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オパールの少女 第二章

第二章 翡翠

(1)
あれは百年くらい前のことだっただろうか。
天子さまの代替わりで明治から大正に時代が移って少しした頃だった。
ちょうど世の中が不穏な空気に包まれる前の二年ほど。思えば翡翠がそれから先のこの国を見なかったことがせめてもの救いだと痛感する。
大正時代というのは西洋化された日本が目まぐるしく変わって一段落した時代。
生意気にも世界に台頭しようと息巻いて活性化していたのかもしれない。
その頃の私の名は高遠薫子。
伯爵家の遠縁の娘ということで伯爵家に世話になっていた。
跡取りの無い伯爵家に傍系の娘が養女に入ったという体で。
男は戦争に行かなければならないのはいつの時代でも同じことなので、女伯爵も珍しくはない。それはもちろん異能による洗脳の賜物だったけれど、見た目は16歳の見目麗しい娘がそのようなことができるとは誰も疑うこともなく、貴族という身分はあまりにも便利で都合が良かった。
当時私は女学校に通っていたが、今さら何でもできるもので、学業は言うに及ばず、振る舞いや嗜みは誰よりも優れていて、もちろん学校でも人気の優等生だった。

「薫子さま、浅草に新しいカフェができたそうですの。行ってみませんこと?」
「あら、素敵なご提案ですわね。比沙子さま」
「わたくしもご一緒してよろしいかしら?」
「もちろんですわ、舞子さま」
「それでは次の日曜日にいかがでしょうか」
「楽しみですわね」
「うふふ」
とまぁ、このように貴族らしく日常はぬるい。
ですわ、オホホの彼女たちの頭の中はお花畑にレースの世界。いずれは家同士の格が釣り合う親の決めた相手と結婚して、やっぱりお茶会で砂糖菓子なのだ。
 

約束通り、次の日曜日には比沙子様の車に乗せていただき、私は舞子様と三人で連れだって浅草を訪れた。
比沙子様は赤い薔薇が描かれたモダンなお着物に金糸が浮かび上がる黒い帯をキリリと締めて、何ともハイカラなお召し物が印象的だった。
「比沙子さまのお着物素敵ですわね。バラがよくお似合いですわ」
それに対して舞子様はレースをふんだんに使った水色のワンピース。舞子様の明るい髪色がひきたつ洋装姿はスズランのように可憐だった。
「舞子さまのワンピースも素敵。ヨーロッパメイドかしら?まるでお姫さまみたい」
「そうおっしゃる薫子さまも意外性があって驚きましたわよ」
比沙子様は面白そうに笑んでいらっしゃる。
私はあえて少年のようなパンツスタイルで長い髪はポニーテールで動きやすくまとめて登場したのだ。
「だってどうおしとやかに取り繕うにもお二人を前にしては無駄ですもの。ならばエスコートするような気分の方がよろしいかと。浅草は物騒なところもあるみたいですし」
「歌劇団の男装の麗人みたいですわ。たしかに薫子さまは合気道の達人でいらっしゃるから、最高のナイトですわね」
舞子様も安心とばかりに人懐こい笑みを浮かべた。
二人の令嬢は私を合気道の達人だと信じて疑わなかったが、それは人よりも身体能力が高く強靭な肉体ゆえ。異能による怪力など諸々のことは秘密であるが、そこいらの屈強な武人にも引けを取らぬほどの自信はあった。
 
浅草は金龍山(浅草寺)を中心に昔から観音信仰が盛んな場所だった。
古くは飛鳥時代に遡る。
隅田川から引き揚げられた一躰の聖観音像をお祀りしたところから歴史は始まった。
それが江戸時代になると町人たちの拠り所となり、芝居小屋や見世物小屋などが集まる娯楽・芸能の遊興地として、いつでも人が賑わう町になったのだ。
1890年(明治23年)に竣工された地上66メートルの陵雲閣は眺望用の最高層建築物として、さらに人々を浅草に引き寄せた。
当時としては日本一の高さで、直線的で八角形のモダンスタイルな西洋建築はまるで別世界のように珍しかったのだ。
東京に来たならば浅草を見なくては帰れまい、とそんな風潮もあり、目新しい商売はすべてこの地から始まったといっても過言ではない。
「まずは観音様へのご挨拶ですわね」
比沙子様のご提案通りに私たちは仲見世に足を踏み入れた。
ここでは毎日が縁日のようだ。
雷門をくぐって本殿まで続く道の両脇には競うように様々な店が軒を連ねる。
ともかく人が多く、活気があって雑多なのだ。
「比沙子さま、舞子さま。この界隈はスリも多いのですってよ。お気を付けあそばして」
「まぁ、怖い」
比沙子様は美しい顔を曇らせた。
「そうはいいましても、楽しみませんとね。御嬢さま方は私がお守りいたしますので、ご安心を」
比沙子様の執事の久我山が主人の側を離れぬようぴったりと寄り添ったので、私が舞子様の手を取った。
「舞子お嬢さま、参りましょうか」
「薫子さまったら、ほんとに凛々しくていらっしゃるわね。頼もしいですわ」
無事にお詣りを済ませた私たちは噂の陵雲閣の展望階へと登った。
ここでは日本初の電動エレベータがあり、エレベータは8階までなので、最上12階へは階段を上る。中にも土産物などを商う店が30店ほどひしめき合っているのが、江戸の商売人らしく逞しい。
最上階に上ると舞子さまは緊張しているように背筋を伸ばした。
「何だか下を見るのが怖いですわ」
舞子様はやはり高いところが苦手なのか、展望ガラスの側に寄ろうとはしない。
とてもかわいらしい方なのだ。
比沙子様も最初は怖じていたけれど、好奇心の方が勝ったらしい。
「薫子さま、こちらにいらして。見応えありますわよ」
舞子様は久我山執事に任せて、私は比沙子様に並んで窓の外を見た。
雲をも凌ぐ、とは名ばかりかと侮っていたものの、果てしなく見渡せる帝都は広く、世界はどこまでも続いているかのように思われた。
「よい眺めですわね」
長い時を生きてきた私でも人間がこのような建物を生み出すまでに文明が発展するとは想像してもいなかった。素直にそう感動したのを覚えている。
「これは登ってみた甲斐がありましたわね」
比沙子様と笑みを交わすと私達は舞子様と久我山執事の元へと戻った。
 
例のカフェというのは、仲見世を交差する大路の入り口に店を構えていた。
それは英国式アフタヌーンティーをサービスするカフェで、黒いメイド服に白いエプロンを着けた小奇麗な女給がずらりと並んで出迎えてくれるのだ。
比沙子様の話によると採用試験の倍率も高く、それなりの給料がもらえるので、求人にも憧れのカフェなのだそうだ。
「お嬢様方、何になさいますか?」
久我山執事が優雅にメニューを見せてくれる。
英国式のアフタヌーンティーといえば、サンドイッチやスコーン、ケーキなどの三段重ねが当たり前だが、特に珍しくもないのでわざわざここで頼む必要もない。
はしたないけれど、周りの客席を見回すと、緑色の不思議な飲み物を美味しそうに飲む女学生風の二人組が目に飛び込んできた。
「久我山さん、あの緑色の飲み物はなんですの?」
「薫子さまも好奇心旺盛な御方ですね。あれは最近流行のメロンクリームソーダという飲み物だそうですよ」
さすが執事という人種は事前のリサーチも余念がないのだ。
比沙子様と舞子様も興味深そうにそちらに目を向けた。
「やはり郷に入っては郷に従え、ですわよね」
「そう致しましょう」
人生初のメロンクリームソーダは衝撃的で刺激的だった。
それはもう、ピリピリと舌が痺れる感覚が斬新で、アイスクリームが氷に触れてシャリシャリと不思議な触感も初体験。
メロンソーダ自体も何とも癖になる味だった。
「欧米の方々はこんなものを飲んでいるのねぇ」
「驚きですわ」
それから私たちは土産などを物色する為に通りを散策していた。
「薫子さま、あの『コロッケ』という食べ物をご覧になって。みなさま、手づから召し上がってますわ。なんだか美味しそう」
「コロッケって海老や蟹をクリームで和えて揚げた物ですわよね」
すると久我山執事が三人分買い求めて手渡してくれた。
テーブルペーパーのようなもので包まれているが、じんわりと温かい。ほのかに湯気があがり、何とも香ばしい匂いがした。
「比沙子お嬢様、旦那様と奥様には内緒ですよ。ジャンクフードをオススメしたなんて、叱られてしまいますからね。ささ、熱いうちに召し上がってくださいませ」
食べ歩きなどお行儀の悪いことだと窘められる良家の子女には、コロッケというジャガイモを揚げたスナックは小腹を満たすのにもちょうどよく、浅草ならではの雰囲気に令嬢達も何やら見識を広めたようでご満悦だった。
舞子様は病床のお祖母様にお土産をと色とりどりの飴にしようか金平糖にしようか迷っている間に比沙子様はご自分用に和紙を表紙にしたノートをお求めになっていらした。
 
(2)
その時、風が吹いた。
風にまぎれて声が聞こえた。
『たすけて』と。
「つむじ風でしょうか、目にゴミが・・・」
「大変、舞子さま」
二人の令嬢が執事に庇われている隙に声の主を探す。
刹那、感覚は鋭敏に研ぎ澄まされる。
横の辻二つ向こうに四つ這いに土を掴む者がいた。
頭巾で視界を塞がれた小さな子供、その手は縄で縛められていた。。。
「まったく世話のやけるガキだな。もうそこだからとっとと歩け」
人買いは乱暴に子供を立ち上がらせて縄を引いた。
血が沸騰するような憤りを感じ、私は連れの令嬢達に向き直った。
「わたくし、急用を思い出しましたわ。ごめんあそばせ」
「薫子さま?」
「久我山さん、二人をお願いしますね」
「は、はい・・・」
私を送り届けるまでが任務と心得た執事は狼狽しただろう。
「薫子さまって気儘でミステリアスですわね。まぁ、そこが魅力なのですけれど・・・。比沙子さま、私たちは帰るとしましょう」
いささか諦め気味の舞子様の溜息を耳に残して、私は身を翻した。
ナイスフォローか、厄介ごとには関わらない貴族の処世術か。
ともかくありがたい対応だった。
 
私は人買いを追った。
子供を助けたい気持ちは逸るが、人が多すぎる。
しかし子供を縛めた人買いが堂々と表の道を歩くべくもなく、彼等は見世物小屋の裏手へと回ったのは都合がよかった。
物陰にじっと息をひそめて子供を解放する隙を窺うしかない。
見世物小屋の主人は老婆で、人買いとは顔なじみのようだった。
「あんたが連れてくる子はいつも器量がいいからねぇ」
老婆は機嫌よく煙管を咥えた。
「いい見世物になると思うぜ」
人買いが子供の頭巾を外すと虹色の光を帯びた白髪がこぼれ落ちた。
「ほぅ、白髪に緑の瞳とは珍しい。異国の娘かえ」
「だからか。コイツしゃべれないみたいでなぁ。役に立たなきゃ客でも取らせろよ」
「上玉だね。いいだろう、買ってやるよ」
なんと忌々しい会話か。
そうして小屋に消えた老婆は金を取りにいくのだろう。
今しかない。
人買いに縛められた娘の姿は私を激昂させた。
どれだけ長く生きても消し去ることのできない禍々しい記憶。
私を裏切り売った男の顔は、あの男が死んでも終生忘れることはない。
血が抑えきれないほどに早く巡る。
私は瞬時に人買いの首根っこ掴み、少女を肩に担いで風のように駆った。
辻を曲がった空き地に大男を軽々と組み伏せた。
一陣の風が吹き抜けたほどの刹那、これほど早く動ける人間などいないのだ。
ギシギシ、と大男の腕が軋む。
「お前、この娘を攫ったな」
何が起きたかも理解できない男の瞳には怯えの色が見えた。
「俺は親からこの娘を買った」
「嘘だ」
「本当だ」
「お前はクズの匂いがするんだよ」
生き物はその生死の直感には抗えない。
大男は急に小さくなった。
生物としての格の違いを前にしては平れ伏すしかないのだ。
ぶるぶると震える大男は見苦しい。
「お前、生きたいか?」
「見逃してくれるなら、この娘にはもう関わらん」
「どうするかな。お前は心を改めないだろう。人は過ぎ去ったことを都合よく忘れるからな」
本質を射抜かれて、大男は額づいた。
「もう人攫いはやめる」
「お前を一人見逃したところで理不尽が消えることはない」
幾度となくこの力を存分に開放すれば楽になるかと思ったことか。
私とて境界の住人なのだ。人買いと大差ない。
もしもこの男に縁ある者がいれば、憎しみの連鎖が広がるだけなのだ。
「去ね。この娘を追うなよ」
腰が抜けたようにしゃがみこんでいた人買いは渾身の力を込めたのか、一目散に駆け出した。逃げ足が速いということは生存には欠かせない重要な要素なのだ。
私は少女の縛めを解いてあげた。
縄の跡目が赤紫の痣になっている。
「ひどいな、邸に戻ったら手当てしてあげるから、我慢してね」
少女はこくこくと頷いた。
「おや、君は言葉がわかるんだね?」
少女の瞳は明るい緑の不思議な色だった。
「はい。話すこともできます」
「それはよかった。私が君を守ってあげるよ。名前は?」
「翡翠・・・」
「そうか。きれいな瞳の色だね。ぴったりの名前だ」
と、そこまでは上々だが、いったいこの少女をどうやって邸まで連れて帰ろうか。車を捕まえるにしても・・・。
「ともかくその容貌は目立ちすぎるな」
人買いが残して逃げた荷物を物色すると、小奇麗な風呂敷があったので、翡翠の髪が見えないように覆った。人買いから追剥をしてしまったことになるが、あの男の方がかなりの罪を犯しているだろうから気にもとめない。
翡翠の身形をちらりと眺めると絣の着物はまぁ、ヨシとして、裸足なのであちこち傷だらけなのが痛々しい。
「ロクデナシが、ケチって草履も与えないとは。とりあえず履物を買いに行こうか」
翡翠は不思議そうに私を凝視めていた。
私は彼女を軽々と抱き上げると目線を合わせた。
「私は薫子。君はそうだな、私の従姉妹ってことにするか。もう安心していいからね」
翡翠はもうひとつこくりと頷いた。
危険はないと悟ったようだった。
「何か食べたいものはある?」
「ホットチョコレイトが飲みたいです・・・」
「いいね。後で用意させよう」
翡翠は初めて笑った。とても可愛かった。
 
邸に迎えられて、翡翠はずっと大人しい様子だった。
まずは傷ついた体を癒すことが先決。人攫いに遭い、恐い思いもしただろう。
メイド達の甲斐甲斐しい世話の賜物で徐々に回復していくのはうれしい限りだが、私は翡翠とは距離を置いたほうがいいのかと戸惑いを覚えていた。
私が翡翠を救う際に見せた姿は通常の人の振る舞いではなかった。
獣に等しい人外の力を見せたのは軽率であったと思う。
そのことに関して彼女が言及しないのは単なる気遣いなのだと考えていた。
ところがそれが少し違うように感じるようになったのは、体が癒えてもどこか不安そうであるのが気になったからだ。
ちゃんと話をしよう、とその朝私は翡翠の部屋を訪れた。
「体はもう大丈夫?」
「はい、薫子さま。あの・・・お話があるのです」
どこか思い詰めて縋るような瞳。
「今日は天気がいいから、庭に出ようか」
「はい」
フリルで縁取られた白いワンピースは翡翠の髪と馴染んで、庭園に佇む姿はまるでまるで外国の絵画のようだった。
「薫子さま、私ちゃんとお礼を言えてなくて。助けていただいてありがとうございました」
ぺこりと頭を下げるとさらさらと髪がこぼれて七色に輝く。
「どういたしまして」
私は花壇に咲く黄色いフリージアを手折ると翡翠に手渡した。
「とてもいい香りがするんだよ」
翡翠は誘われるように、鼻先を掠める甘い香りに驚いたように目を見開いた。
「ほんと、いい匂い。地上の花はとてもきれい」
彼女も地上以外のところから来たということか。
何も問い詰めることはない。
ただ、待つ。
溢れ出る言葉のままに、時を急かすこともない。
「薫子さま、私は地底から逃げてきたんです」
「地底に人がいるってこと?」
「はい。私は地底人特有の珍しい難病にかかり、研究所に連れて行かれるところを逃げ出したのです」
なんと唐突な話であろう。
「人に感染る病気ではないので安心してください」
まだ13歳だという幼さでこの娘は人を思い遣る心を持っている。
それにしても地底に人が棲んでいるなど考えたこともなかった。しかし海の底に棲む我々がいるのだから、その存在は不思議でも何でもないのかもしれない。
「追っ手が心配なの?」
「いいえ。地底の人間は私が地上に来たことも知らないでしょう」
翡翠は真摯に私の目を見据えた。
「私はもう長く生きられないのです。それが恐ろしくて・・・」
これが彼女の恐怖だったのか。
私は何と応えてあげるべきかわからなかった。
自分の存在さえもよくもわからぬものを。
ましてや私は彼女の恐れる死というものを超越した者なのだ。
「うん。死ぬのは恐いよね」
「せっかく助けていただいたのに、私は死んでしまうんです」
「それは君のせいじゃない。せめて私がずっと側にいるから。けして一人にしないと約束するよ、だから一生懸命生きてほしい」
私は翡翠を抱きしめた。
この華奢な体で大きな恐怖と戦っているのだと思うと愛しくて、絶対に守ると決めた。
「明日から一緒に食事をしよう。私を『お姉さま』と呼んで。本当の姉だと思ってくれるとうれしいな。これからは何をするにも一緒だよ」
「はい、ありがとうございます」
翡翠は透き通った大粒の涙をこぼしていた。
私はもう一度その体を抱きしめた。
 
 (3)
「随分とアグレッシブな出会いだったんだねぇ」
ダイヤは思わぬ勧善懲悪活劇になかば呆れているようだった。
「人買いってトラウマだったから、見境も何もなかったのよね。頭に血が上っちゃって」
ダイヤはじっと口を噤んでいた。私の気持ちを慮っているのだろう。
人魚は死なない。
正確には、死んでも息を吹き返す。
首を切られてもくっつけておけば治るし、この心臓が射抜かれても再生して甦るのだ。
殺された経験は数えきれないほどあり、その度に甦って難を逃れてきた。
『器物百年を経て妖となる』という言葉がある。
命を宿さない器物でも百年経てば妖怪にもなるという付喪神の話は嘘ではなかったようで、命をもって長い時を生きてきた私だからこそなのか、数々の異能が備わったのだろう。おかげで最近ではそうそう死ぬようなことはなくなった。
「今でこそ立派に妖怪の仲間入りだけど、最初から強かったわけじゃないから。人攫いに遭ったこともあるし、売られたこともある」
「辛い思いをしてきたんだね」
「おかげで心身ともにふてぶてしくなったわ。翡翠を助けることもできたんだし」
ダイヤと翡翠は同じ病に罹患した者同士。
同じように地上にやってきた。
「ボクたち地底人にとって地上は憧れなんだよ。元々は地上で暮らしてきたわけだからね。還りたいと願っていた場所なんだ」
「逃げてきたって言ってたわね」
「ああ。この病気の発症は稀なんだ。確率でいったら何百年に一人の発症だから、見つかれば研究対象として国属病院に連れて行かれちゃうんだよ。収監といった方が近いかな。モルモットなんて御免だよね。ボクも見つかる前に逃げ出したんだ」
「それぞれに色々な運命を背負っているものだわね」
「うん。でも翡翠はまだ13歳だったんだろ?大変だったろうに。勇気があるな」
「ダイヤだって地上に辿り着いたじゃない」
「必死だったからね。どうせ死ぬなら行ってやる、って意地でも思ったよ」
「翡翠も同じこと言ってたわ。人買いに捕まったのは不運だったけど、芯の強い子だったのよね」
私の脳裏には、あのはにかむような愛らしい笑顔が甦っていた。
私の長い人生においても翡翠と過ごした二年間は楽しく輝いていた日々だと断言する。
 
彼女がどのように亡くなったのか、地底人特有の同じ病に侵されたダイヤには告げないようにしようと私は思った。


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