは別の話。)
バイト仲間の前では、酔っ払って泣いて「バイトリーダーとしてうまくできてなくて…」などと弱音を吐き出して、慰めてもらうというくだりが何度もあった。所詮バイトなのだけど、お店が好き過ぎて、私なりに責任感を持って、お店の売上を上げるにはどうしたらいいか、バイトメンバーが楽しく働くには何が必要か、などを考えていた。きっと暑苦しくて重かっただろうなと思いつつ、私にとって青春の1ページだった。
初めての大きな挫折
何が興味があるかも分からないままとりあえず大学に入ってからというもの、友達関係に恵まれたり楽しいなと思う授業はあったものの、毎日を刹那的に生きていて、「将来こんなことをやりたい」とか「こんな仕事に就きたい」とか、そういう未来像みたいなものは特に浮かばなかった。というか、そういったことを考える機会も意識もなかった。だから、いよいよ就活が始まるというとき、「自分で道を決めて自分で切り開きなさい」と突きつけられたようで、すごくたじろいだ。
どうしていいか分からなかったから、これまでのバイトの経験を踏まえて「人が好き」「接客が好き」という浅い軸で企業選びを始めることにした。会社の知名度があることやお給料が高いことや安定性といったことはあまり興味がなく、「何をするか」ばかり考えていた。
そんなときに、たまたま見たドラマでウェディングプランナーの仕事を知って、「人の幸せを形にする仕事がしたい」と、勢いのままにウェディング業界を第一志望にすることに決めて、旅行・ホテルなどのサービス業界に絞ってエントリーシートを出すことにした。
髪を黒く染めてリクルートスーツを買ってもらい、合同説明会とやらに参加もしたし、ウェディング業界への就職を目指す人向けの2day講座にも数万円払って参加した。同じような黒いスーツを身に纏う集団の中で、孤独感を感じた。
今まではなんだかんだで自分と似た雰囲気の人や居心地がいい人と一緒に過ごしていたんだなと思った。今までにあまり交わったことがない真逆のタイプの人と関わること、そしてその人たちと就職というゴールに向けて闘わなければいけないことは衝撃と自己否定の連続だった。
2day講座では、ビジュアルが華やかで存在感がある人もいれば、ほんとに学生ですか?と疑ってしまうくらい受け答えが手慣れている人もいて、とにかく圧倒された。すぐにみんなと打ち解けて、講義中にみんなの前で臆せず堂々と発言をして、講師の心を掴んで印象を残す強者もいた。こんな短時間の中で自己PRをして爪痕を残さなければいけないのかと、恐れ慄いた。私は空気に呑まれないようについていくのが精いっぱい。浮かないように、気を緩ませず笑顔をキープして、合わせようとすることしかできなかった。
自分のことがよく分からない。なんとなくウェディングに興味を持っているけど、具体的にこれという強い思いもあるわけでもない。「弊社を希望する理由は?」と聞かれても、そんなの分からなかった。
みんなみたいにならないと、と臨んだ面接は、ほとんど一次選考で落選した。みんなと同じになろうとして「私らしさ」を全く出さなかったので、箸にも棒にもかからないのは当然の結果だ。自己理解ができていなくて自分の魅せ方や苦手なことが分からなかっただけなのだけど、当時は不採用の通知が届くたびに、「私には価値がない」「私を必要としてくれるところはないんだ」とどんどん自信をなくしていった。
大学院に進む人、留学を決めた人、大手の商社やメーカーに内定をもらった人。段々と就活を終えて未来に向かっていく同級生が増えていく中で、これ以上がんばって孤独に就活を続けるメンタルは持ち合わせていなかった。結局ウェディングは全滅して他の選考もうまくいかない中で、ある飲食の会社から内定をいただくことができた。「拾ってもらったところでもういいや」そんな気持ちだった。
後輩が開いてくれたサークルの送別会では、「笑顔と幸せを届けます!」とそれっぽい言葉でカモフラージュした。「高級業態の飲食の会社で接客を学んで、それを活かしていつかウェディングの仕事をまた目指そう」とマイルストーンを置いた風を装って自分に「これでいいんだ」と言い聞かせた。劣等感だらけだった。
六本木で働き始める
六本木の個室焼肉店に配属になり、夕方出勤して終電の時間まで働いて帰る、という生活が始まった。
本当に申し訳ないけれど、正直、バイトの延長線という感覚だった。それでも、仕事が楽しいと思えることもいくつかあった。
ひとつめは、普段だったら会えない大人たちと会えることだった。製薬会社さんとお医者さまの接待、銀行のお偉いさんの集い、芸能人やスポーツ選手など、知らない世界がそこにはあった。ミーハー心でうれしい気持ちも多分にあるし、知らない世界を知れるのは楽しかった。自分も大人になった気分だった。
もうひとつは、いかにおすすめのコースやお肉を売るかということに燃えていて、得意だったこと。お肉の在庫状況などによって変わるので、1番高いコースを売ることがベストとは限らなかったのだ。担当のテーブルが決まっていて、2~3時間ほどつきっきりで接客をさせていただくので、お客様に合わせて少しずつ関係性を深めていけるのも私の性に合っていた。
場合によっては、お酒をいただけることもあった。ワインを飲ませていただき、お話させていただき、ドリンクの売上を伸ばしつつ、私もいい思いをする一石二鳥システム。(長居しすぎて片付けを他のスタッフに任せっきりになって怒られたことがある。)
ありがたいことに私のファンになってくれてたまにひとりで食べに来てくださるお客様もいらして、のちに転職が決まって最終出勤日が近づいたとき、連絡先を知っている方に連絡して「ぜひ食べにきてください」と集客もしていた。ちなみに、お店で出会ったお客さんと付き合うこともできたので、棚ぼただ。
と書き出してみると、だいぶ調子に乗った生活をしていた。
急にひとり暮らしを始めてみたりする
社会人1年目の後半から、ひとり暮らしをすることにした。当時付き合っていた彼と半同棲っぽいことがしたいと思った安易な願望が事の始まりだったと思う。”港区女子”という経験値が増えた。職場からもがんばれば徒歩で帰れる距離だったので、終電時間を気にせずクローズ作業もすることができるようになった。
思い立ったが吉日で準備をして、両親に一切相談せず物件を決めて「来月からひとり暮らしするね」と事後報告。放任主義で口出しをしないタイプだったけれど、さすがに心配したと思う。とはいえ止めることも咎めることもなく、送り出してくれた両親には感謝だ。
恋バナは友達に相談することはあったけれど、進路だったり大切な節目の選択は、昔からいつだって誰にも相談せず自分ひとりで決めてきた。
そして、ひとり暮らしを始めてさほど経たないタイミングで、やっぱりウェディングの仕事がしたいと転職することを決めた。計画性が微塵もなくて我ながら驚く。でも、フリーランスになると決めたときも計画はなかったから、これと決めたらやってみる精神は宿っているのかもしれない。
転職の動機のひとつは、会社に対する違和感というか嫌悪感を無視できなかったことだ。
社長と副社長が大阪出身の調子がいいおじちゃんで、新卒採用を始めたのも2年目。良くも悪くも、若くてノリを大事にする、会社っぽくない会社だった。会社説明会はお笑いライブのような雰囲気だった。(そういえば)当時は大手の堅い雰囲気は全く魅力に感じなかったので、自由で楽しそうな社風はとても印象に残った。
でもいざ入社してみると、確かに型にハマっていない勢いの良さは好感触だったものの、社員やバイトをイジる絡み方や下ネタ言ってなんぼ、的なノリがそこにはあって。デリカシーがないなと感じた。性に合わない人間関係のつくり方に迎合するほど、私はこの場所でこの仕事を続けたいと思えなかった。
接客の経験は楽しかったし学ばせていただくこともあったけれど、その違和感に気づいたら見過ごすことはできなくなって、やっぱりウェディングの仕事をしたいという気持ちもあって、転職を目指すことにした。
本来であれば就業時間なのに、有休や欠勤扱いにせず、面接を受けに行かせてくれた上司や店長には感謝している。就活時代とは違ってとんとん拍子にことが進んで、1ヶ月もしないうちに内定をいただくことができた。社会人2年目の夏、1度目の転職を果たす。
憧れの仕事のやりがいと弊害
結婚式をプロデュースするウェディングプランナーにはなれなかったけれど、ゼクシイを一緒に見ながら新郎新婦さまの理想の結婚式場をご紹介する営業の仕事に就くことができた。
お客様からはお金をいただかず、契約している結婚式場から成約手数料が入ってくる代理店業だ。
契約社員でお給料もすごく安くて、目標達成しても月給にプラス5000円上乗せされるくらいだったと思う。雇用条件としては、決して良くはなかった。けれど、転職を機に「家に帰ってきたら?」とお母さんに言われて、当時の彼氏とも別れていたし、都心にひとりでいる理由もなくなったので実家暮らしに舞い戻っていたから、お金の心配はなかったのと、何より憧れの業界で仕事ができることが嬉しかったので、当時は懸念点でも何でもなかった。一緒に働く職場の先輩方も同期も、お客様の役に立ちたいという奉仕の精神に満ち溢れている人が多かった。
約1ヶ月の研修を終えて、いよいよ店舗配属。私は大型店舗のひとつである銀座店に所属することになった。首からかける社員証やPC作業が嬉しくて、やっと社会人になった気がして、うきうきした。
来店したお客様に書いていただいたヒアリングシートを元に約2時間の接客。式場をご提案して、見学予約までを終えてお見送りするのが基本の流れだ。その後のフォローアップは基本的に電話。場合によっては電話口で追加の式場をご紹介する。それと並行しながら、式場側にお客様情報をFAXで送ったり、電話で連絡を取る。と並行しながら、鳴り続ける電話を取ってお客様対応をする。電話対応履歴はすべてシステムに打ち込む。…と、対面接客と事務と電話受け全部が業務範囲だった。
特に週末は1日4~5件接客が入ることもあったので、事務作業はお店がクローズする終業時間の20時からスタート。基本的に仕事の日は、仕事帰りに友達と飲みに行ったり買い物に行くことができなかった。
ハッピーフェスティバルという"すごい"ネーミングの繁忙期が1月だった。クリスマスにプロポーズをしたり、お正月に両家に挨拶に行ったりして、1月から式場探しをする人がとても多いからだ。残業時間は100時間くらいあったかもしれない。
仕事はとてもやりがいを感じた。1組ずつ個別に対応するのは飲食店時代からも好きだったし、理想の結婚式を一緒に言語化してイメージを膨らませていくのも楽しかった。私自身が結婚式を挙げることに憧れがあったこともあり、たまに研修としてあった式場見学に行くのもおもしろかった。
結婚に付随するお金の話や家族関係のことなど、お悩みを打ち明けていただいたときには、時間を気にせず辛抱強く電話口でお話を伺った。「いつまでも話を聞いていないで片付けていかないと仕事終わらないよ」とテキパキ仕事をこなす先輩に心配されたこともあったけど、私はこうすることがお客様のためになり、最終的に結果もついてくると思っていたから、やめようとしなかった。(必要とされていると承認欲求を満たしていた部分もあったにせよ)
当時の直属の上司でチームリーダーだったのが39歳の女性で、私はすごく彼女が好きだった。自然体でメンバーに接しつつ場を和ませながら、結果も出して。自分が大変だということを感じさせないように方々に配慮していた。私のことも気にかけてくれて、本当に頭が上がらない。毎日仕事は大変だったけれど、彼女の下でがんばりたいという気持ちがあったから、耐えてこれたといっても過言ではなかった。だから、新事業の立ち上げで異動になることが決まったとき、ものすごくショックだった。
どんな仕事でも大変な部分はあると思う。その中で、私は「人に相談する」「愚痴を言ってデトックスする」ということがほとんどできなかった。悩みがあってもひとりで解決しようとする質で、どんどん抱え込んでいってしまった。同期にも先輩にも、学生時代の友達にも当時の彼氏にも、弱音を吐くことをしなかった。これまでも自分で決めてきたから自分で考えようという気持ちと、相談や愚痴を言ったら相手に迷惑がかかるのではないか、嫌な気分にさせてしまうのではないか、という不安と、両方あった。「頼ると裏切られる」という呪いが強かったのかもしれない。
上司の異動とちりつもで溜まっていた心身の疲れ、それに追い討ちをかけるような、突然の彼からの別れ話。(地方に転勤になって…と私でも分かる下手な嘘をつかれた。どうせならちゃんと振ってほしかった。)
午前中に研修を控えていたある日の朝、ベッドから起き上がれなくなった。なんとか「今日休みます」と連絡したあと、どうやってその日を過ごしたのか、まったく思い出せない。心の中で糸がぷつっと切れる音がした。
暗黒期
不登校になった時と同じように、このあたりの記憶はかなりおぼろげだ。心療内科に行ったら「適応障害」と診断されて、親や会社に報告をした。憧れてやっと入れた業界の仕事を、1年経たずに休職することになった。
適応障害とは簡単に言うと「原因が特定されているうつ病」。原因は”今の仕事”だったので、仕事をしていないときは普通に元気。同期とランチに行ったり、今このタイミングで?というときに財布を新調したりした。私自身が私のことを「ただのわがままじゃないか」と思っていたし、周りの人がそう思っていても仕方がなかった。
しばらく休んだあとに出勤を試みたことがあったが、お客様の前に立つことができず、みんなが忙しなく働くのを背中で感じながら早退した。「もうだめだ」と思いつつも、何をどうしたらいいか分からない。最終的には会社側に結論を急かされる形になり、そのまま退職することになった。
病気を患ったこと、退職したこと、今もメンタルが不安定なこと。そんなこと、周りの誰にも言えなかった。親も近所の人に変に思われたくなかったのだろう。「今日は仕事が休みで〜」などと言っていた気がする。(私がつくりあげた思い込みの可能性もあるので、事実かは定かではない。)
私の気持ちはどん底だった。自己肯定感なんて言葉、当時の私の世界には存在しなかった。「やりたい仕事ですら続けられない自分は、なんてダメな人間なんだろう」とひどく落ち込んだ。自分のことが嫌いになったし、働くことに夢も希望も持てなくなった。就活では挫折を味わったけれど、でもそれ以外は概ね順調に進んできて、自分で自分の道を決めてきた自負があったからこそ、その反動は計り知れなかった。
休職するかしないかのタイミングのときに、「失恋を乗り越えるには次の恋愛!」と臨んだ合コンで出会った人とのちに結婚することになるのだが、病んでいたにも関わらず(彼には少しずつ仕事のことを打ち明けていた)一緒にいたいと思ってもらえて、感謝している。数々のネガティブなセリフや行動も、否定や拒否をせず、受け止めてくれた。
ちなみに、休職期間や退職後の療養期間に私の心の支えになっていたのが、嵐だ。元々存在は知っていたけれど、たまたまYouTubeでデビュー初期の深夜番組がアップロードされているのを見て、「なんてくだらなくておもしろいんだ」「こんな大変なロケもあったんだな〜」と見事に沼にハマった。バラエティやドラマなどをむさぼるように見続けて以来、ずっと嵐のファンだ。
消去法の選択
私はもう働く気になれなかった。このまま結婚して専業主婦になってなんとなく生きていきたかった。でも、女性も働くし男性も家事をすればいいという価値観を持っていた彼にきっぱりとNOを突きつけられ、「働けるうちに働いた方がいい」「働いている方が親の心象もいいし」と正論を突きつけられた。重い腰を上げて、約5ヶ月ほどの「家事手伝い」期を経て、2度目の転職活動を始めることにした。
仕事内容とかやりがいとか、どうでもよかった。通いやすくて責任があまりないポジションで定時で帰れる仕事がいいと、ただそれだけの理由で未経験の事務職の募集にどんどん応募していった。転職エージェントを利用して面談したときに短い間2社経験している理由を聞かれ、傷をえぐられるような気分だった。接客はしてきたけれど、対外的に言えるような成果や実績もなければ、資格も専門的なスキルもないと感じていたので、私に何の価値があるのだろうと、不安しかなかった。
案の定転職活動は難航した。面接を終えて電車に乗り込み自宅に帰る夕暮れどき。同じ電車に乗っているサラリーマンやOL風の人を見て、「社会に居場所があっていいな」と思って泣きそうになった。私は何者にもなれていない、と苦しかった。
それでもなんとか3~4ヶ月ほど転職活動をがんばって、内定をいただくことができた。お客様に合う保険商品をご提案する総合保険代理店で、営業さんのサポートや事務対応をする仕事に就いた。ウェディングの時と同じ、代理店だ。自社の商品を売ることしかできないメーカーではなく、色々ある中から選んでご提案するビジネスモデルが、私は好きだった。
配属された立川の店舗は老舗店舗で、厄介な案件があったり書類が整理されていなかったりもしたけれど、店舗の人もみんないい人で、あたたかく迎えてくれた。基本的に18時の定時で帰れることが嬉しすぎて、「お店まだ開いてる!」と感動した。
やっと慣れたなと思ったら、人が足りないからといきなり本社の広告宣伝部にヘルプに行くことになり、書類の整理やデータ入力などの雑用をさせられる羽目になり、勤務地は青山へ。私と同じように店舗から異動させられた子とふたりで肩身の狭い思いをしながら、アウェイな環境の中で単純作業をする日々が続いた。
そしてまもなく、東日本大震災が起こった。ぐわんぐわんと本社のビルが揺れて、壁にはヒビが入っていた。現場の指揮なんてものはなく、みんな散り散りになった。とにかくみんなについていってビルを飛び出て、ひとりで歩いて自宅に向かった。家に着いたのは夜中を過ぎていた。お母さんが寝ずに帰りを待ってくれていて、家の明かりが見えた瞬間、どれだけ安堵したことか。
そんなこんなでイレギュラーなことが重なったけれど、落ち着いてしばらくして店舗に戻れることになった。そこからは、店舗の事務の仕事を少しずつ習得していった。
人に恵まれ意欲を取り戻す
店舗間の異動はたびたび起こる。私もしばらくして、店舗の異動が命じられた。当時の上長とはソリが合わなかったのだけど、異動理由も納得できなかった。「先輩に頼ってばかりだろうからそろそろ独り立ちした方がいい」と言われたのだ。
老舗店舗や大型店舗は事務スタッフが複数名配属されることがあって、私も確かに事務の先輩の元ふたり体制で仕事をしていた。ただ、自分で努力していた自負はあったし、効率化や整理整頓の提案と実務も自主的にやっていた。(責任を負わず適当に仕事していたいと言っていながら、いざ仕事を始めるとがんばっていた。まじめながんばりやさんが頭角を表している。)店舗のみなさんには可愛がってもらって感謝もしてもらっていたからだ。
でも、結果的には次の配属先の店舗で働いたときが1番楽しかったので、上長には感謝しなければいけない。会社初の旗艦店として、新宿に大型店舗ができる。その初期メンバーにアサインされた。
これは後の自己分析から分かったのだが、私は初期メンバーや1期生というポジションが好きだ。ふわっとしているところから作り上げていく、立ち上げ期から自分が携わるのが楽しいらしい。すでにできている輪の中に入っていくのは苦手だけど、みんながよーいスタートで構築していくのは好ましかった。
4階建てで全てのフロアが店舗。最終的には通常店舗の5店舗分の人員で回すことになる。会社で初の試みなので、オペレーションも今までのものが通用しない。「あの営業さん今どこー?」と内線で探したり、お店の中を探し回ることも少なかった。
苦労はたくさんあったけれど、みんなで作り上げていく過程で絆も深まって、すごく楽しかった。仲が良くてお酒が好きな人も多かったので、店舗飲みがある日はうきうきしたし、少人数でも営業さんによく飲みに連れて行ってもらった。とにかく、人に恵まれたのが本当に大きかった。
事務職は立場上細かい指示や確認を営業さんにする必要があったりするから、場合によっては煙たがられたり、立場が下に見られることがある。でも、この店舗に集まる営業さん(特に課長レベルの人)は事務の私たちのこともケアしてくれて、感謝の言葉を伝えてくれた。
東日本エリアの統括をしながら一時期支店長も兼務をしていたお偉いポジションの人とも、一緒に仕事させていただいたのもいい経験だった。飲みの席では仕事の話をしながら一緒に酔っ払い、結婚式では乾杯の挨拶を引き受けてくださり、私が会社を退職する時は、花とメッセージカードを送ってくれた。
仕事でこんなにやりがいを感じられることがまた訪れるなんて思ってもみなかった。一方で、立ち上げ初期の頃は慣れないことばかりで心労もあり営業さん同士の人間関係のいざこざの板挟みになったりもして、自分で思っている以上にストレスを感じていたらしく、円形脱毛症も経験した。わりとすぐに治った気がするけど、あのときはびっくりした。
しばらくして事務の社員も6名になり、私が彼女たちをまとめるリーダー的なポジションを担うことになった。社内的に役職があるわけではないのでお給料にも反映しないのだが、居酒屋バイト時代のバイトリーダーのときと同じように、やる気は右肩上がりに。
ただ、私が未熟なばかりに、管理することでまとめようとばかりして、窮屈な思いややりづらさを感じさせてしまっていたと思う。そんな中でも一緒に働けたことに感謝している。
そこから2年ほどが過ぎた頃、何の前触れもなく異動を命じられた。私は今の店舗が好き過ぎて、本当に嫌だった。異動の理由が前回と同じような納得できないもので「今まではみんなでやってきたと思うけど、独りでお店を回せるようになった方がいい」というものだった。現場ではみなさんによくしてもらって評価もしていただいていたけど、本社の上長にはなぜか評価されなかった。
異動前の最終出社日が、たまたま年末最後の営業日。全員出社の日だったので、みなさんに挨拶できて送り出せてもらえたのが幸せだった。
いかにサボるかを考えていた事務OL時代終盤
最後になる配属先は吉祥寺の小さな店舗だった。社歴も4年を超えてある程度のことが分かってきていたし、大型店舗に比べたら仕事がラクすぎた。調子がいいと午前中に仕事が終わってしまうくらいだったので、時間を持て余していた。やるべきことはやっていたけれど、以前のような熱量もなく(今回は立ち上げじゃないし、燃え尽き症候群になっていたのかも)惰性で働いていた。
年齢もアラサーになり、なんとなく漠然と30代以降の人生を考えるようになった。同じ職種の同世代や先輩方で楽しそうに働いている人がいなかったからだ。現場の事務職からのキャリアアップの道すじが当時はなかった。産休や育休制度は整っていたけれど、仕事に復帰してきた人たちも、なんだか幸せそうじゃなかった。一瞬営業職への転換も考えて、仲がよかった営業さんに軽く相談してみたこともあったけれど、決断するには至らなかった。
慣れて飽きてきてこれという目標もなくなったので、人員が足りてそうだなと思ったら半休を取って帰ったり、お昼休みを2時間取らせてもらって休んだりしていたw
そうしているうちに、有り余っているエネルギーを何かに注ぎたい、何か熱中できるものがほしいと思うようになり、資格を取ってみたり、料理教室に行ってみたりした。でもこれというものが見つからなくてどうしようかなと思っていた時に、「副業やってみたら?」と勧められたのが、大きな転機になった。当時の夫は昔から独立願望があって、株や副業など色々なことに挑戦していた。私はまったく興味がなかったけれど、試しにやってみようかなくらいの軽いノリで始めてみたのが最初だ。
海外のオンラインサイトからアパレル品を輸入してネットで販売する仕事。とりあえず独学で見様見真似でなんとなくやってみたらうまくいかず、1ヶ月ほどですぐに匙を投げた。成果が出ないのにプライベートの時間を割いてがんばることに嫌気がさして、今のままでいいやと、テレビをダラダラ見てツムツムをやり続ける生活に戻ってしまった。
それでも、その後もなんとなくその仕事が気になっていた。中途半端に投げ出したのもふがいないというか、なんか嫌だなと思った。
会社では、がんばりが評価されない、営業さんのミスが自分のミスになる、減点評価に対する悶々とした気持ちも高まっていって、「がんばりがダイレクトに評価されるような仕事がしたい」と思うようにもなっていた。こんな感じで、不満や怒りの感情が、活力になってくれた。
笑顔で対応しなければいけない、お客様と対峙することにも疲れてしまい、ひとりっきりで自分のペースでできる仕事ができたらいいなと変化をイメージするようにもなってきた。「このままの状況じゃ嫌だ」「変わりたい」と思い、もう一度同じ副業にチャレンジすることを決めた。
半年の短期集中でフリーランスになる
そこからOLを辞めるまでは、7ヶ月ほどだったと思う。
同じ失敗はしまいと、誰かに副業を習いたくて、誰が良さそうか、情報発信をしている人のメルマガをいくつか読んだり、セミナーに足を運んでみた。そして、同い年で子育てしながら自己実現を叶えている女性と出会い、半年間の講座に通うことにした。学びに大きな投資をするのがこの時が始めて。25万円ほどを振り込む手は少し震えたけれど、覚悟が決まった瞬間でもあった。絶対に投資した分を早く回収してみせる、と誓った。
やると決めたらやり切る。習ったことを素直に実践して少しずつ利益を出すことができるようになってきて、いよいよフリーランスという働き方が妄想から目標に変わっていった。本当はすぐにでも辞めたかったけどさすがにそれは止められて、「3ヶ月連続でOLのお給料を副業で稼げたら会社を辞めます」と宣言して、本当にやってのけた。
日報を欠かさず提出する。分からないことはすぐに聞く。先生の発信やアドバイスにはすぐにリアクションする。この環境を使い倒していった。最終的に、その講座でトップ2の実績を出すことができた。当時、ボランティアだったけれど講座のサポートを少しだけ任されて、あとから入ってきたメンバーさんへのフォローや質問返しをさせていただいた。後に講師業をするときにも役立つありがたい経験だった。「相談するならゆかりさんがいいと思って」「ゆかりさんには相談しやすい」と言ってもらったことを、今書きながら思い出した。
先生の知り合いでフリーランスや会社経営をしている人とも関わる機会が少しずつ増えていった。このおかげで、コンフォートゾーンがずれたことも追い風になった。「今のままじゃいやだ。違和感しかない。私もこっちの世界で生きたい。」と思った。
ちなみに、学生時代からの友達に副業を始めたことを言ってみたら「怪しい」「大丈夫?」などと言われてちょっとバカにするような態度をされたので、それ以来副業のことは周りに言わないと心に決めた。
物販なので目に見えて分かりやすいこともプラスに働いたと思う。両親ともに反対することはなく、むしろ応援してくれた。「手伝うよ〜」と言ってくれて、一時期は商品の発送作業をお母さんに外注していたw物が売れていくのを一緒に見てくれていたので、安心感もあったのだと思う。
満を持して退職することを上司に伝え、店舗のみなさんにも伝えた。ありがたいことに寂しがってくれたし応援してくれた。
退職祝いの飲み会をサプライズでセッティングしてくれて、同じ吉祥寺エリアの人たちはもちろん、歴代の店舗の人たちも忙しい中集まってくれた。これは本当にうれしかった。採用の面接をしてくれたエリア長もまさかの参加。直接現場で仕事を一緒にすることはなかったけれど、なぜだか私のことをずっと覚えてくれていた。私が転職活動で苦戦していたときに手を差し伸べてくれた恩人だ。後日談で、周りの人は採用を渋っていたけど、エリア長が推してくれたおかげで採用が決まったらしい。
かなり手が込んだアルバムもいただいて、今も大切に実家の棚に置いてある。今回の自分史を書くにあたって久しぶりに読んでみたら、たくさんの人に良くしてもらって信頼してもらって、支えてもらっていたんだと、あたたかい気持ちになった。
講師業への挑戦
意気揚々と勢いのままにフリーランスに転身した私は、見事にまた燃え尽き症候群になるw
平日の昼間から遊べてサイコー!と副業仲間とつるんで、最初はその自由を堪能した。が、フリーランスになってからのプランをまったく考えていなかった。副業で結果が出たからなんとかなるだろうと楽観的だった。
いざフリーランスになってしばらくすると、物販に飽きて他のことをしたくなった。感情的に飽きたというのもあるし、なんとなく頭打ちな感覚があって、がっつり組織化してまで極めようとは思えなかった。物販とまったく違うスタイルで、人と接する仕事がしたいと思い、知人に紹介してもらった女性起業家のFacebookをフォローしたところ、ちょうどいいタイミングで見つけた半日のグループ講座を受けてみることにした。
具体的にやりたいこともなく、私に何ができるかも見当がつかなかったけれど、講座で「月5万円でも家で稼ぎたいと思っている人はたくさんいるから、物販を教える講師の仕事をしたら?」とアドバイスをいただき驚いた。もっと成果を出している人はたくさんいるからと、教える仕事をするなんて考えもしていなかったからだ。でも、「確かに初心者と同じ目線に立って私だからできることがあるかもしれない」と素直に受け取った。
私はここで大きな過ちを犯してしまう。なぜだか、講師業を始めることを物販仲間や先生に報告して承諾をもらおうとしたのだ。先生のセミナーのサポートメンバーとして登壇したあとの打ち上げの飲み会で、報告をした。今までみんな応援してくれたから、今回も励まして応援してくれるだろうと思っていたら実際の反応は裏腹で、「もっと稼いでからがいい」と一刀両断されてしまった。悲しくてその場で思わず泣いてしまい、自己効力感は溶けてなくなってしまった。
みんなに認められたいと思ったのだろうか。なぜ承諾をもらおうとしたのか今となっては謎案件だが、夢や目標は言えばいいというものではないということを学んだ。(そして、周りから何と言われようとやる、と覚悟を決める自分でありたいと思うようになった。)
そんなことがあり一度はぽきっと気持ちが折れてしまったけれど、最終的には自分の気持ちを大切にしよう、自分で決めようと思い、先日アドバイスをくださった女性起業家が開講する起業塾の説明会に参加して、その場で受講を決めた。
ここから初めて、SNSを使って自己集客をして、自分のサービスを提供するというビジネスモデルに挑戦することになる。在宅で副業で月5~10万円ほどを稼ぎたい女性を対象にした、物販ビジネスのグループ講座を主宰することにした。
元々物販で仕入れが発生する仕事から入ったので、無料で使えて失敗しても何度でもやり直せるSNSってめちゃくちゃいい!という認識だった。使わない理由はないと、最初から教えられた通りに積極的に活用していった。
当時は「facebookで1日5投稿する」というノウハウが流行っていた頃で、今に比べるとSNSを使って個人事業をする人は少なかったので、正しい方法でコツコツ続けていれば目立って成果は出る状況だった。マーケティングの基礎の基礎をここで学ぶことができたし、facebookとアメブロを書く習慣をつけたことで、発信の筋力もつけられた。
起業塾で過ごした時間と経験は、間違いなく今の私を築く礎になっている。起業塾でも同様に、貪欲にインプットをしてコツコツ発信やメニュー作りをして、中の上くらいの実績を出すことができた。月収は、前職の何倍にもなった。けれど、やればできる、という自信がついた一方で、周りの人みたいになれない自分に焦りも感じていた。
内向型という言葉との出会い
軽快なアドリブトークでその場にいる人を魅了する話術を持っている人、交流の場でどんどんアピールして人脈を作っていく人…私の目に映るのは、自分が苦手とすることを軽々とやってのけて活躍する人たちだった。掲げた目標を達成して望む働き方を叶えたことで自信をつけていたけれど、新しく飛び込んだ先には、私と真逆のタイプの人たちがたくさんいて、その人たちと自分を比べるたびに、どんどん自信をなくしていった。SNSは特にうまくいっている状況ばかり見えるし、強い語気や派手さだったりが着目されがち。「私もそうならなきゃいけないのかな」「自分の苦手を克服しないと結果を出し続けられないのかな」と不安になった。
そんなとき、藁にもすがる思いで「自信が欲しい」か何かのキーワードで検索してたまたま読んだブログに、『内向型を強みにする』という本が紹介されていた。内向型という言葉を初めて知った。その特徴を読み上げると、私の性格が透けて見えているのかと思うくらい共感の嵐で、「私は内向型なんだ」と認識してほっとした。
人と会うとどっと疲れてしまったり、定期的にひとりで引きこもりたくなるのは、何か私が変なのかなと本気で心配になったときもあったから、それは異常ではなく気質なのだと、知識として知れたことが私にとってものすごく大きなことだった。
ちなみに、内向型という言葉に出会わせてくれたブログの著者と7年後にYouTubeで対談することになるとは、妄想すらしていなかった。直接お礼をお伝えできて本当によかった。
それでもしばらくは「結局外向型にならないといけないんじゃないか」と葛藤が続き自分にないものばかり目が向く癖から抜け出せずにいたが、どうあがいても同じようなことで悩み続けていて、切っても切り離せないキャラクターなのだから、もう自分から引き離そうとするのを諦めようと、やっっと思えるようになった。「内向型を直さず活かす」という意識についに変わった。
そして、内向型の自分を理解して受け入れるということを、自分ひとりの中だけで終わらせるのではなく、同じように悩んでいる人にも届けたい、同じように悩んでいる人の役に立ちたいと思い、内向型を仕事にしたいと思うようになった。最初は自分のメモ代わりに、学んだことや気づいたことをX(当時はTwitter)につぶやいていたら、共感のいいねやコメントが徐々に増えていったことがきっかけだ。
その数ヶ月後の2018年秋から、インスタの発信やマーケティング、商品設計などを学ばせていただきながら、内向型コンサルタントという肩書きで活動を始めることになる。
ちなみに、自然がある場所に住みたいと、福岡に移住を決めたのも偶然同じ時期だった。
インスタの発信を始めて約半年でフォロワー1万人を達成し、内向型向けのコミュニティ運営や講座の主宰などで売上も立てることができ、内向型に関する本の出版もすることができた。
その後、「ある程度やり切った感」を勝手に感じて燃え尽き症候群になり、何を伝え何がしたいのか、何をすべきなのかが分からなくなり、内向型コンサルタントとしての活動をお休みしていたこともあった。そんな時期も経て、2023年にフィンランドに渡航するプログラムに参加したことを機に、「内向型カウンセラー」として活動を再開することを決めた。
組織で働きたくなかった私がチームで働くようになる
ビジネス全般を教えてもらっていた人が主宰するビジネスコミュニティのお手伝いをさせてもらうようになったり、さらには一緒に手帳をつくるプロジェクトを始めることになったり。
フリーランスの仕事は基本的にひとりで仕事をしてきたけれど、2020年頃から少しずつチームで仕事をする割合も増えてきて、「チームを支える側」ポジションの経験も徐々に増えていった。
特に、手帳をつくるプロジェクトは私にとって、大きな大きな転機だった。「オリジナルの手帳をつくるのが夢だったからやりたいです〜」とすごく気軽な気持ちでお誘いを快諾して始まって、なんとなく自分たちや手の届く周りの人たちのためにつくれたらいいな、くらいの志だった。
でもそこから、発起人の彼が、「認知科学をもとにしたコーチングの可能性を体感して、コーチングのメソッドをプロダクトに落とし込んだら、たくさんの人のサポートができるのではないか」と着想が働き、手帳の方向性が決まった瞬間から、大きく動き出した。
制作秘話インタビュー記事
https://purelifediary.com/notebook-diary/purelifediary-production-interview/
今思えば、手帳プロジェクトもまさにそうなのだが、やったことのないことにまっさらな状態から挑戦するのが好きだと気づいた。無形の商品ばかり扱ってきたところから、有形の商品をつくるのは初体験。「手帳ってどこでつくれるの?」「16の倍数のページ数じゃないといけないんだ」など分からないことばかりだったけど、調べて動いて時には失敗しながら、ひとつひとつ完成に向けて進めることに携われるのはおもしろい。
手帳の名前は「pure life diary」。「純度が上がる」というキーワードが最初に出てきて、透明感や光が差し込む水のようなイメージが想起されて、「pure life」と名付けた。
「名前が長い」「英語は覚えてもらいにくい」などマーケティング的にいまいちだとアドバイスいただいたことは1度だけではない。実際に、ユーザーさんに公募もして名前を変えようと検討したこともある。だけど、結局変えなかった。何が正解かは分からないけど、私は変えなくてよかったと思っている。愛着がある、大好きな名前だ。
半年分の試作品を制作し、200冊限定で販売したところ完売。使い心地や要望をヒアリングして、約1ヶ月で2022年版を制作して1000冊用意した。
在庫を抱えるビジネスは初めてだったので発注数を決めるときは本当にドキドキしたものの、インスタを中心にSNSを育てていたことが功を奏し、ありがたいことに1000冊も即完売した。
一方、リピーター率が芳しくないことを課題に感じていた私たちは、手帳を使ってくれた方へのヒアリングを再度徹底して、何が必要なのか整理をしていった。
すると、元々はセルフコーチング手帳という位置づけで制作していたものの、エネルギッシュにどんどんチャレンジしたい人よりも、完璧主義だったり「べきねば」思考が強い人に好評いただいていて、自分のペースで少しずつ自分を理解し変化できた方が多かったことに気づいた。「自分にやさしくなれる」「やさしい手帳ですね」と言っていただくことも多かった。
そこで、思い切って方向転換。私たちが守りたい人たちを「まじめながんばりやさん」と決めて、ユーザーさんが伝えてくれた言葉をいただいて、「自分にやさしくなれる手帳」というコンセプトに変えた。
2023年版からは全国の書店や文具店でもお取り扱いいただくことになり、雑誌などメディアにも取り上げていただく機会も掴み取りながら、1万人以上の方にお届けしている。毎回「これが最高の出来だ!」と思って制作しているが、使ってくださるみなさんの感想と要望を聞かせていただきながら、毎年40個以上の改良を重ねている。デザイン・コンテンツ・言葉選び・紙選びなど、とても奥深い。よりよいものをつくるために改善する過程は苦しくて楽しくて、やりがいがある。
私は、毎年の手帳の制作全般・ユーザーさま向けのサポートイベントの企画主催・取材対応などを主に担当している。毎年の、失敗できない・納期厳守のプレッシャーの中でプロジェクトのマネジメントをしつつコンテンツを練り制作を進める半年間にはまだまだ慣れそうにないが、「なんとかする力」は実践のおかげで磨かれてきていると思う。
これからやると決めたこと
「TO DOリストをこなす日々からTO BEで自分を満たす1年へ。」
目の前のやるべきことや周りからの期待、SNSやネットの情報に振り回されることなく、自分が本当に大切にしたいこと・自分にとって本当にいい時間の使い方を棚卸しながら、自分のきもちと向き合い、ありたい自分(TO BE)で生きていく。
スパルタコーチで自分に厳しく管理するのではなく、きもちを大切にしながらありたい自分を叶えていく伴走をするこの手帳のメソッドと世界観を、教育現場に持っていきたい。
「全国の小学生にpure life diaryメソッドを届けて、TO BE思考を当たり前に子どもたちが体験・体現する日本にする」と2024年10月に決めた。
でもそのためには、子どもたちだけでなく、子どもたちに大きな影響を与える先生や親への働きかけも避けて通ることはできないと、調べたり話を聞くほどに痛感している。
それに、国の教育制度に言及することでもあり、文字通り課題は山積み。具体的にどうしたらいいのか、プロセスはまったく見えていない。そもそも前提知識が足りなさすぎて、無知な自分が本当に嫌になる。
だけど、だからこそ、挑みたいし、これが叶ったら最高!と思える。
進んでいくうちに表現の仕方はおそらく変わるし、掲げたゴール自体も形を変えていくかもしれない。それでいいから、歩みを止めることだけはしたくない。
おまけ)大嫌いだった海に入れるようになる
話は飛ぶが、私の人生史上快挙と言ってもいいと思えることを、最後に書きたいと思う。
泳げない・波酔いする・寒がりの3重苦を乗り越え、苦節1年、ついにスキンダイビング(タンクをつけないで一息で潜る素潜り)ができるようになった。
周りがダイビングを始めた当初は、絶対にやるものかと思っていて、宮古島に一緒に行ってもひとりお留守番を決め込んでいたのだが、パートナーの根気強い教育のおかげもあり、みんなが清々しい顔で海から戻ってくるのがうらやましくて、楽しそうにしている輪の中に入って私も体感してみたいという思いが湧いてきて、亀の歩みで少しずつトライしていった。
ウェットスーツを着ていても浮き輪から手を離せなかったところから、ウェットスーツの浮力に信頼を寄せられるように。頭を全部海の中に浸かることすらできなくて、逆さまになることもずっとずっと怖くてできなかったけれど、今は5〜6mぐらい下に潜れるようになった。
陽の光がキラキラと光って、色とりどりのサンゴや魚が泳ぐ海の世界がきれいで、見ていて楽しい。
まだまだ緊張してしまうけれど、スマホもPCも置き去りにして海に入って自然の一部にいさせてもらう時間は、色々なものを流してくれて、心地よい疲労感を与えてくれる。
「海は眺めるものだよね」と言っていた私が、「海に入りたい」と思うようになった。何なら、ちょっとした趣味と言ってもいいかなとすら思ってる。
新しい世界は、不安や恐怖の先にあるのだと教えてくれた。
おわりに
就職してからの二転三転もそうだけど、特に30代後半は、今までにない変化や想像もしていなかった未来が現実になっているように思う。
・ひとりで働きたいと思ってフリーランスになったけれど、チームで仕事をしていて、たくさんの人の協力やサポートの元活動している。
・「オリジナルの手帳をつくりたい」とやりたいことリストに書いていたら、本当に手帳を開発することになって、1万人以上の人にお届けしている。
・福岡見糸島を拠点にしながら、国内外を行き来する生活をしている。
・本を3冊出版させていただいている。
昔の自分が聞いても絶対に信じてくれないことばかりだ。
不器用で、社交的だけど人見知りで、頑固。
紆余曲折な人生で、自分が嫌いになることも、人を信じられなくなったこともあるけれど、私はいつだってひとりじゃなかった。誰かの支えや応援のおかげで、願ったもっと先のことがこんなにも叶っている。
私はこれからも、迷いながら、悩みながら、進んでいくのだと思う。
葛藤も陰の部分も含めて、私。
等身大の自分を表現することが、灯火になることを信じて。
これからも、人生を味わっていきたい。
読書と手帳が好きなので、本や文具の購入に使わせていただきます♡