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サービス記事☆令和版 誕生日別 和のお守り文様 7月31日<花火>

令和版 誕生日別 和のお守り文様 
 
令和の日本では西洋の文化が定着し、日本人特有の寛容さから異文化の祝い事なども生活の一部となり、それが当たり前のこととなっております。
それゆえに我が国特有の文化や文様が思い返されることが少なくなりました。
しかしちょっと考えてみてください。
さまざまにアレンジされながらも、その文化は脈々と受け継がれているのです。
たとえば昔からあった「瓜文様」。瓜科の植物は蔓草が繁茂する様子から繁栄の象徴とされ、手回りの道具や絵にあしらわれてきたのです。
現代では半分にカットされたスイカがデザインされた図案があるとしたら、これが昔通りの「瓜文様」ということになります。
文様にはそれぞれの意味があります。
366日のそれぞれにふさわしい文様を数秘術などから割出し、解説を加えたのが本書です。
季節にそぐって文様化された動植物、有職文様、渡来文様など、令和の時代だからこその文様も含まれております。
一年を豊かでラッキーに過ごすエッセンスとしてご活用ください。
 
暦について・・・
我が国は長い間太陰暦(旧暦)に従っていました。
太陽暦を取り入れると発表されたのは1872年明治5年11月9日。
実際に施行されたのは、旧暦明治5年12月3日を明治6年1月1日として開始されました。
太陽暦が当たり前の令和の我々には、旧暦はもはや遠い存在ですが、一月ほども違うと季節もずれてくるというもの。
行事や季節感に違和感を持つ方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 
 旧暦の季節区分
春 1月~3月
夏 4月~6月
秋 7月~9月
冬 10月~12月
 
新暦の季節区分
春 2月~4月(5/4までが春)
夏 5月~7月(8/6までが夏)
秋 8月~10月(11/6までが秋)
冬 11月~1月(2/3までが冬)
 
本記事は新暦に則り、改めて令和版の『誕生日別 和のお守り文様』として発表させていただきます。
 
青木 紫

<7月31日生まれのあなたの文様>
 花火(はなび)

花火

花火の原型は「狼煙(のろし)」といわれております。
歴史は古く古代インドやギリシア、ローマには存在し、紀元前には戦場にて情報の伝達手段として利用されておりました。
当時はまだ火薬がありませんでしたので、火を焚いて煙をあげるという手法です。
火薬は6世紀~7世紀頃、中国の練丹術師の手により、偶然作り出されたものだといわれております。それまではもちろん現在の花火とはまったく違うもので、硝石を用いた狼煙程度のもの。
秦の始皇帝が全土統一をした際に、北方民族の匈奴の侵入を防ぐために築いた万里の長城には、その存在を示すように要所で狼煙が焚かれたということです。
火薬が発明され、技術が発達すると敵を驚かすための爆竹や爆発を起こす武器として使用されるようになりましたが、それは現在の観賞用の花火とは形質が違うものでしょう。
はなやかに夜空を彩るような花火ができたのは、十四世紀のイタリア・フィレンツェでした。
火花が散る様子は壮観で、王侯貴族の間で流行し、それは富と権力の証として、戴冠式や王族の結婚式などに打ち上げられるようになったのです。
日本で最初に花火を愛でたのは実は徳川家康公でした。
イギリスの王から贈られた花火は手筒の色とりどりの火柱をあげるタイプのものだったということです。すぐに大名たちの間で話題になり、中国から招聘した花火職人が打ち上げ式の花火を披露したことで大流行します。
ここでもやはり「富」「権力」の象徴としての意味合いが強いですね。
花火に日本らしい縁起が加わったのは八代将軍・吉宗の時代のこと。
1731年に天候に恵まれない日が続き、翌年の5月、6月まで長雨が続きました。そのことによって本来麦を収穫できる時期にその大半が腐ってしまい、5月の米が稲穂を芽吹く時期には害虫が発生しました。そして歴史上最悪の大飢饉に見舞われたのです(享保の大飢饉)。
多くの民が飢餓に苦しみ、たくさんの命が失われました。
そして将軍吉宗は慰霊と疫病退散の祈りをこめて水神祭りを執り行わせたのです。
その際に大きな花火を上げさせたことから、毎年川開きの日には慰霊の意をこめて花火を打ち上げるようになりました。
この時に加わった花火の縁起は「鎮魂」です。
ご先祖様たちが命をつないできたからこそ、今の私たちはあるのです。
花火を見る時には今ある感謝を忘れないようにしましょう。

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